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ノイズキャンセラー 第九章

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第九章

 新山は、月曜日の定例ミーティングの後、牧野に時間をもらっていた。
 牧野からの提案で、別階にある会議室で話をすることになった。数十人ほどの小規模なセミナーなら、この部屋で開いている。
 里村は午前中に銀行に行くと言っていた。今日の適用レートは十時過ぎには決まる。今のところ、金曜のレートから数十銭しか動いていない。里村の契約で今月はいったん乗り切れる。新山は今、保障性の保険の見込みが乏しかった。しかし、来月も再来月も成果をあげていかなければ、次の査定がある。補償給制度の恩恵を受けている二年間、三か月ごとに査定がある。成績によっては保障給のランクがあがる。もちろんその逆もある。新山は、入社時の保障給を維持するのがやっとの状態だった。銀行からの転職で、もともと高目のランクだったせいもある。
 銀行以上に稼げなければ、わざわざ安定を捨てた意味がなかった。
 会議室のドアを開けると、ブラインドが閉じられていたので、薄暗かった。滅多に使わないからか空気が冷え切っている。今は、最大四人が並べる長机が六台並べられていた。
 牧野が入ってすぐに明かりをつけ、暖房を入れた。広い部屋なので、なかなか効きそうにない。
 牧野が、出入り口に一番近い長机の椅子をひいて「どうぞ」と言った。並んで話すのかと思ったけれど、牧野は一つ前の列の椅子をひいて、向かい合うように置きなおした。
 牧野の表情がいつもより硬い気がした。
 座るとすぐに、「早速だけど、なんの相談?」と訊かれた。声も暗い。体調が悪いのかと心配になる。
「たいしたことではないので、後日でも良いのですが」と、返した。
 急に牧野の表情が明るくなる。
「たいしたことじゃないんだ。良かった。何? 何? 今聞くよ」
 牧野の変わりように新山は面食らった。
「成果をあげた直後だから、大丈夫だろうと思いながら、辞めたいって言われるかと思って心配したよ」
 まだ、辞めるまでは考えていなかった。
 新山は、先週須藤からもらったアドバイスについて説明した。まず、身近な成功者である牧野から話を聞くことにしたのだ。
「俺の話を聞かせるのは構わないんだけど、今まで言わなかったのは、あまりお薦めじゃないからだよ」
 牧野が笑いながら言った。
「俺はここに入った時に、最初に貯金を全部はたいて良いスーツを数着とかばんと、中古で小回りのきく営業車を買った。貯蓄はそんなになかったからそれで、本当に0になった」
 背水の陣で臨んだということだろう。牧野のよく口にする『覚悟』は、金銭的に自分を追い込むことらしい。思っていた以上に単純だった。
 新山が牧野から保険に入った理由も、考えれば、とにかく熱心だったからだ。
「後は、とにかく声をかけまくって、話を一度聞いてくれって頼んでまわった感じだから、新山さんとはタイプが違う。あまり参考にならないよ」
 牧野の前職は、地元スーパーの社員だった。最初は、前の会社のパートさんに片っ端から声をかけたという。
「とにかく、商品の内容を説明して、ご主人にはちゃんとした保険をかけた方がいいって力説してた。プランは、その時のリーダーが丁寧に作ってくれたから、変な物じゃないのは自信があった」
 新山は、牧野からプランのアドバイスをもらったことはなかった。その辺りで、放置しているように見られてしまうのだろう。
「新人の頃、自分の営業スタイルを『オレオレ詐欺方式』って呼んでた。片っ端から知り合いに『あー俺、久しぶり』って電話をかけまくったから」
 牧野の話は、あまり参考になりそうにない。結局、『数うちゃ当たる』ということらしい。牧野は元々、友達が多いタイプなのだろう。
「新山さんは賢くていろいろ知ってるから、俺から何もいうことないけど、悩んでるなら力にはなりたいと思ってるよ」
 新山も自分でわかっていた。入ってすぐの頃に、牧野からあれこれ指図されても全く聞き入れられなかったはずだ。金融業界でそれなりに成績をあげてきた自負があった。今では、新山個人の実力というより、銀行という看板に対する信用力で、成果があがっていただけだとわかっている。
