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ノイズキャンセラー 第六章

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第六章

 新山の勤めている外資系の保険会社では、『商談のロールプレイング』が頻繁に行われる。新山は、ロープレが好きではなかった。牧野から、毎日、一回はするように言われている。それも、できるだけ『オンカメ』でと。『オンカメ』とは、ビデオ撮影をしながらのロープレのことを指す。
 今日新山は、先月デビューした新人の北見に、ニーズ喚起の話法をみせることになっていた。
 別の班だったが、牧野から頼まれた。北見と同じ班のベテランの須藤までが来ていた。須藤は個性的な色のスーツを好み、胸ポケットにハンカチーフを入れている。班が離れているのに須藤の事は入社後すぐに覚えた。
「新山さんは、優秀なので有名ですから見学させてもらいます」
 須藤が薄笑いを浮かべた。
 新山は、成績がそれほどでもないことを知っていての嫌味と受け取った。
「資格試験もいつも満点近くで合格されるし、国立大学を出て銀行にお勤めされてたんですよ」
 なんのために持ち上げられているのかわからない。新山は警戒した。
 北見は、新山の経歴には興味がないらしく「そうなんですね」と、適当に返している。須藤は鈍感なタイプなのか、今度は新山の容姿をほめ始めた。
「そろそろ始めないと、新山さんに時間とってもらってるんで」
 北見が須藤を止めた。
「それもそうですね。すみません。話題の方とご一緒できるから、つい」
 須藤がようやく話をやめた。
 北見は、班が同じだから慣れているのかもしれない。
 最初は嫌味を言われたのかと思ったが、純粋に人を褒めるのがくせになっているだけかもしれない。
 銀行にも社長の前になると異様に腰が低くなるタイプがいた。本当にすり手をしていたのを見たとき、新山は呆れた。
 しかし、明らかなお世辞でもたいていの人が喜ぶ。
 それだけ人は賞賛に飢えているのだろう。
 新山は、北見のような二十代前半で、収入がそれほど多くない相手に契約してもらうにはどう説明するのが良いか、真剣に考えてきた。
 新山にとっても良い練習になる。
 北見は元々はカフェの店員だった。金融業界にいた新山とは収入に大きく差があったはずだ。
 保険会社の補償給制度は、経験と前職の収入によって支給される額が算出される。もちろん、遊んでいて二年間最初の金額が支給されるわけではない。保障される額が多ければ、その分、求められる契約数も多くなる。
 北見はよくて18万円のランクだろう。
 家賃や食費など生活にかかる費用に加え、営業の際の飲食費、交通費など考えると手元に残る資金はほとんどない可能性がある。出せて、月六千円が限度と仮定してプランを考えた。
 月六千円の保険料を負担したとする。保険に入らなければ浮く六千円で何ができるか。居酒屋で飲む。ラブホテルに行く。遊園地へ行く。映画は三本観られる。賭け事に使う人もいるだろう。
その費用のすべてが、ある人にとっては有意義であり、ある人にとっては無駄なのだ。保険に入る入らないは、価値観の違いだ。今、手厚く入っている相手に追加を頼むのも一つの方法だが、主流は他社からの乗り換えだ。国内の生命保険会社の契約を見直してもらう。乗り換えについては、メリットがなければ提案すべきではない。
 やはり新規開拓が重要になる。価値観を覆すためには、相当の説得力がいる。保険に加入していない理由は限られている。保険料が払えないか、保険に必要性を感じていないかのいずれかがほとんどだ。
 健康で、まだ保険に加入していない相手となると、どうしても若い世代になる。保険に興味を抱いてもらうのが難しい。
 新山は「始めますね」と、声をかけた。
「私の紹介は、須藤さんがさっきしてくださったので、自己紹介は省きます。保険の話を二十分だけ聞いてほしいとお願いして、お会いしている設定でいきます」
「お願いします」
 北見の表情が引き締まった。新山は、カメラの録画ボタンを押した。
「北見様は、保険にどんなイメージをお持ちですか?」
 北見は、首をかしげながら考える演技をしている。
