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ナッシュビル紀行1987ー後編〜その頃のカントリーミュージック

今から37年前の1987年にカントリーミュージックのメッカ、テネシー州ナッシュビルを訪れた際の旅行記。後編の今回は、到着2日目、カントリーミュージック・ビジネスの拠点であるミュージックロウを訪れた際の記憶から。(旅の前編については下記リンクをご覧ください)

1987年3月15日、日曜日。この日は朝からミュージクロウ(Music Row)に向かった。ミュージクロウと言うのは、ナッシュビルのダウンタウン(中心街)から少し外れたところにある、カントリー業界のレコード会社、出版社、著作権会社、レコーディングスタジオなどが集まっている一角だ。そう言うと少々仰々しく聞こえるかもしれないが、実際には緑に囲まれた住宅街という雰囲気で、スタジオの多くも外目には普通の住宅と変わらないように見えた。当時、ミュージクロウのランドマークになっていたのは、カントリーミュージック名誉殿堂博物館(Country Music Hall of Fame and Museum)。京都人の私が今思うに、その当時のミュージクロウは、ある意味、嵐山のようなエリアだった。街の中心から少し離れた緑豊かなエリアに殿堂博物館という総本山があり、観光客で賑わっている。その周りには、スタジオや業界のオフィスが関係者以外立ち入れない塔頭寺院のごとく点在。ランドマーク近くの大きな駐車場の周りには、土産物店やグッズショップが立ち並んでいる。外目には華やかな観光地の顔を見せながら、観光客が立ち入れない建物の中では、一定のヒエラルキーの下、やるべきことが粛々と行われている──そんな佇まいだった。

当時携行していた『地球の歩き方』のナッシュビル案内ページ

当時の写真を見ると、その時殿堂博物館ではウィリー・ネルソンの企画展をやっていたようだ。しかし、展示の写真が残っておらず、どんな内容だったかよく憶えていない。記憶や写真に残っているのは、グランド・オール・オプリーのかつての会場であったライマン・オーディトリアムのステージが再現されていたこと、そして、プレスリーの愛車のキャデラックが展示されていたこと。さらには、カントリー業界No.1のレーベルだったRCAのかつてのスタジオへの見学がセットになっていたこと。実は、今回調べて初めて知ったのだが、ミュージクロウにあったこの博物館は2000年に閉館になり、今はここにはない。2001年にダウンタウンに建設された施設に移転してしまっているようだ。

ミュージクロウにあったカントリーミュージック名誉殿堂博物館の外観とリーフレット

博物館を見た後、レコーディングスタジオが点在する通りを散策。その後、駐車場前の土産物店が立ち並ぶエリアへ。エルヴィス・プレスリー、コンウェイ・トウィティ、ハンク・ウィリアムス Jr.、バーバラ・マンドレルなどの有名アーティストになると、ちょっとした展示を兼ねた独自のタレントショップがあった。私は、高校時代から好きだったカントリーバンド、アラバマのショップでウェアとビデオを購入した。

アラバマのショップ。ウェアとビデオを購入した。

蝋人形館もあった。ハンク・ウィリアムスから、ビル・モンロー、ジョニー・キャッシュ&ジューン・カーター=キャッシュ夫妻、ケニー・ロジャースとドリー・パートンなど、新旧のスターの人形が並ぶ、いかにも観光地にありそうな施設だ。確かその2階だったと思うが、ウェイロン・ジェングスのミニ企画展のようなものをやっていて、彼のライブビデオが大きなスクリーンで流されていた。当時の日本で「動く」ウェイロンを見ることはまず出来なかったので、この映像に釘付けになった。(このビデオは後年VHSで入手した。アウトロームーブメントの少し後の彼が最もカッコ良かった頃の映像だ)

同じ建物だったと思うが、2階の一角にRCA所属アーティストのレコード販売コーナーもあった。ウェイロン・ジェングスが長年RCAのドル箱スターだったことを考えれば、この蝋人形館自体、RCAの関連施設だったのかもしれない。お金もない旅の途中、レコードはあまり買うべきではないと思いつつも、日本では当時ほとんどお目に掛かることがなかったピュア・プレイリー・リーグの初期・中期(RCA時代)のアルバムを見つけ、思わず購入してしまった。

