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ノイズキャンセラー 第八章

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第八章

 エレベーターを降りたところで芹沢と別れた。休み時間は残り少ない。
 休憩室に入ってすぐに琴美を見つけた。琴美は口を尖らせながら、「もう、休憩終わるでしょう? 帰りにお茶に付き合ってよ」と、言った。
 亜沙美が「お茶ね、わかった」と返すと、満足げに笑った。機嫌を直してくれたようなので、亜沙美は私物をロッカーにしまいに行き、コール室に戻った。
 午後、亜沙美は芹沢から、習熟度の確認を兼ねた講義を受けることになっていた。ミーティングルームにノートパソコンを持ち込んで行われる。芹沢がすでに準備してくれていた。
 軽い説明の後、簡単なテストを受ける。芹沢が亜沙美の隣に座り、一緒に画面を見ていた。小さな画面を二人で覗くので、距離が近い。芹沢から、かすかにコロンの香りがする。亜沙美は落ち着かなかった。
 芹沢が画面の端の黄色いアイコンを指さした。長い指に一瞬見惚れてしまう。慌ててアイコンをクリックしようとして、マウスを動かしすぎた。
「緊張してる? 簡単だから大丈夫だよ」
 亜沙美は「はい」と言って、俯いた。
 気を取り直して、シミュレーターソフトを起動させる。
 前半はケーススタディだ。顧客の抱えている問題を解決するためにまず原因を特定する必要がある。
「ケース1」
 音声読み上げソフトの独特の声が聞こえてきた。
「発送遅延についての問い合わせが入りました。お客様は三日前に注文し、昨日到着予定の商品がまだ届いていないと言っています」
 よくある問い合わせだった。
 亜沙美はまず支払い情報のタブを開いた。認証は、注文後すぐに下りている。発送されていないためまだ決済はされていない。クレジットカードの問題でない場合、出荷準備中に起きたトラブルの可能性が高い。注文に対して変更が入った場合などにコメントの残る欄を開く。『damage』とある。破損があったとしても、在庫があれば新しい商品で発送準備が始まっているはずだ。遅れは一日程度で済む。商品名をクリックして、在庫状況を確認する。『2‐3日で出荷』と表示されている。
 亜沙美はサイトから顧客あてに送られているメールをみた。出荷準備中のトラブルで、最大五日程度の遅れが生じる旨が、知らされていた。
 このケースの場合の案内内容の選択がクイズになっている。
 亜沙美は、『顧客に商品到着を待てるかどうかの確認をし。不承であればキャンセルを案内する。』を選んだ。
 画面に『正解』の文字が大きく表示された。
「確認手順に、なにも問題はなかったよ」
 横で見守ってくれていた芹沢が話しかけてきた。声が近い。亜沙美は自分の顔が赤くなってはいないかと、心配になる。
「この際の、お客様への案内のポイントは、先に案内メールが送られていることを、伝えること。ただ、知らせておけば良い問題ではないので、お詫びをしながら、『いついつに、メールでお知らせしておりますように』と、さりげなく織り交ぜる」
 お客様によっては、「見落としてました。待ちます」と言って、あっさり終わる場合もあると芹沢は言う。
 当然、物わかりの良い顧客ばかりではない。
 予想される要求に、『急ぎなのですぐに届けてほしい。』がある。
「在庫がない物を届けられるはずがないので、お詫びを繰り返すしかない。こちらでできることは、ご迷惑をおかけしたお詫びに、クーポンを発行するくらいかな」
 亜沙美の判断で、千円分までは発行できる。それ以上になると、役職者の承認がいる。
「後で、長くかかる苦情への対応方法をするから、またその時に詳しく話すね」
 亜沙美は、その講義をはやく受けたかった。クレームを上手く処理できるようになれば、この仕事に不安がなくなる。人と直接会わずに済むという理由で選んだ仕事ではあったが、今は、芹沢に指導してもらい、成長していきたいという気持ちが強くなっている。
