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ナッシュビル紀行1987ー前編〜ナッシュビルへの道

今回はカントリーミュージックのメッカ、テネシー州ナッシュビルを訪れた際の古い記憶を辿ってみたい。先日のナンシー・グリフィスを紹介する記事の中で、彼女の出身地であるテキサス州オースティンがルーツ系音楽のライブミュージックのメッカであるのに対し、ナッシュビルはカントリーミュージック・ビジネスの集積地であると書いた。また、以前のクリス・ヒルマンの記事では、アメリカのカントリーミュージック業界はロックやポップとは別の市場として形成されており、その拠点がナッシュビルである点にも触れた。このように、ナッシュビルのこととなると、カントリーミュージックのコマーシャルな部分を象徴する土地としてついつい目の敵にするかのような書き方をしてしまう私だが、昔からそうだったわけではない。それどころか、ティーンエイジャーの頃には憧れの土地だった。

私が好きな音楽の一番根っこになる部分は、1970年代前半にロサンゼルスを中心に花開いたシンガーソングライターやアコースティックなロックサウンド(およびその一形態としての「カントリーロック」)だ。しかし、実際に私がリアルタイムで洋楽を追いかけ出した80年代になると、カントリーの香りのする西海岸産の音楽は過去のものになろうとしていた。そんな中、私の目は、自ずとナッシュビルに向いていった。1980年頃から全米ヒットチャートを追いかけるようになった私だが、83〜4年頃になるとポップチャートの上位は、ユーロビート系を中心としたダンスミュージックで占められるようになってきた。当時購読していたFM情報誌『FM STATION』には、ページ全面に掲載されていた全米ポップチャートのほかに、カントリーやR&Bのチャートが欄外に小さく載っていたのだが、その頃までに私の興味の対象もポップチャートからカントリーチャートヘと移っていった。

幸い私の地元京都は、カントリーやアコースティック系の音楽が比較的根付いている土地だった。その種の音楽が好きな人には有名な「プー横丁」というレコード店や、カントリー好きの店員さん(後に独立してカントリー専門店を開業された)がいた十字屋河原町店には、カントリーやブルーグラスの新譜も結構揃っていた。高校生の小遣いで新譜を買うことはなかなか出来なかったが、バーゲンコーナーなどで徐々にそういったレコードも買い集めるようになった。カウボーイハットを被ったアーティストのレコードが千円以下であれば名前も知らないまま購入したり、録音地がナッシュビルで、クレジットにスティールギターやフィドル、ハーモニカが入っていれば大丈夫とか、そういう買い方をするようになっていった。そうやってクレジットをチェックしているうちに、スティールであればバディ・エモンズや、ウェルドン・マイリックロイド・グリーンソニー・ガリッシュ、ギターならレギー・ヤングスティーヴ・ギブソン、ドラムスはジェイムズ・ストラウドやラリー・ロンディン、フィドルならバディ・スパイカー、バンジョーはボビー・トンプソン、ハーモニカはチャーリー・マッコイなどと、当時のナッシュビルのスタジオミュージシャンの名前も自ずと憶えるようになっていった。

高校時代に買ったチャーリー・マッコイの『Good Time Charlie』(1973年)。未だに愛聴盤だ。

そうこうして大学に進学する頃には、ナッシュビルに行ってみたいという気持ちが高まっていった。カントリースターを志すミュージシャンたちが彼の地を目指す姿にも憧れた。高校の時に見た『さよならジョージア』(The Night the Lights Went Out in Georgia)という映画も、そのひとつだった。デニス・クエイド扮する女好きの売れないカントリーシンガーが、クリスティ・マクニコル扮するしっかり者の妹とともにスターを夢見てナッシュビルを目指すというこの映画は、今振り返ればA級の映画とは言えないが、当時は大いに感化された。(ちなみにこの作品には、スターウォーズでルーク・スカイウォーカーを演じたマーク・ハミルが警官役で出演。サントラ盤には、クエイドやマクニコルの歌のほか、タニヤ・タッカーグレン・キャンベルジョージ・ジョーンズらが参加していた)

『The Night the Lights Went Out in Georgia』Soundtrack (1981年)