「はあ、保険は正直よくわかりません」
 多くの若い世代が実際に言いそうな返しをしてきた。
「そうなんですよ。みなさんそうおっしゃいます」
 あえて、強く肯定した。
「今の北見様のように保険がよくわからないとおっしゃっていたお客様が、私のお話を聞いていただいた後には、みなさん、よく理解できたとおっしゃるんですよ。本日お時間をいただいたのは、保険を契約していただこうという目的ではなく、北見様のようなお若い方に、保険について知っていただくためです。安心してください」
 北見は「話を聞くだけなら」と、頷いた。ここまでは、保険の話をするときの導入のスクリプト通りだ。
「まずは、いくつかご質問しますね」
 一方的に説明するのでは、聞いているふりをされるだけだ。質問を投げかけることで客を話に参加させる手法だ。新山は、保険金を受け取れるのはどんな時かなど、簡単な質問をしていった。北見は、新人とはいえ保険会社の研修をみっちりと受けた後だ。当然すべて知っているが、適度にわからないふりをして答えくれる。
「若いうちに、保険に入った方が得だと思いますか?」
 北見は少し考えた後「得ではない気がします」と言った。
「なぜですか?」
 新山は北見の顔をまっすぐに見据えた。どう返すか迷っているのか、目が泳いでいる。
「若いと病気になりにくいし、あまり死なないですよね」
 自信なさげに言った。
 新山は「そのとおりですね」と、頷いた。
「北見様のお考えは、病気になりそうな年齢近くで入った方が得ということですね?」
「はい、そうです」
 新山は「それでも早く入った方が得をする可能性は十分にあります」と言った。
 北見が、ロープレのための演技ではなく、新山の話に関心を向けたのがわかる。最初から真剣には聞いてくれていた。しかし、それは提案の手順を身につけるためにだ。今は、新山の話の続きを知りたがっている。
「わかりやすい例でお話ししますね」
 新山は医療保険のパンフレットの保険料表のページを開いて、北見の前に置いた。それから、電卓と筆記用具を渡した。
「北見様は現在二十五歳ですね。過去には戻れませんが、まず、二十歳で加入していたことにして、平均余命までの保険料負担を計算してみてください」
 新山はまず、二十歳から、男性の平均寿命七十八歳からの年数を計算してもらった。そこに、月々の保険料を十二倍してもらった数字をかけると、百数十万になる。
「うわ……」
 北見は計算したことがなかったらしく、驚いている。
「平均寿命まで生きたとしたら、思っていた以上に保険料負担がありますね」
 北見は頷いた。
「これだけをみたら、得をするなんて、『ない』と思われたでしょう?」
「そうですね」
 北見は、間髪入れずに返してきた。
「次に、二十五歳加入のケースで計算してみてください」
 電卓をたたき終わった後に北見が「あれ?」と言った。計算結果はさきほどとほとんど変わらない。
「では、もう一つ」
 新山は、須藤と同年代と思われる四十五歳のケースを計算させた。
「あっ、ほとんど同じだ」
 須藤が電卓を覗いて、声を出した。
「これは、保険料の算出方法を考えれば、ごく当たり前の結果です」
 保険金が支払われる可能性が高いほど、保険料は高くなる。
「多くの日本人が、中年以降には医療保険に入っています。その頃には必要性を感じる不調が出始めるからです。北見様の考えていた通り、それからでも、入れるのであれば遅くはありません。ただ、健康診断で何か疾病が発見された後だと、保険会社から謝絶される、あるいは、割増保険料を追加されます」
 須藤が、北見の隣で深く頷いている。
「入院保険がおりるのは、何も病気の時だけではありません。若い方は活発な分、事故でけがをする率が高いのです。自動車の任意保険の保険料が、若い人ほど高いことからもわかりますね」
 新山はそこまで言った後に「北見様に、もう一度お聞きしますね」と、微笑んだ。
「いつ加入しても、死ぬまでに負担する保険料がほぼ同額なら、健康で保険に入れる可能性の高い若いうちから保障があった方が得だと思いませんか?」
「思います」
「ありがとうございます」
 新山は、わざといったん言葉を切った。ひと呼吸おいて続ける。