「須藤さんの助言通り、成功者の話をたくさん聞くのは、モチベーションをあげるのに良いと思う。どうせなら、京都中央にいる本当の成功者に会った方がいいよ」
 京都市へは、高速を使えば二時間かからない。ただ、そのために京都中央の成績優秀者に時間を作ってもらうのは気が引けた。
「俺、前に、保険の世界で成功するのに必要なのは『覚悟』って話を偉そうにしたでしょう。あの時『覚悟』って言ったけど、新山さんの場合は、『図々しさ』がいると思う」
 遠慮していることを指摘された。
「あの人たち、基本的に自分語りが大好きだから、頼んだら喜んで話してくれるよ」
 牧野は軽く言うが、やはり新山は恐れ多くて頼める気がしない。
「新山さんは、なんかやっぱり遠慮がちだよね。須藤さんに頼るのも悪いと思ってるんじゃない? 俺が、知ってる範囲で成功者エピソードを教えるよ。その中から自分に合いそうなのを参考にしたらいい」
 牧野の提案はありがたかった。
 牧野は話が上手かった。エリアの中だけでなく、全国で表彰されるクラスの成功者の逸話をいくつか話してもらえた。
「今は、全国表彰されるほどの優秀者なんだけどね、新人の頃伸び悩んで、ある人に相談に行ったらしいんだ」
 誰でも、悩む時期があるということだろう。
「必死でアポを取っているのに、なかなか上手くいきませんって、どうしたらいいかを訊ねた時に返ってきた言葉が、すごいんだよ」
 新山も同じ悩みを抱えているので、はやく続きを聞きたかった。
「相談に行った人の息子さんが当時小学生だったんだけどね。『必死でアポを取ろうとしているのに、なかなかアポが取れない? 今日中にアポが五件取れなかったら、息子さんが殺されるって言われたら、あなたは何がなんでも五件のアポを取るんじゃないのかな? 必死って言うのはそういうことだ。アポが取れないのは、あなたが必死になってないだけだ。』って一刀両断されたってさ」
 結局は、自分を追い込めるかどうかなのはわかった。
「くじけそうになった時に、その時もらった言葉を思い出して頑張ったら、うまい具合にアポが取れるようになっていったらしいよ」
 新山には特に支えにできる言葉はなかった。今の話は逸話としては面白いが、新山にはあまりピンとこなかった。独身で子供がいないせいかもしれない。自分に向けられた言葉だからこそ響くのだろう。
「その人の話で、もう一つ面白かったのが、新人で伸び悩んでいる時期に、一度商談までこぎつけて、提案した結果断られた先にもう一度アポをとっていったというのがあったなあ。もう一度提案するんじゃなくて、断った理由を詳しく聞いてまわったんだって。基本的に商談相手が、知り合いの知り合いだから今後活動していくうえで参考にしたいのでと、時間をもらったらしい」
 なかなか勇気のいる作業だ。
 自分の失敗を次に活かす努力をしたのだろう。新山は、軽く気が滅入ってきた。
「同じことをしろって言ってるんじゃないよ」
 牧野は「何事も、合う合わないがある。自分の成功パターンは自分でみつけるしかないって、京都のナンバーワンの女性はいつも言ってるよ」と、付け加えた。
「とにかく、成功してる人は個性の強い人が多いね。『人の心はお金で買えます』と、講演で言い切った人がいたなあ。その人、とにかく人と会うたびに手土産を渡して、契約者には誕生日にもはがきを贈るんだ。『たかだか八百円程度のお菓子を買って渡しただけで、最初から、相手の態度が変わるので、一度試してください』って」
 収入が大きければ、それも可能かもしれない。新山は、今のままではいけないことはわかっていた。ただ、どう変わればいいのかがわからない。試行錯誤をしている場合ではなくなってきている。
「焦ることはないよ。長く続けてさえいけば、いつか、花開く。それに、自分の契約者に、そのうち保険金支払いが発生する。初めて死亡保険金の支払い手続きをしたときに、きっと、変われる。自分の仕事の使命を実感する時がくる」
 悠長なことを、と思った。牧野は、新山の今の成績を問題視していないのだろう。声をかけられる先はどんどん減っていく。契約をしてくれた相手に久しぶりに声をかけてみるのもいいかもしれない。また誰かを紹介してくれる可能性はある。