大学で英語を専攻した私は、3年が終わった時点でのアメリカ語学留学を企てた。留学ガイドのような本を読みあさり、その中で候補に残った学校がふたつ。ひとつはアイダホ州にある州立大学、もうひとつがナッシュビルのミュージックロウ近くにあるベルモントカレッジという大学。最終的には、より安全安心な環境、訛りの少ない英語という冷静な判断をしてアイダホの大学を選んだ。この選択には結果的に満足しているが、もしナッシュビルを選んでいたら、また違った人生になっていただろう。

留学先としては選ばなかったものの、この機にナッシュビルを見たいという思いは変わらなかった。1987年3月、当時21歳の私は留学に先立ってサンフランシスコを起点とするアメリカ半横断のひとり旅に出た。グレイハウンドを乗り継いでソルトレイクシティへ、そこでレンタカーを借りて、ワイオミング、ネブラスカ、カンザスを横断してセントルイス、そしてメンフィスへ。メンフィスからナッシュビルへはインターステートハイウェイ40を東へ約200マイル、3時間程度のドライブだ。南部のこの辺りの植生は、日本に似ていて広葉樹が多い。まだ寒い時期だったので、ハイウェイ沿いの木々はほとんど枯れていて、さほど感動するような景色はなかった。ただ、ナッシュビルまでの残り距離を示す標識の数字が小さくなるにつれ、憧れの地に近付いているという興奮が高まり、そのマイル表示の写真ばかり撮っていた。

ナッシュビルへの残り距離を示す案内標識ばかり撮っていた。

街に近付くにつれ今まで1本だったハイウェイにさまざまな分岐が現れ、環状路線が入り乱れるようになる。アメリカのハイウェイを走っていてある程度の規模の都会に近付く時の決まった光景だが、徐々に緊張感が高まる。郊外から見るナッシュビルの街の遠影(スカイライン)は、正直、さほど印象的なものではなかった。これといったランドマークもないし、中高層のビルが雑多に立っていて、どちらかと言えば少し寂れた印象すらあった。市内に着いたのは午後早目の時間だったと思う。まずは宿探し。どういう経緯で見つけたのか憶えていないが、ダウンタウンから少し離れたところにあるモーテル「トラベロッジ」にチェックインした。トラベロッジは全米各地にある比較的リーズナブルな郊外型モーテルで、当時大体20〜30ドルくらいで泊まれた。トラベロッジ、モーテル6、モーテル8の3チェーンくらいが安心の安値で泊まれる定番だった。

ナッシュビルを訪れる多くの人がそうだと思うが、この街に来たならまず第一の目的は「グランド・オール・オプリー」を見ることだ。念のため説明すると、「グランド・オール・オプリー」は、アメリカで最も古くから続く公開ライブ放送番組。演奏されるのは、基本的にカントリーもしくはブルーグラスだ。1925年にラジオで始まり、1970年代からはテレビで放送されている。ここのステージに立つことがカントリースターとして認められた証と言われてきたライブショーである。毎週末に行われる『紅白歌合戦』のようなものと言えば、わかりやすいだろうか。また、ある意味ワンパターンのエンターテイメントは、「ニューヨークに来たならブロードウェイ」とか「大阪に来たなら吉本新喜劇」というような、一種の観光資源とも言えるだろう。このライブショーは1940年代から74年まではダウンタウンにあるライマンオーディトリアムという歴史ある建物で開催されていたが、施設の老朽化とショーの規模拡大に伴って、74年以降はナッシュビル郊外に新たに建設された、現代的なシアターでの開催に変わった。(しかし、90年代初めに、エミルー・ハリスがここでライブアルバムを収録したことでその価値が見直され、以降、時折ながらオープリーが開催されたり、さまざまなライブが再び開かれるようになった)。私が訪れた80年代には、新しいオープリシアター一帯は「オープリーランドUSA」というテーマパークになっていた。テーマパークは後年閉鎖になったようだが、そこにあったコンベンションセンター付きのリゾートホテルは健在のようで、昨年(2023年)末、大谷翔平選手の移籍前に連日取材が行われていたMLBのウィンターミーティングもそのホテルで行われていた。