「今日は、お約束しました二十分が過ぎてしまいました。もし、後、三十分ほどお時間をお許しいただけるのであれば、北見様のお役に立てるお話をご用意しております。いかがでしょうか?」
 北見が「もっと、話を聞きたいです」と、言った。
 新山は「ありがとうございます」と言った後で、一度カメラを止めた。
 須藤が立ち上がって拍手をし始めた。
「素晴らしい。お噂以上の実力で感動しました」
 大げさに感じながらも、新山は嬉しかった。須藤が保険業界で長く生き残っているのは、人を褒めるのを躊躇わないところが良い方に作用しているのだろう。
 あまり褒めすぎると心にもないと取られそうで、新山は控えてしまう。
 新山は、医療保険のパンフレットを手前に引き寄せて、閉じた。
「ここまでは、あくまでもこちらを向いてもらうための話法です」
 北見が真剣な顔をしている。
「医療保険の契約がたくさんとれても、仕方がないですからね」
 北見は「はい」と、強く頷いた。
 こうやって話を聞いてもらえれば、心を動かせるだけの話術を新山は持っている。問題は、話を聞いてもらう段階にたどり着くのが難しいことにある。
 新山たちの成績は、契約件数と契約から得られるコミッションでみられる。報酬に影響があるのはほぼコミッションの方で、契約件数は、表彰や奨励旅行への招待規準になるだけだ。医療保険にはほとんどコミッションがないので、件数としか考えない。
 新山は、医療保険の加入にそれほどメリットを感じていなかった。医療保険は、入院日数に応じた給付金と、手術給付金が主な契約内容だ。医療保険は、その基本契約に特約をつけられる。特約には、女性疾病特約や、三大生活習慣病特約など、いろいろな種類がある。銀行員時代に、担当先の客から見せられた保険証券に、いくつもの特約がつけれられていて驚いたことがある。長年高い保険料を負担してきたが、一度も入院したことがないとぼやいていた。入院がないだけで健康体ではないので、今更入りなおすこともできない。特約を外した途端に、その病気にかかったらと思うと、部分解約にも踏み切れないと言っていた。
 今更取り返しはつかないが、保険に入る時点で、もっと吟味しておくべきだったのだ。当然、勧誘する側に大いに問題がある。誠意が足りない。
 以前と違い、新山は募集人の気持ちも理解できる。成績が悪ければ、保険会社はいやおうなく首を切る。首にならずに皮一枚でつながっているような状況だと給料が少なすぎて生活できない。生き残るには契約を取り続けるしかない。
 保険会社に限らず、営業の仕事はそういうものだ。ただただ数字に追われてもがき苦しむか、充実感を味わいながら活動できるかは、本人次第なのだ。保険の営業は、他の業種よりさらに向き不向きがはっきりと別れる。
 新山の期の研修を担当したトレーナーから、その考えをきっぱりと否定されたことがあった。
「保険の営業で成功するのに、向き不向きは関係ありません。やるべきことをやればいいだけです」
 保険営業で成功するためにやるべきことを、できるか、できないか。それが向き不向きだと新山は考えていた。トレーナーは、成績優秀者しかなれない。自分自身が向いている方の人間だから、関係ないと思えるのだ。
 営業の世界は、数字がすべてだ。今の新山が何を言っても、できない言い訳にしか聞こえないことは、十分わかっている。
 伸び悩んでいる。それが新山の抱えている現実だった。
 新山は、北見に若い世代が事故に遭いやすいと言う話を、社内で用意されている資料を使って改めて説明した。医療の発達で、以前であれば亡くなっていたような怪我でも一命を取り留めるようになったと説明した。そこから、高度障害の話に結びつける。車いす生活になった時にかかるリフォーム費用などを提示する。
 北見はまだ独身だ。もし、高度障害になった場合、実家に戻ることを想定し、どれくらいの規模のリフォームが必要かを具体的に想像してもらう。リフォーム費用はかけようと思えばいくらでもかけられるが、切りの良い一千万円で設定した。
 新山は「高度障害になったとしたら、北見様は今と同じ仕事を同じように続けられますか?」と、質問した。
「移動も大変なので、同じスタイルは無理かもしれません」
「職種にもよりますが、収入は減る可能性の方が高いですよね」