「ひとつ、アドバイスできることがあるとすれば」
 牧野が「資料を取ってくる」と言って、簡易応接から出ていった。牧野のことだから、また、精神論に近いアドバイスをくれるのだろう。
 牧野はコピー用紙を数枚持って戻ってきた。
「新山さんって、提案した後の成約率がすごく高いんだよ。説明が上手なのと話し方に安心感があるのが一つの理由ではあると思うんだけど、もう一つ、声をかける段階でかなりターゲットを絞っているんじゃないかな?」
 知り合いに声をかける前に、一応は吟味をしている。
「思うような成績にならないのは、そこが原因だと思うよ。多分」
 何がいけないのかが新山はすぐにはわからず、首を傾げた。
「新山さんのベースマーケットって、普通の人に比べて質が高いんだよ。ご両親も安定した職業だったし、本人も良い大学を出ているから知り合いの年収も平均より高い。前職の同僚も銀行員だしね。人より有利な畑を持ってるのは確かだ」
 牧野は「正直もっと契約をあげられるとは思っているよ」と、言った。「いったん、質ではなく量にこだわった活動をしてみたらどうかな」
 結局、根性論なのだと新山は思った。
「契約は相手のあることだから、新山さんの思い通りにはならない。収入もあって、新山さんの狙い通り保険にニーズがあったとしても、体況に問題がある人もいる。知り合いの既往歴を全部把握してるわけじゃないからね。だから、自分でコントロールできるのは、活動量だけだよね」
 活動量が足りないと言われているのはわかった。ただ、アポを取る先がなかなか見つからないのだ。
「具体的な話をするね。新山さんは今回の一時払保険の成果で、現状維持は確定できた。次の査定で保障給のランクをあげようと思ったら、来月末までにコミッションで後八万円と件数で三、必要だから、だいたい、どのくらい契約をあげればいいかはわかるよね」
 新山は頷いた。数字で言うのはたやすいが、実際簡単に取れる数ではない。
 牧野は電卓を叩きながら「新山さんは、声をかけた人に対する成約率が30パーセントを超えてるけど普通はだいだい15パーセントを切るくらいだからそれを規準にして、出したい結果に必要な活動量を計算して」と言った。
「毎日、二件ずつ余計に声をかけてみたら、目標を達成できる可能性があがるよ」
 予想よりは論理的なアドバイスだった。しかし、今より毎日二件余計に声をかけるのは、簡単ではない。
「無理だと思ってるよね。顔に出るのは珍しい」
 牧野が喜んでいる。
「新山さんと同じベースマーケットを持ってなくても、成果をあげられる人はたくさんいる。新山さんはその人たちより『メンタルブロック』が強い。新山さんがダメだと思い込んで声をかけていない先からも、成果があがる可能性は十分にあるよ」
 牧野がくれたアドバイスは、新山本人も把握できている欠点についての指摘だった。しかし、活動量にフォーカスする考えは、試してみる価値がある。
「見込み客を、探しなおしてみます」
 新山は、牧野に深く頭を下げた。
 メンタルブロックが強い。その一言に尽きるのだろう。メンタルブロックを外す程の動機付け。それがきっと牧野の言う『覚悟』なのだ。経済的な理由でも、使命感でも、奨励旅行でもなんでもいい。人それぞれだ。新山はまだ、闇雲になれるだけの何かを見つけられていなかった。
 元々、今日は電話を中心に営業活動をするつもりでいた。自宅に戻って当たれる先を探してみることにした。
 新山は、ここ数年自宅で一人暮らしをしている。父親は電機メーカーの本社勤務なので、単身赴任中だ。定年までの後数年、その状態が続くと言っている。母親は、自分の父親の介護のために京都市内の生家に戻ったような状態だ。こちらは、祖父の寿命次第だ。こういった事情もあり、母方の親戚の何人かは介護保証付き終身に加入してくれた。妹は声優の養成所に通いながら東京で暮らしている。
 新山は、大学の時にも一人暮らしをしていたので、簡単な料理はできる。その頃は食費を節約するために自炊をしていた。今は、外食が多いので食器はほとんど使わない。洗濯は肌着類と部屋着以外はクリーニングに出す。わざわざ散らかしはしないが、潔癖症でもないため、掃除は気になった時だけしていた。