「オープリーランドUSA」の入り口。ライブは見れなかったが、入り口だけ見に行った。

私がナッシュビルを訪れたのは、1987年3月13日の金曜日。その翌日はオプリーが開催される土曜日だった。トラベロッジにチェックインすると、そこを別々に訪れていた日本人の卒業旅行者二人に出会った。はるばるナッシュビルまで来るのだから、二人とも当然カントリー好きだ。彼らと一緒にホテルの部屋からオプリーツアーの予約を入れるべく電話を掛けたことは憶えている。しかし、既に満席で、予約は取れなかった。今なら事前にネットで予約しておくのだろうが、そんなものが存在しない時代。行き当たりばったりで、片言の英語で電話したのだと思う。出会った日本人学生二人のうち、ひとりは関西の大学でブルーグラス研究会に所属していたブルーグラス好きの男性だった。彼がナッシュビルの老舗ブルーグラス・ライブハウス「ステーションイン」に行こうと言うので、ブルーグラス好きな私は二つ返事でこのプランに乗った。

ステーションインの前で記念撮影

ステーションインは、ダウンタウンの繁華街から少し離れたやや寂れた地区にあり、石造りの倉庫のような建物だった。その時のライブスケジュール表を今見てみても、当日(3月13日)の出演者で知っている名前はほとんどない。(前日であれば、チャーリー・マッコイ、さらにその前ならビル・モンローやオズボーン・ブラザーズ、ダグ・ディラードが見れたようだ)。しかし、実際には、スケジュール表に載っていない人たちも何気に店に出入りして、ステージにひょいと上がってはセッションをする、そんな寛いだ雰囲気だった。当時私が知っていた人で言えば、ヴァッサー・クレメンツが誰かのバックでフィドルを弾き、その頃、ニューグラスリヴァイバルに在籍していたベラ・フレックがバンジョーを弾いたかと思うと、私が大好きなカントリーロックバンド、ピュア・プレイリー・リーグの中後期のベーシスト、マイク・ライリーがステージに上がって歌声を披露する──いずれも予定表には全く記載されていない人たちだった。本来の出演者たちはそれぞれ2〜4曲くらい演奏して次の出演者に場を譲るのだが、また後の人たちにステージに呼ばれて一緒に演奏する──そんな感じだった。

ステーションインの当時のスケジュール表。13日と14日の2日連続で見に行った。

この日の予定表に載っていた出演者の中で、特に印象に残っているのは二人。一人目はその時まで全く名前を認識していなかった、ジョニー・ラッセルという男性カントリー・シンガーソングライター。彼が自作と言って披露したのが「Making Plans」という失恋ソングで、私自身は1982年に出たブルーグラスセッション・アルバム『Here Today』を通して知り、当時大好きだった曲だ。(『Here Today』はデイヴィッド・グリスマン(mandolin)を中心に、ハーブ・ペダースン(banjo)、ヴィンス・ギル(g.)などカントリーロック系人脈を含むセッションアルバムで、ほぼ同じメンバーがダン・フォーゲルバーグのブルーグラス・アルバム『High Country Snow』(1985年)のバックも務めていた)「Making Plans」は、ちょうどこの1987年3月にリリースされた、ドリー・パートンリンダ・ロンシュタットエミルー・ハリスによる『Trio』にも収録されていた。ラッセル自身はブルーグラス・ミュージシャンではないが、ブルーグラスのアコースティック楽器をバックに、その立派な体格からイメージできる通りの、張りのある歌声を聞かせてくれた。後で調べたわかったのだが、この人は、バック・オウエンズの代表曲で、ビートルズ(リンゴ・スター)もカバーしたカントリーヒット「Act Naturally」の作者でもあった。

ジョニー・ラッセル(右)

もう一人印象に残ったのは、ラッセルの後に登場した女性シンガーで、キャッシー・キアヴォラという人。今回この記事を書くにあたって初めてどんな人か調べてみたのだが(当時は調べる術もなかった)、ダグ・ディラードやヴァッサー・クレメンツ、カントリーガゼット、ジェリー・ダグラスらとの共演を経て1990年にソロデビューし、現在までに4枚のアルバムを出しているようだ。つまり、私が見た87年当時はまだレコードデビュー前だったわけだが、彼女のリラックスした歌いぶりは、とても心温まるものだった。その時に演奏した曲が彼女のファーストアルバムのトラックとしてYouTubeにアップされていたが、ライブでの演奏はベラ・フレック(banjo)も従えてのよりアコースティックなバージョンで、フロントの3人によるハーモニーがとても美しかった。

キャッシー・キアヴォラ(中央)。左はベラ・フレック(banjo)

翌日は、ナッシュビルのカントリー・ミュージックの中枢であるミュージックロウを訪れるのだが、それについては、次回とさせていただこう。

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