 新山は障害年金の話をした後で、毎月決まった保険金が受け取れる家計保障定期保険を提案した。定期保険は、保険料を払っている期間に保険金の支払い事由に該当する状態になった場合におりる。新山の会社では、高度障害になった時、被保険者が死ぬまで、毎月決まった額の保険金が支給され続ける商品を取り扱っている。
「生活を続けるのに必要な収入を、障害年金と家計保障定期で確保できれば、後は、ご自身の生きがいのために、無理のない程度に仕事をすることができます。安心できませんか?」
 北見は頷いた。
 新山は、用意しておいた設計書を出した。主契約に、先進医療特約だけを付加したシンプルな医療保険と、家計保障定期を組み合わせ、保険料を六千円台におさめた。
「今、北見様に万が一のことが起こってしまった場合、今後三十五年間毎月保険金が支払われます」
 新山は、契約の意思の確認をした。
 北見は「契約します」と言った。ロープレなので、そこはあっさりと受け入れられる。実際は、六千円とはいえ、もっと悩むものだ。
「保険は定期的な見直しが必要な商品です。この先、ご結婚され、お子様がお生まれになった時には、さらに大きな保障が必要となるでしょう。その時にも、最適なプランをご提案させていただきます」
 一度契約をもらえば、会社を辞めない限り新山が担当となる。契約者の数を増やしていけば、人生の転換期で新たな契約をもらえるサイクルができあがっていく。
 牧野がいつも「長く続けることが大事だ」と言うのは、それが理由だ。苦しいのは最初のうちだけらしい。
 確かに、ベテラン勢は、悠々自適に見える。
 北見から「勉強になりました」と、言われた。新山と北見ではタイプが違う。新山は元銀行員という雰囲気を守って、かしこまった提案方法をとっている。北見にはもう少し親しみやすいスタイルの方が合っている気はした。それでも、保険提案の切り口の一つは提示できた。自分に合うようにアレンジしていけば良いだけだ。
 牧野から頼まれ、請け負った新人の相手だったが、新山自身にも勉強になった。
「ところで、新山さん」
 カメラを片付けていると、須藤から話しかけられた。
「大きな契約が入りそうなんですってね」
 里村の契約の事を言っているのだろう。
「大きいと言えば大きいですが、保障性ではないので」
 里村は運用目的で、一時払いの個人年金保険に入ってくれることになった。初回は、喫茶店でナポリタンとコーヒーをおごらされうんざりした。里村がいかにも不健康そうだったから、新山は保険の種類の説明をしただけで、その日を終わらせていた。次の、プランをみせるアポイントは取らずに「保険の基礎知識があるだけで、そのうち良かったと思える場面があるはずです。今のお話を、里村さんの大切なご友人にも聞いていただきたいのですが、どなたかご紹介いただけませんか?」と、次のターゲットへ移ることにしたのだ。
 里村は、友人も紹介してくれなかった。インターネットのつながりばかりで、本名や住んでいる場所を知らないらしい。
 無駄に終わったと思っていたが、後日里村から、「手元にある一千万円を運用できる保険はないですか?」と、電話がかかってきた。
 今週末に、契約書を持って里村の家に行くことになっていた。一時払の年金保険は、コミッション率はそれほどよくない。その上、コミッションが入るのが、契約時のみだ。
 フルコミッションで働く社員の給与は、保障性保険の継続手数料の積み重ねでできている。契約時のコミッションは、月払い保険料の数十パーセントが募集人に入る。それ以降は、継続手数料として、二年間、数パーセントが入り続ける。
 一時払は保険料の支払いが初回だけなので、給料に反映されるのは一度だけだ。ただ、一千万円の契約であれば、ちょっとしたボーナスになる。新山は、保険会社の報酬の仕組みを聞いたときに驚いた。外資系の保険会社だからかもしれないが、成績が良ければ良いほど、コミッション率も高くなる。稼げば稼ぐほど、稼ぎやすくなるのだ。新山の成績は首になるほどではないが、その仕組みの恩恵を受けるにはほど遠い。
 一年目から開花する優秀な営業マンもいる。保険会社に入ったことで、新山は自分の実力不足を嫌というほど認識させられた。
「新山さんは、お入りになった時から、こういう一時払の契約をバンバン取ると思ってたんですよ。今までなかったのが不思議だって、みんな言ってます。うちが保障性保険にこだわりがあるからって、気にせず提案していけば良かったのに」