ピュア・プレイリー・リーグの1stから5thまでのアルバムを購入。廉価盤であることを示す「BEST BUY SERIES」のマークが入っている。

そんなことをしながら、ミュージクロウでほぼ半日以上過ごしただろうか。この日、ほかにどこかを訪れた記憶はない。ナッシュビルでは、何を食べたかすら憶えていないし、食べ物の写真も残っていない。この時ばかりは「花より団子」ならぬ、「団子より音楽」だったのだろう。

その夜も前夜に続いて、ブルーグラス・ライブハウス「ステーションイン」を訪れた。出演者表を見ると、この日は、カントリーギターの大御所チェット・アトキンスの名前があるが、チェットの姿は私の記憶にも写真にも残っていない。おそらく予定が変わったのだろう。この日の出演者で一番印象に残ったのは、マーティ・スチュアートだった。クラレンス・ホワイトのレガシーを引き継ぐ、ストリングベンダーの使い手で、今やベテランの域に達しているマーティだが、彼は元々ブルーグラス出身。当時はまだカントリーの分野でメジャーデビューしたばかりだった。その頃は名前も知らなかったが、元気ハツラツの若者だった印象がある。アコースティックギターのフラットピッキングの超絶テクニックには驚かされた。

マーティ・スチュアート(gu、前列右から2人目)のステージ。マンドリンを弾いているのは、一昨年(2022年)亡くなったローランド・ホワイト(クラレンスの兄)。

私のナッシュビル滞在はわずか2泊3日。お上りさん的に表層を見たにすぎない。実際に住んだり、もっと長い間滞在しなければ、「ミュージックシティUSA」と呼ばれるこの街のリアルな姿を知ることはできないだろう。ただ、ほんの少しながらもこの街の空気を感じたことは、後年、ナッシュビル産の音楽をあまりよく言わなくなった自分自身の物指しのひとつにはなっているかもしれない。それは、この滞在でこの街にガッカリしたと言うようなことではない。例えば、ハリウッドが映画産業、ブロードウェイがシアター産業で成り立っているように、この街が音楽という「産業」で成り立っていることを実感したからだと思う。そのこと自体は、エンターテイメントの究極の形として素晴らしいと思うが、多くの利害関係者が関わるそういった成果物の中に、表現者の感情の発露を感じることはなかなか難しいのではないだろうか。どんなエンターテイメント作品にも言えることだが、表現者の感性とコマーシャリズムの間で絶妙のバランスがとれた時にこそ、後々まで愛されるヒット作が生まれるのだと思う。

今振り返ると、私がナッシュビルを訪れた80年代後半〜90年頃にかけてのカントリーミュージック界は、そういった意味では、比較的バランスがとれていた時代だった。リッキー・スキャッグスキース・ホゥイトリー、前述のマーティ・スチュアートのようなブルーグラス出身者がカントリー界に進出し、アコースティック楽器を使った即興性をカントリーソングの中に取り入れていたし、そういったトレンドをうまく活かすプロデューサーも現れてきていた。ジャッズをブレイクさせたブレント・マハーや、この時期にキャシー・マティアを開花させたアレン・レイノルズ。ナンシー・グリフィスライル・ラヴェットスティーヴ・アールらのオースティン勢をナッシュビルで成功させたトニー・ブラウンやリチャード・ベネットらがその代表例だ。スタジオメンも世代交代が進み、マーク・オコーナーやジェリー・ダグラス、ベラ・フレック、ロイ・ハスキー・ジュニアといった中堅ブルーグラッサーたちが常連になってきていた。さらには、ドゥワイト・ヨーカムの登場でベイカーズフィールド・スタイルのストレートなホンキートンクカントリーが再び脚光を浴びたり、70年代西海岸カントリーロック系アーティストたちの「亡命」とも言えるようなナッシュビル進出もあり、カントリー界にある種の活性化がもたらされていた。