 亜沙美は、『ケース3』まで、問題なくクリアした。『ケース4』は、『配達完了、未着』のケースだ。配送業者が大手ではなく、特別提携先になっている。亜沙美で処理できることかどうかの判断がまず必要になる。配送の状態は、手渡しになっている。宅配ボックスになっている場合などは、いったん、ボックスの確認を依頼する。今回は、別人に届けてしまった『誤配』と判断した。
 解答の選択肢の一番上が『配送専門部署に問い合わせを転送する。』になっていたので、選んだ。
 不正解だった。
 亜沙美は何を間違えたのかわからなかった。
「まだ、この種類の対応は受けたことなかったからね」
 受けたことはないが、研修ではならった。
「マウス貸して」
 亜沙美が咄嗟にマウスを離せなかったため、一瞬、芹沢の指が手に触れた。慌てて手を引いた。芹沢は特に気にも留めずマウスを操作し始めた。
「配送の状態は『配達完了』になっていることを確認できてたよね。で、こっちの変更履歴を開いてみると」
 芹沢がポインターを合わせてクリックした。
「配送専門部署がアラートを入れているのがわかる」
 亜沙美は思い出した。先に、届け先を間違えられた先から連絡が入っているケースがあるのだ。配送の番号から注文元を特定し、配送専門部署で配送業者へ回収後、正しく届けてもらうよう依頼をしてあったようだ。
「解答の選択肢を全部読めば、可能性に気づけたのに」
 亜沙美は思い込みですぐにクリックしてしまった。芹沢が「慎重な佐藤さんにしては、珍しいなと思った」と笑った。
 残りのケーススタディはすべて正解できた。
「今までのところで何か質問はある?」
 その都度丁寧に説明をしてもらったので疑問点はない。亜沙美は「特にないです」と返した。
「佐藤さんは優秀だからな」
 口元がつい緩んだ。
「僕が新人の時は、説明がまず苦手で大変だった。美容師にも一応接客はあるけど技術職だからね」
 亜沙美は、芹沢が美容師を辞めた理由が気になっていた。しかし、質問はできなかった。
「次は佐藤さんが少し苦手そうなことだから、頑張ろうね」
 苦情対応の研修だ。
「佐藤さんはまだ、そこまでのクレームにあたってないから、想像しにくいかもしれないね。僕は、最長、三時間文句を言われ続けたことがある」
 亜沙美は絶句した。
「暴言を吐いてくれると、返って楽なんだ。警告音声に切り替えるための要件を満たすから。やっかいなのは、淡々と不満を言い続けるタイプ」
 亜沙美は、大きな声を出されるのが怖いので、どちらも同じように苦慮する気がした。
「心配しなくても数時間コースは、年に数回もない」
 亜沙美は「わかりました」と、言ったものの当たってしまった時のことが心配になる。
「文句を言うのも疲れるから普通は一時間以内にはおさまる」
 確かにその通りだ。亜沙美は、苦情をいうより我慢した方が楽だと思う。
「対応が長くなる問い合わせの共通点は何かわかる?」
「怒っている、ですか?」
 芹沢は「そうだね」と頷いた後、「それもあるけど、解決できない問題が起きてしまってるんだ」と言った。
「最初に怒って入電しても、すぐに解決できれば長引きはしない」
 対応に時間のかかるお客様が繰り返すのは「納得できない」というワードだと芹沢が言った。
「ただ、納得していなくても、怒っていなければ電話を終えてもらえる」
 結局怒りを鎮めてもらうことが重要なのだ。
「対立が生じた時、人は二手に別れる。戦うか逃げるか。ただ、顧客と対立が生じた場合は、どちらも選択できないよね」
 コールセンターの担当者は、対立を解消するための努力をしなければならない。 
 芹沢がマウスを操作し、パワーポイントのファイルを開いた。
『傾聴と共感』
 画面の中央に表示された。
「顧客は解決ができないのは仕方がないとわかっていても『誠意が足りない』と感じていると振り上げたこぶしをおろすことができない」
 顧客の立場になって、問題を捉えることが大切と説かれた。ただ、「いますぐ届けろ」と言われても、できないものはできない。そういう時にどうすればいいのか、亜沙美はわからなかった。
「たとえば、『お子様へのお誕生日プレゼントが間に合わず、お誕生日が台無しになってしまわれたのですね。お子様がさぞかし、悲しまれたことでしょう。お届けできず、本当に申し訳ございません』と、具体的な状況をしっかり言葉にしながら謝罪することで、お客様は話を聞いてもらえていると感じる。これが、『ご迷惑をおかけし申し訳ございません。』だけだと、適当にあしらわれている印象を与えてしまうんだ」