 まだ、実際に成果が上がる前から噂になっているとは思っていなかった。急に、須藤が同席をしたいと言い出したのは、噂の真偽を見極めるためだったらしい。
「銀行時代の大口定期先に、片っ端から提案していかないんですか?」
 須藤から率直な質問をされた。
「銀行の頃の担当先には声をかけないことにしているんです」
「そんな、もったいない」
 須藤が大きな声を出した。
「新山さんと同じ経歴と容姿を持ってたら、絶対、フルに活用しますよ。おまけに、話法まである。知人友人から広げていくのは正攻法ですが、他にルートがあるなら、楽な方へ行くべきでしょう」
 須藤のあまりの勢いに、新山は圧倒された。北見は、自分の荷物をまとめて「すみません。アポがあるんで」と、部屋を出ていった。
「牧野の方針ですか?」
 須藤の表情が嫌悪に満ちていた。新山は慌てて否定した。
「銀行を辞める時に、個人情報についてなどいろいろ誓約書を提出したので」
「甘いですよ」
 須藤がため息をついた。
「ここで生き残りたかったら、その考えはやめた方がいいです」
 須藤が言っていることは正しい。しかし、新山は肯定できなかった。
「新山さんが伸び悩んでおられるから、みんな心配してますよ。牧野はスカウトするだけして、いつも新人を育てないから、気をつけた方がいい。もっと、別の班の優秀者の話を聞くなど、自分で情報収集した方が良いです。話を聞きたい相手がいたら言ってください。私が取り持ちます」
 須藤の提案は魅力的だった。
 新山は「ぜひ、お願いします」と返した。須藤は満足げな顔をした。
 須藤が牧野を嫌っているのはわかった。新山からみると牧野は優秀で人当たりもよく理想の営業マンだ。しかし、営業所内での評判は良くないのかもしれない。
「さっきは、大きな声を出してしまい申し訳ありませんでした。あの話法があって、今の成績はおかしいと本気で感じたので、つい興奮して」
 新山は、須藤に礼を言った。
 自分の成績がいまいちなのは、牧野のせいではない。『覚悟』が足りないからだ。いろいろな成功者の話を聞けば、覚悟ができるかもしれないと新山は思った。
 
 里村との契約の日になった。
 前日に有名な洋菓子店で焼き菓子の詰め合わせを買った。
 里村の家は海の見える場所にあった。新山が以前よく釣りにきていた港の近くだ。転職をしてからは一度も釣りをしていなかった。この一年ずっと追い立てられて過ごしていた。家から二十分ほど車を走らせれば海があるのに、近づきもしなかった。心に余裕がないことで悪循環を作っている気がした。新山は久しぶりに釣りに行きたい気分になった。里村の商談が無事終わったら、具体的に計画を立てることにした。
 里村の住所の建物名に『荘』とついていたので、古いアパートを想像してはいた。着いてみると、予想をこえた古さだった。生垣に、枯れた草が巻き付いていて、看板のアパート名は消えかけている。錆びた門扉をあけようとして触れると、塗装がポロポロと剥がれて手のひらについた。敷地内に入り門を閉めた後で、手を軽く払った。
 割れた青い植木鉢が目に入り、新山は不安になった。
 里村が運用の相談をしたいと電話をくれた時に、普通預金に資金を放置していたら、銀行に運用をすすめられて困っていると言っていた。聞かされた内容が、いかにも銀行が提案しそうな流れだったため、信じた。
 里村の住んでいる文学荘は、共有の正面玄関があって、中で住民の部屋が別れている古いタイプの集合住宅だ。
 すりガラスの貼られた引き戸には、一部ガムテープで補強がしてあった。インターホンもない。
 新山は玄関前から電話をかけた。中から「はーい」と、里村の声が聞こえた。建付けが悪いらしく、引き戸をガタガタいわせながら開けてくれた。
「古い建物なもので、すみません」
 里村は最初に会った時と似たようなよれよれのセーターを着ていた。新山は挨拶をして、手土産を渡した。里村は洋菓子が好きなのかとても喜んでくれた。
 文学荘は、入ってすぐ靴を脱ぐようになっていた。里村が布地が擦り切れたスリッパを出してくれた。
「祖母の頃に、下宿をやってたんです」
 今は里村が一人で自由に使っているらしい。