しかし、90年代になってガース・ブルックスが登場する頃になると、様相が変わってくる。再びコマーシャリズムの比重が増してくるのだ。これについては、当時デザートローズ・バンドを率いていたクリス・ヒルマンも自伝で触れていて、そのことについては以前の記事でも紹介した。例えば、カントリー業界は、ポップス業界に比べて、ミュージックビデオ(MV)の制作においては後れを取っていた。元々「グランド・オール・オープリー」という放送メディアから発展してきた業界であり、「TNN」(The Nashville Network)という専門ショーチャンネルもあったことから、当初はMVの必要性があまりなかったのかもしれない。しかし、80年代も終わりに差し掛かる頃になると、カントリー業界でも今まで以上にイメージ戦略が重視されるようになってくる。

一方、メインストリームのポップ&ロックの世界では、既にその逆の動きが起こっていた。MTVの『アンプラグド』シリーズが89年に始まり、90年代になるとアコースティックなサウンドや「ライブ感」が見直されるようになってくる。さらには、メインストリームに属さない「別の選択肢」という意味で元々名付けられた「オルタナティヴ」というジャンルが確立し、その派生形としての「オルタナティヴ・カントリー」(オルタナ・カントリー)も登場。私自身の興味の対象も、93年に社会人としてニューヨークに住むようになった頃には、ナッシュビルとは別次元で存在していたオルタナ・カントリーや、ニューヨークやボストンを拠点とする現代的なアコースティック・シンガーソングライターたちへと移行していった。近年のナッシュビル産のカントリーについては詳しく知らないが、やたらとマッチョなイメージの男性シンガーが多い気がする。そこには、トランプ政権を誕生させたような世相が反映されているのではないだろうか。

そうやってナッシュビルの動向にすっかり疎くなってしまった私だが、この頃に数多くのカントリーヒットに触れることができたのは得難い経験だった。この87年3月のひとり旅中、車の中ではもっぱらカントリーステーションを聞いていたが、ラジオから流れてきた曲に思わずボリュームを上げた──そんな曲がいくつもあった。その多くは後にレコードやCDで入手したが、例えば、こんな曲たちだ。

Kathy Mattea: "Love At The Five & Dime" / "You're The Power"
Holly Dunn: "Daddy's Hands"
The Judds: "Grandpa (Tell Me 'Bout the Good Ol' Days)" / "Rockin' with the Rhythm of the Rain" / "Don't Be Cruel"
Dolly Parton, Linda Ronstadt, Emmylou Harris: "To Know Him Is to Love Him"
Sweethearts of the Rodeo: "Midnight Girl Sunset Town"
Ricky Skaggs: "Love Can't Ever Get Better Than This"
Steve Earle: "Guitar Town" / "Someday"
Dwight Yoakam: "Guitars, Cadillacs" / "Honky Tonk Man"
Restless Heart: "I'll Still Be Loving You"
The O'Kanes: "Can't Stop My Heart from Loving You"
Waylon Jennings: "Rose in Paradise"
Vince Gill: "Cinderella"
Michael Johnson: "The Moon Is Still Over Her Shoulder"
Nitty Gritty Dirt Band: "Baby’s Got a Hold on Me"

この当時のヒット曲ではないが、70〜80年代のカントリーミュージック界でドリー・パートンと人気を二分していた女性シンガー、バーバラ・マンドレルの代表曲に「I Was Country When Country Wasn't Cool」(1981年)がある。カントリーラジオ局でも、時代を超えて頻繁にかかる曲だ。彼女は、どちらかと言えばポップカントリーの部類に入る人で、特に大好きというわけでもなかったが、今思えば、私の10代後半から20代前半の青春期は、まさにそこで歌われているようなものだったかもしれない。

私はストレートのジーンズにネルシャツだった
そんなのがお洒落じゃなかったときも
西部が本当にワイルドだった頃には
映画館でロイ・ロジャースと一緒に歌っていた

みんながロックンロールやR&Bを追いかけていた時
私はオプリーを聴いていたの
私は カントリーだった
カントリーがイケてなかったときに

"I Was Country When Country Wasn't Cool"
Written by Kye Fleming, Dennis Morgan

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