 相手が怒っていたら、動揺してただ謝るだけになりそうだと亜沙美は思った。
「中には、無理難題を要求してくるお客様もいる。その時に気を付けなければいけないのは『論破しない』こと。対立が始まったあとは、お客様にとってはどちらが正しいかはもう関係なくなる。とにかく、寄り添うことが大切だよ」
 寄り添うとは、相手の考えや感情にフォーカスした相槌を心掛けることと、言われた。
 芹沢から、『ご不快にお感じなんですね』『お客様がお怒りになるお気持ちはごもっともでございます』など、いくつか、相槌に使える言い回しを教えてもらった。
「ただ、できないことを、できるように感じさせるのはNG」
 亜沙美は、またどうすればいいのかわからなくなってきた。
「寄り添いながら、お客様が落ち着いてきたところでサイトとしてできることを提案する。クーポンの発行がほとんどだけどね」
 芹沢が「クーポンの発行を提案するのは、十分に話を聞いた後ね」と、付け加えた。早い段階で言うと「そんなはした金でごまかされるか」と、逆に怒りをかうことがあるらしい。
「最初から『誠意』を、クーポンと思っている人も中にはいるけどね」
 怒っているというより、柔らかな口調で『誠意』を繰り返すのはクーポンの要求のケースが多いという。クーポンの発行履歴を確認できるページを教えてもらった。
「明らかに迷惑がかかっていて、商品代金とくらべて過剰な要求をしてこないかぎり、気にせず発行して良い」
 芹沢がサイトのヘルプページを開いた。
「ここに免責事項が列挙されている。サイトの登録の時点で、顧客はこの免責事項に同意しているとみなされる。だから、無理な要求に応える必要はどこにもない。ただ、佐藤さんの段階でこれを持ち出す必要はないよ」
 亜沙美でおさめられなかった場合、役職者の対応に移行する。
 実践できるかはわからないが、どうすべきかを知ることで亜沙美の不安は少し和らいだ。
 いつでも見返せるようにと、芹沢が、パワーポイントのファイルを、メールに添付して送ってくれた。講義の後の残りの二時間は、簡単な問い合わせばかりだった。

 仕事の後は、琴美と会う約束がある。亜沙美は少し憂鬱だった。芹沢と昼食を食べに出かけた時のことをいろいろ訊かれるかもしれない。
 会社を出ると、琴美が「なんだか寒いね」と、首をすくめながら言った。たしかに昼間芹沢と歩いたときより随分気温が下がっていた。
 いつもの喫茶店に入った。
 亜沙美の心配をよそに、琴美は午後の研修のことを訊いてきた。
「どうだった?」
「ためになったかな。できるかはわかんないけどね」
 琴美は、眉根を寄せて顔を横に振った。
「甘い、甘い。あんなので黙る人は、そもそもごねたりしない」
 亜沙美も、言われてみるとそんな気がしてきた。
「とにかく、世の中には芹沢さんみたいなサイコパスでないとさばけない人種がたくさんいるから、さっさと怒らせて交代してもらった方が早い」
 さすがに頷けなかった。精一杯、怒りを鎮めるための努力はすべきだと思う。
 後は、別にたわいないおしゃべりをした。琴美が、次の休みの日に亜沙美の家へ行きたいと言い出した。
「狭いから泊まりは厳しいよ」
 亜沙美はあらかじめ断っておく。琴美は夜には用事があるから、夕方には帰ると言った。部屋に人を呼ぶのは初めてだった。特に散らかしてはいないが、今夜から少しずつそうじをしておこうと思った。
 研修の翌日には、実践できる機会がまわってきた。軽い愚痴に近い苦情だったが「困るんです」を繰り返す女性の対応をした際に、共感を心掛けた。
「困ってますけど、お姉さんに話を聞いてもらえたからもう良いです。次からはちゃんとするように、係りの人に言ってください」と、比較的はやく切り上げてもらえた。
 対応後すぐに、芹沢から『早速、いかせたね!』と、コメントされた。琴美のいうように、どうにもならない相手はいるだろう。それでも、亜沙美は自分のスキルが少し上がった気がして嬉しかった。
 亜沙美が慣れてきたこともあるのか、とくに芹沢がモニタリングに入るほどのトラブルはなく過ごせた。
「佐藤さんは、本当に手がかからない」