「部屋は沢山あるんですけど、落ち着いてお話できる部屋がないんですよ。スタジオが一番ましなので」
 部屋の用途が、古びたアパートに似つかわしくない。新山は、営業スマイルで頷いた。スタジオは二階にあるらしい。里村が先に階段をあがっていく。やけに軋むので、板が抜けないか心配しながら後に続いた。
 通された部屋は、四畳半ほどの広さで、確かにスタジオだった。壁の一辺に大きな緑色の布が張られている。ライトや反射板が置いてあった。何の撮影をしているのかわからないが、結構本格的な印象だ。
 部屋の隅に折りたためる簡易デスクが置いてある。パイプ椅子とアンティーク調の高そうな椅子が用意されていた。
 アンティーク調の方に座るように言われた。新山は遠慮したが、「撮影用なんです。新山さんの方が僕より軽いと思うので、お願いします」と説明された。新山は家具の価値について知識がない。貴重な椅子の可能性がある。壊してしまうと問題なので、新山は、「立っておきます」と言った。里村から、再度椅子を使うようすすめられ、もう一度遠慮をした。それでも、また強く勧められ、仕方なく腰かけた。特に問題はなさそうだ。
 新山はまず、自分に相談をしてくれたことに、丁寧なお礼を述べた。それから、雑談風に、運用しようとしている一千万円が余裕資金であるかの確認をする。投資経験はないと電話で聞いていたので、慎重になる。
「しかし、里村さんはまだお若いのに、一千万円も貯蓄されているのはすごいですね」
 給料の良い仕事に就いていれば可能な額ではある。しかし、聞いている年収で貯めるのは、家賃の負担がないとしても容易ではない。
「趣味でやっていることがたまたまお金になっただけなんです」
 里村がはにかんだ。何かを撮影することが趣味なのだろう。
「趣味でされていることで、起業の予定はないのですか? 運用する資金は、どんなに短くても五年は寝かすことになりますよ」
 里村は、顔の前で両手を振りながら、頭まで左右に激しく動かした。
「き、起業なんて、大それたこと、とんでもない」
 里村はあくまで趣味だと言い切った。
「ちなみに、ご趣味はなんなんですか?」
 質問されるのを待っていたのだろう。里村の表情が急に生き生きとした。
「ドールの服を自分でデザインして制作しています」
 人形の服を作るのが趣味なのはわかったが、それが一千万円を生み出すとは思えなかった。
「僕の一番大切にしているドールは、マリアと言う名前なんです。マリアに似合う服を考えて作っていたらだんだんと凝っていって、技術もあがったので」
 新山は「素晴らしいですね」と、返した。人形の服を売って稼いだ資金なのはわかった。
「一点、おいくらで販売してるのですか?」
 里村は首を傾げながら少し考えた後、「いろいろです。数万円ほどの初心者向けのもあります」と言った。
「服にも初心者向けがあるんですね」
 里村に「ドールのことかと思いました」と、言われた。
 それから、里村のドール講義が始まった。
「数万円のものは、容姿が選べないんです。顔立ちや髪色などにこだわって作ってもらうと、少なくとも二十万円はします」
「高価ですね」
 たかが人形にと感じながらも、顔には出さない努力をしていた。
 新山は、里村の話を真剣に聞いていたが、収入になった理由はわからないままだった。
「どうやって、お金を貯めたんですか?」
 話が途切れたところで、率直に聞いた。
「服の制作過程を動画撮影して、インターネットに公開したんです。それが、かなり好評だったから、今までに作ってきた服をドールに着せて、ここで撮影して、デザインのポイントを解説したりと、細々と」
 動画の再生数が多かったので広告収入が得られたということだ。
「最初のうちは、貰ったお金でドールを買っていたんです。いろいろなタイプの容姿でオーダーしていました。でも、どんなに奇麗な子がうちに来てくれても、マリア以上に愛せないのがわかって」
 里村は「愛着がもてなくて」と言い直した。
「今は、所有しているドールでミニドラマを撮影して皆さんに楽しんでもらっています」
 ドラマの動画も好評なので、現在も毎月数十万円の収入にはなっているらしい。
「カスタマーサービスのお仕事をしなくても十分に生活できるんじゃないですか?」