 今日は、でかける予定がない。牧野にも自宅で営業活動をすると伝えてある。新山の勤めている会社は、保障給が出ている最初の二年間は平日に出社が必要だが、それ以降はミーティングのある月曜日と木曜日以外は自由出勤だ。しかし、会社に出ないだけで、土日も休まず営業活動をしているのが実情だ。稼ごうと思えば、年間数千万円の報酬が得られる世界だ。全国表彰記録を維持するために、貪欲に働く人もいる。
 新山も、成功するつもりで転職をした。そう甘くはなく、生活には困らないという程度しか稼げていない。
 牧野と話したことで、今までとは違う視点、発想の転換が必要だと感じた。
 明日には新しい釣り道具も届く。釣りに行った先で、見込み客を発見できるかもしれない。ゴルフ仲間から契約を貰う人もいる。
 新山は何件か昔の知り合いに電話をかけてみた。今まで除外していた先ばかりだ。大学時代に同じゼミにいた女友達と来週会う約束をした。久しぶりに大阪に出る。交通費はかかるが、行動範囲を広げるのは良いことに思えた。
 久々にFacebookにログインした。牧野の話の中にとにかくイベントに参加してはFacebookでつながり続ける方法をとった人がいた。連絡先を知らない相手を、検索してみる。数人見つけることができた。早速、友達申請をした。新山の世代は、FacebookよりTwitterの使用が多い。弁護士になった同級生が実名でTwitterに登録している。さすがに実名でTwitterをする気にはなれない。SNSも多様化している。趣味の釣りを再開したら、ニックネームでTwitterを始めるのも悪くない気がした。釣果の写真を投稿したい。
 いつか、成功への転換期はいつだったかを振り返り、今日の行動を人に話して聞かせることになる。新山はいつになく前向きだった。
 翌日、営業所へ出社すると、事務員の女性に呼び止められた。
「昨日、一時払の人の振り込みなかったわよ」
 里村の契約についてだった。
「出勤前に銀行に行くと言っていたので、寝坊したのかもしれませんね。後で電話をかけてみます」
 新山は事務員に礼を言った。今日は午前中に約束があって立て込んでいた。もうすぐ、銀行が開く時間だ。席にかばんを置いて、牧野に電話をかけることを報告した。長引けば、始業時のラジオ体操の時間に間に合わない。ベテランはラジオ体操の時間にはほとんど来ないが、最初の二年間は一応参加することになっている。
 簡易応接のひとつに入って、里村に発信した。
 なかなか出ない。留守電にも切り替わらないので、いったん切った。移動中の可能性はある。着信に気づけば、折り返してくれるだろう。
 今日は、高校の恩師にお礼に行く。新山はいったん里村の件をおいて、恩師の家に向かった。
 恩師は定年退職をし、ボランティアをしながら暮らしている。
 新山が転職してすぐに、恩師からは、五百万円分の定額保険と孫の学資目的の外貨建て年金保険に加入してもらった。生命保険はどうしても長期の運用になるので、本人にはこれ以上の提案は難しい。前回は、恩師が紹介してくれた義理の娘が子供の医療保険を二件契約してくれた。コミッションとしてはほぼ無いに等しいが、恩師の家族とつながりができたのがありがたかった。息子も教師をしている。部活動の指導もあり、なかなか時間がとれないので、息子にはまだ会えていなかった。
 恩師は新しく油絵を習いにいくつもりにしていると言った。リタイアメント後の第二の人生を楽しんでいる。一時間ほど雑談をして、午前の予定は終わった。
 里村からの折り返し電話はなかった。昼から出勤と言っていたので、まだ家にいる可能性はある。車の中からもう一度電話をかけた。また、出なかった。昼からの出勤であれば、帰宅は早くても二十二時を越える。また、明日の朝電話をかけるしかなさそうだ。
 営業所に戻って、牧野に相談をした。ひとまず、『夜何時でも良いから電話が欲しい』旨を手紙に書いてポストに投函しにいくように言われた。折り返しの電話がなければ、直接、朝一で訪問するよう指示された。
 気が変わったのだろうかと、新山は不安になった。