 休みの前日、退勤前の振り返りの時間で芹沢に言われた。
「次の新人も、佐藤さんくらい優秀だと、研修資料作りがはかどるんだけどね」
 芹沢は笑っているが、亜沙美の心は沈んだ。芹沢は、いつまでも自分のブラザーではないという現実をつきつけられる。独り立ちして芹沢との接点が少なくなれば、今の想いは落ち着くかもしれない。
 亜沙美は、複雑だった。傷つきたくはない。しかし、今のこの高揚をともなう状態も、手放しがたい。芹沢が誰とも付き合わなければいい。
 亜沙美には両想いの経験がない。高校二年生の時にクラスメイトに恋をしていた。ほとんど話すこともなく、三年の時にはクラスがわかれた。そして、あの噂を流された。同じクラスの頃にはほとんど目が合わなかったのに、廊下ですれ違う時に、相手が亜沙美をみていることが増えた。噂を聞いているんだと亜沙美は悲しくなった。
 短大時代に付き合った相手のことは、今考えてみると『彼氏』が欲しかっただけで好きだったわけではなかった。
 琴美が本当は芹沢をどう思っているのかも、気がかりの一つではある。

 休みの日になった。琴美は、お昼前に食材を持ってやってきた。お昼ご飯を作ってくれると言われていたので、キッチン周りは特に念入りに掃除をしておいた。
 琴美にエプロンを貸すと「目玉焼きの柄で可愛い」と、喜びながらつけた。必要な調味料を出していく。『コチュジャン』がいると言われ亜沙美は手をとめた。
「何それ?」
「ないの?」
 亜沙美は、知らないので、当然持っていなかった。
「ないと、タッカルビが作れない」
 韓国料理の調味料なのはわかった。名前を聞くと、タッカルビがどうしても食べたくなる。亜沙美は、近くのスーパーにコチュジャンを買いに行くことにした。琴美が「タッカルビ以外でも、炒め物なんかにコチュジャンをちょっと入れると良い感じに甘辛くなるよ」と、言っていた。
 亜沙美は「二十分くらいで戻れるはず」と言い残してでかけた。
 スーパーへ向かいながら、亜沙美は考え事をした。琴美は料理がうまい。もし、芹沢に腕前を披露する機会があったら、簡単に心をつかんでしまうのではないか。亜沙美は、琴美から、料理を習っておこうかと考えた。ずるい発想ではある。人を好きになると、自己中心的で、衝動的になるものだ。亜沙美は、ストーカーの黒井の行動を、少し理解した。行き過ぎなのは確かだが、好きな相手には、どうしても会いたくなるのだ。 
 芹沢は今家で何をしているのだろうか。料理をするのだろうか。近所に住んでいれば、ばったり会う可能性もある。琴美を羨ましく感じた。
 コチュジャンを買って家に戻る。食材は全部切り終えてあり、あとは調理するだけになっていた。琴美は見学させてもらった。
 琴美は手際が良かった。芹沢と行った食堂のオーナーを思い出した。芹沢は、もしかしたら手際よく料理する人が好みかもしれない。オーナーのことも、見ていて飽きないと言っていた。オーナーとは年齢が離れているけれど、琴美となら可能性はある気がした。思わずため息をついた。
「どうしたの?」
 フライパンを振りながら琴美がこちらを見た。
「お腹が空きすぎて」
 亜沙美は笑ってごまかした。
 琴美の料理はやはりかなり美味しい。亜沙美は、料理を教えてほしいと頼んだ。琴美は「えー、簡単なのしか作れないけど良いの?」と、謙遜している。
「本当に美味しいから、私も作れるようになりたいの」
 琴美は「嬉しい」と、三回も続けて言った。亜沙美は少し胸が痛んだ。
 翌々月から琴美のシフトは入札制に移行するらしい 入社から半年をすぎると、自分の休みたい曜日や働きたい時間帯のシフトを選んで希望を出す。成績順で、好きなところを取っていけるのだ。
 入札制になる前は、フォローアップ期間が終わっても、自分のブラザーと同じシフトになっている。琴美のブラザーも芹沢だったから、今はまだ同じシフトなのだ。
「今のところ結構成績良いから、あさみんと同じ曜日で休めると思う」
 毎週の休みのどちらかで料理を教えてくれると言う。琴美の家に頻繁に行けば、いつか芹沢に会えるかもしれないと亜沙美は思った。

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