「いやあ、今、上手くいっていてもいつまで続くかわからないですから。それに、生活がかかってくると、純粋に楽しめなくなります」
 里村の考えには共感できた。
「後で、マリアたちをご紹介しますね」
 新山は、興味を持っていなかったが「嬉しいです。ぜひ!」と、笑顔で頷いた。
 資金については心配ない。新山は、商品の説明に入ることを告げた。 
 今は、円建てでは利率が低すぎて全く運用にはならない。米ドル建てと豪ドル建てで一時払いの個人年金保険の設計書を作ってきた。新山は、為替だけでなく株価などの資産の価格変動の影響をうける『変額保険』ではなく、債券だけで運用される『定額保険』を、提案するつもりでいた。まずはパンフレットを使って、説明する。仕組みはいたってシンプルだ。運用期間の予定利率は、半月ごとに見直される。契約した時点での予定利率で十年間運用されるのだ。利率については、急激に変動することはほとんどない。問題は為替レートの方だ。一千万円で、どれだけの外貨が買えるか。豪ドルは、一晩で二円以上動くことがある。米ドルに関してはそれほど変動率は高くない。
「入ります」
 仕組みを説明しただけで、あっさりとそう言われた。新山は、里村が元本割れのリスクを理解していないと判断した。
 案の定、里村は、為替についての知識がほとんどなかった。新山自身は米ドルの方が好きだが、あくまでも里村に選んでもらわなければならない。
 新山は、米ドルと豪ドルの変動率について説明した。
「里村さんがバケツを持っているとしますね。水をはった大きめのたらいと浴槽、それぞれから、バケツ一杯分の水を汲みだした場合を想像してください。たらいの方は大きく減ったと感じそうですよね。実際に抜かれた量が同じでも割合が違えば、影響が変わってしまうんです」
 基軸通貨である米ドルは他通貨より圧倒的に流通量が多い。その分変動率は小さくなる。
「為替の変動率が大きいと、元本割れの可能性はたかまります。ただ、リスクとは振れ幅のことを指すので、リスクが高いというのは、その分、収益を得られる可能性も高いのです」
 里村は、新山の顔を食い入るように見つめながら「なるほど」と何度も頷いた。
 一通り説明をすると「豪ドルでいいです」と、里村が言った。
「どうせ、棚から牡丹餅で入ってくるお金なので、多少減っても平気だし、増えたらラッキーだし」
 月に何十万も継続して入っているのであれば、幸運なだけではなく、大勢に需要があるものを提供できている気はしたが、本人がそう考えているものをわざわざ否定しなくていい。新山は、豪ドル建ての方の契約書を出した。
 新山は、契約前の重要事項の説明をはじめた。立て続けに元本割れの可能性について承知していることの確認をしていくので、気が変わってしまう場合がある。この段階を、すんなりと通過してもらうために、事前のリスク説明が重要なのだ。
 新山は契約時だけ使ってもらう高給ボールペンを、渡した。里村が重さに驚いている。
「『はい』にチェックしたら良いんですよね?」
「文面を確認していただき、問題なければ『はい』にチェックをお入れください」
 里村は、上から順にチェックを入れていく。一応は目を通してくれている。いい加減な相手は、後でそっちで入れろと言い出すことがある。トラブルの元になるので、たとえレ点であろうと本人につけてもらう。
 契約者欄に署名ももらえた。しかし、保険の契約は、保険料を振り込んでもらった時に、完了する。体況と関係のない一時払の保険は審査で謝絶になる心配はないが、振り込むまでに気が変わられる可能性がある。
「為替も、今、安定しているので、資金をいれるのには良い時期かと思われます」
 週明けに為替レートが安定している保証はどこにもない。それでも、新山はそう言った。
「予定利率が変わってしまう来週の水曜日までにはお振込みいただきたいのですが、ご予定はだいじょうぶでしょうか?」
「来週は遅番なので、朝一で銀行に行きます」
 里村が断言してくれたので、新山は安心した。
「新山さんはこの後、お忙しいですか?」
 里村の説得に時間がかかる可能性を考慮して、後には何も入れなかった。
「次のアポまで、少しは余裕があります。移動も考えると……」
 最初、三十分と言おうとしたが、「一時間ほどなら」と返した。里村はあっさりと契約してくれたので、新山は礼をしたい気分だった。用件はだいたいわかっている。