 里村は、思いがけず入った資金だからリスクは気にしないとあっさり契約を決めた。新山にとっても、里村の契約は、相手から連絡をもらい相談された思いがけない成果だった。契約書までもらったため、里村の分の収益はすでにカウントされていた。それが消えたとなると、別の契約で補うしかない。
 まだキャンセルになると決まったわけではないが、先に動いておいた方がよさそうだと新山は思った。
 銀行時代の契約は、その場で振込用紙と出金伝票を預かっていた。詰めが甘かった。人形とのお茶会にまで付き合ったので、すっかり油断をしてしまった。月曜日、ミーティングに出ず、一緒に銀行へ行くと言えば良かった。
 明日の午前は、来週の大阪出張の準備にあてる予定だったが、里村と一緒に銀行へ行くことに決めた。
 席に戻ると、回覧が回ってきていた。新年の挨拶用のノベルティの注文数を書き込むようになっている。早期注文の特別あっせん価格と書いてある。圧縮タオルひとつ八十円が目玉らしい。祝い箸のセットが六十円だった。粗品もすべて自腹で買わなければならない。先月、卓上カレンダーと月めくりのカレンダーを大量に発注したところだった。
 そろそろ年賀状をつくり始めなければと、干支の柄のついた絆創膏のセットを見て思い出した。
 新山のモチベーションは下がりきっていた。何もかもが億劫に思えてくる。迷った末に、通常商品の証券ケースを十ほどと、圧縮タオルを五十注文した。
 新山以外のチームメイトは、出はらっていた。牧野が席まで寄ってきて「大丈夫、振り込んでくれる」と、励ましてくれた。
「とっておきの、モチベーションの上げ方を教える」
 次の見込みを探すのに、モチベーションをあげたかった。
「新山さんは、心を落ち着かせる時、わざと呼吸をゆっくりとしない?」
「しますね」
「モチベーションが高いってことは、興奮してるのと似てる状態だから、落ち着きたい時の逆をすればいいらしいよ」
 牧野が、隣でハアハア言い始めた。
 新山は思わず「かなり怪しいですよ」と笑った。
「人のいないところで試してみて」
 牧野はそう言い残して営業所を出ていった。
 新山は、里村への手紙を書くことにした。まず、パソコンで入力したあと、便せんに手書きした。書き終わってすぐに、牧野が戻ってきた。タバコの臭いがする。牧野も気を揉んでいるのだろう。
 新山は里村の家に手紙を投函して、直帰することを報告した。
 里村の家から、自宅へ戻っている途中に電話がなった。車を道路わきに停めた。里村からの着信だった。慌てて出た。
「新山です。お待たせしました」
 つながってすぐに里村から謝られた。一時間休憩を使って連絡をくれたらしい。
「月曜日に、振り込みをしに銀行へ行ったんです」
 銀行まで行って、気が変わったということだろうか。
「明日で、ご説明した予定利率の適用期間が終わります」
 大きく変わるものでもないが、急いでもらいたかった。
「実は、銀行で別の商品をすすめられて」
「契約したんですか?」
 思わず問いただしてしまった。
「まだです」
 新山はホッとする一方で、銀行の商品の方へ代えたい気持ちがあることを察知した。
「どんな商品ですか?」
 里村は、実は仕組みがよくわからないと言う。
「土曜日に、もう一度新山さんに家に来てもらえないかと思っていて」
「わかりました。行きます。だから、それまでは銀行と契約をしないでくださいね」
 里村は「それは大丈夫です。銀行には来週まで考えると伝えてあります」と言った。なんとしても、土曜日に引き止めなければと新山は思った。
 もう、休憩が終わるらしい。新山は、ポストに自分からの手紙が入っているが、連絡が欲しかった用件は今済んだので破棄してほしいと伝えた。
 電話を切った後、新山はハンドルをこぶしで強めに叩いた。保険料の振り込みに来た客に、別の商品をすすめるなど営業妨害以外のなんでもない。腹立たしかった。
 多分、銀行は変額保険をすすめている。新山の会社にも取り扱いはある。ただし、株やその他資産の値動きの影響も受ける。今のマーケットは国内外で高値を更新していっている。十年もその好調が続くはずがない。どこかで、また金融不安が起こる。運用に失敗して、何年経っても値が戻らない変額保険をいくつも知っている。満期の際、元本は保障されている。しかし、十年間なんの金利もつかなかったことになる。タンス預金と同じだ。