「じゃあ、マリアとティータイムをご一緒していただけますか?」
 新山の予想を少し上回る要求だったが、笑顔で頷いた。まさか、人形とお茶をする機会が訪れるとは思ってもみなかった。
「マリアのティールームにご案内します」
 スタジオを出て、里村についていく。廊下がところどころ軋む。里村が「こちらです」と、他の部屋と似たようなベニヤ板のドアを開けた。中に入ると、思わず「凄いですね」と、言ってしまうほどに様子が違っていた。
 広さは四畳半だが、内装が西洋の宮殿の一室を思わせる凝りようだ。人形も、新山が想像していたよりも随分大きい。小柄な女性ほどある。そして、美しい顔をしていた。女性が、結婚式の二次会で選びそうなドレスを身につけている。
 素材といいデザインといい、洗練された雰囲気で、隣に立つ里村が作ったとは信じられない。
「あちらのドレスを、里村様が?」
「今日は、もしかしたら新山さんに見てもらえるかもしれないと思って、中でも出来の良い服を着せておいたんです」
 新山は「ありがとうございます」と言った。
 里村から、マリアと向かい合う席に座るよう言われた。
「お茶をお持ちするので、マリアと待っていてください」
 新山は、二人きりにされるのかと考えた後で、おかしいことに気づいた。
 間近で観察すると、まつげが一本一本植えてあるのがわかる。うっすらと開いた唇から覗く歯の質感にもこだわりを感じた。人形と聞いて、正直馬鹿にしていた。実際目にすると、精巧で芸術品に近い物だった。新山は自分の視野の狭さを反省した。
 内装も、インテリアも、随分凝っている。銀行時代に担当していた社長の家で高級家具自慢をされたことがあるが、光沢がその時の家具と近い。相当お金をかけているのがわかる。
 今の広告収入はそれほどでもないが、過去にはかなり入ってきたようだ。マリアの後に、高価な人形を何体も購入したと言っていたので、数千万円は稼いだはずだ。
 こだわりをもって作っていけば、技術があがっていく。好きなことであれば、心血も注げる。結局、新山は営業の仕事がそれほど好きではないのだ。小器用にこなせるから、話法を褒められる。しかし、人というものは、多少わかりづらくても、熱意のある提案の方にきっと心動かされる。
 覚悟とは、熱意なのかもしれない。
 里村がお茶を運んできてくれた。
「いただいた時、紅茶に合いそうだと思いまして」
 新山の渡した焼き菓子も出てきた。
 ティーカップは白磁の美しいものだった。本人の服には無頓着すぎるのに、マリアのためにならお金をかけられるのだろう。当たり前だが、マリアは紅茶を飲まない。いつも二人でティータイムを楽しんでいると、里村は言うが、会話もなく、空しくないのだろうか。数千万円稼いだなら、現実の女性に貢げば良かったのではないかと新山は思う。里村の成功は、人形に愛情を注げるからこそ得られた。今も収入を維持できているのは、現実の女性にうつつを抜かさなかったからだ。
 新山は、自分の価値観で里村を見ること自体が間違いだと気づいた。新山なら、そもそも人形を買わない。
 お茶会の後は、他のドールを紹介された。マリアよりさらに精巧な作りをしているものがあった。
「ボディの素材から違うので、手触りが異なります」
 里村が良いと言うので触ってみた。体温こそないが、滑らかで柔らかで不思議な感触だった。
 帰り際、新山は心から里村にお礼を言った。契約のことだけではなく、今日一日でたくさんのことを学べた気がしていた。週明けの保険料振り込みを、もう一度依頼して、文学荘を後にした。
 帰宅してすぐに、新山は久しぶりにインターネットの通販サイトで釣り道具を物色した。竿は二本所有しているが、見ているうちに新しい物が欲しくなってくる。メバリングロッドがタイムセールになっていた。季節はもう少し先だが購入することにした。来週、土曜日はスケジュールがあいている。サヨリを釣るための仕掛けも一緒に注文した。
 


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門


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