 新山も元は銀行員だ。銀行が金融商品販売の手数料収益をあてにしていることを知っている。だからと言って、自分の契約に横やりを入れるのは許せなかった。
 里村も里村だ。なぜ、その場で断って振り込まなかったのだ。一体どういうつもりだと、怒りが込み上げてきた。わざわざ、人形とのお茶会にも参加したのに、自分に対する誠意が足りない。
 新山は怒りがおさまらないまま自宅についた。
 家に入ってすぐに、夕食について考えずに帰ってきたことに気づいた。また、出るのも面倒だが、冷蔵庫には酒しか入っていない。新山は、短気な方ではなかった。しかし、今回の事では滅多にないほど苛立っていた。最初から、振り込みについていくと言わなかった自分自身にも怒りを向けていた。
 インターホンがなり、釣り道具が届くことを思い出した。急いでインターホンに出た。モニターに映った配達員が細長い箱を持っている。
 釣りどころではなくなった。受け取り拒否をしたいぐらいの気持ちだったが、頼んだのは自分だった。新山は、荷物を受け取りに玄関先へ出た。
 タイムセールで値引きされていたとはいえ、二万円近い買い物だった。竿の方は、ターゲットにしている魚が釣れるのが二月以降なので、最初から使うのは少し先の予定だった。
 サヨリの仕掛けは週末に使うつもりでいた。里村の家に行くことになったので、釣りにはいけない。千円程度の安価な物でもあるし、腐りもしない。また、使う機会はあるかもしれない。ふと、新山は疑問に感じた。竿の箱は、長さは一メートル以上あるが、底の部分は、一辺十㎝もない。サヨリの仕掛けはそれほど大きくないが、同じ箱に入っているとは思えなかった。
 配送業者が渡し忘れたのかもしれない。
 ため息がこぼれた。新山はまず、通販サイトで、同梱で発送になっているかを確認することにした。
 またため息が出た。サイトの表示では、仕掛けも配達が完了したことになっていた。
 配送業者へ連絡をいれることにした。配送の番号を見て、新山は首を傾げた。番号が、さっき届いた荷物と似ている気がした。見比べるとやはり同一だった。商品ページの画像は、台紙と固めの透明プラスチックを組み合わせた平べったいパッケージになっていたはずだ。おかしいと思いながらも、新山は竿の梱包を開けた。どう見ても、竿しか入っていなかった。
 千円程度の商品だ。もう急ぎではなくなった。今回のことは運が悪かったと泣き寝入りをして、次、必要な時にまた注文をすればいい。いつもの新山ならそう、やり過ごせたが、どうにもおさまらず、通販サイトのコールセンターに問い合わせをすることにした。
 サイトで連絡作を調べ、フリーダイヤルの番号を押した。
 数回のコール音の後、女性担当者が出た。佐藤と名乗ったその担当者は、『かわいらしい』という表現が似合う声をしていた。
 新山は、いろいろなことに苛立っている状態ではあったが、営業マンらしく、声を作って用件を伝えた。
 佐藤の応対は丁寧で、通常であれば好感をもてるものだった。若干たどたどしい時がある。新人なのかもしれないと思った。
 仕事を始めたばかりの、不安はあるが希望に満ちた頃。かつて新山にもそういう時期があった。
 今、電話の向こうにいる佐藤の、純真無垢な初々しさが、新山の癪に触った。
 使う予定のなくなった仕掛けについて、明日使う予定だったと嘘をついた。会ったこともない、偶然に自分の電話を取っただけの担当者を、新山は困らせたくなった。
 何も問題はない。コールセンターの担当者は苦情を聞くのが仕事だ。里村も、別の会社のコールセンター勤務だ。初めて会った日に、「自分たちは、会社が用意した『サンドバッグ』のようなものですよ」と言っていた。
 今回のことは、新山には落ち度がなかった。どう考えても通販サイトの何かの段階でミスが発生している。一人一人が自覚を持って自分の仕事をこなせば、新山が迷惑を被ることもなかった。
 

#創作大賞2024 #ミステリー小説部門

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