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ナンシー・グリフィス・トリビュートアルバム・レビューへの前書き(前編)

今回取り上げたいアルバムは、この秋(2023年9月末)に発表された新譜で、タイトルは『More Than a Whisper: Celebrating the Music of Nanci Griffith』。2021年に68歳で亡くなったシンガーソングライター、ナンシー・グリフィスの音楽を讃えるトリビュートアルバムだ。しかし、ナンシー・グリフィスと言っても、ご存じの方は少ないかもしれない。何しろ、ウィキペディアを見てみても日本語版ページがないくらいだ。そこで今回は、トリビュートアルバム・レビューの前に、まずナンシー・グリフィス自身について少し紹介しておこう。

ミュージシャンズ・ミュージシャン

ナンシー・グリフィスは、アメリカでも一般受けするタイプのアーティストではなかった。やや舌足らずな雰囲気のするその歌い方も、好き嫌いの分かれるところだろう。彼女はどちらかと言えば、音楽仲間からの評価が高いミュージシャンズ・ミュージシャン・タイプだった。ウィキペディアでチャート成績を見てみても、アルバムは『Flyer』(1994年)の48位がUSポップチャート最高位。カントリーチャートでは『Lone Star State of Mind』(1987年)の23位が最高だ。シングルにいたっては、ポップチャートでのランキングはなく、カントリーチャートでの「Lone Star State of Mind」の36位が最高位だった。

『Lone Star State of Mind』(1987年)

カントリーチャートでヒットしたとはいえ、ナンシー・グリフィスの音楽を単純にカントリーミュージックと捉えるのは、彼女の音楽性から言うと少し無理がある。確かにMCAナッシュビルに移籍した当初(87〜88年頃)は、会社がカントリー・アーティストとして売り出そうとしていたため、当然ながらその傾向が強く出ていた。それに当時は、彼女の音楽が当てはまるメジャーなカテゴリーが他にはなかった。彼女の音楽は、フォークソングとも言えるし、カントリーの要素もある。大人受けするタイプの音楽だが、アダルトコンテンポラリーと呼ぶには牧歌的だ。今であれば迷うことなく「アメリカーナ」と呼べるが、打ち込みサウンドがまだ全盛だった80年代後半にはなかなか売りにくい音楽だったに違いない。「フォーク」などというカテゴリーは、当時は全くもって売れるジャンルではなかったし、カントリー界でも、特に女性の場合は、一目でカントリーシンガーと分かるような衣装を着た「美人歌手」が中心であり、ショー的要素も強かった。(その状況は今も大して変わらないだろう)。飾らない格好でアコースティックギター片手に自作の曲を歌うナンシーのような女性は、カントリー界でも決して売りやすい存在ではなかったはずだ。事実、MCAでの後期2作では、(恐らくは会社の方針で)グリン・ジョンズやロッド・アージェントをプロデューサーに迎えるなど、ポップな方向へと舵を切る。だが、これは、結果的に彼女の魅力を半減させてしまっていた。本人も不満だったのだろう。この後、エレクトラに移籍し、自身のフォークルーツに立ち返った作品『Other Voices, Other Rooms』(1993年)を発表、高い評価を得ることになる。この頃になると、アンプグドブームを経てアコースティック音楽が見直されるようになってきており、このアルバムはその時宜にもうまく乗れた。

オースティンの土壌が育んだシンガーソングライター

ナンシー・グリフィスは1953年の生まれ。テキサス州の州都オースティンで育った。オースティンは、日本ではまり知られていないと思うが、「ライブミュージックの都」(Live Music Capital of the World)と呼ばれるくらい音楽の盛んな街だ。「Music City USA」と呼ばれるナッシュビルがカントリー・レコードビジネスの集積地であるのに対し、オースティンは多くのミュージシャンが演奏する場を求めて集まって来る街だった。そこでは、カントリー、フォーク、R&B、ロックといった、販売側の都合による垣根は重要ではなく、「いい音楽はいい」という認識だけがあったと言う。

70年代半ばには、ウィリー・ネルソンウェイロン・ジェニングスら、ナッシュビルの商業主義に嫌気が差したカントリー・シンガーソングライターたちが、純粋に音楽を楽しむオーディエンスがいる環境に惹かれてこの地に移ってきた。ジェリー・ジェフ・ウォカーマイケル・マーティン・マーフィタウンズ・ヴァン・ザントらもこの地を基盤としていたし、カントリーやフォーク系だけでなく、あのスティーヴィー・レイ・ヴォーンも当初はオースティンの音楽シーンで活動していた。アメリカの公共放送PBSのテレビで現在も続いている人気ライブ番組、「オースティン・シティ・リミッツ」もこの頃にこの地で始まっている。子供の頃からそんな空気を肌で感じていたナンシー・グリフィスの音楽は、言ってみれば、そういったオースティンの先輩シンガーソングライターたちの音楽を継承するものだった。それは、ルーツを辿ればウディ・ガスリーにまで遡るような、アメリカ深部の市井の人々の喜びや悲しみを掬い上げる歌の数々だった。

オースティン発祥のライブショー番組『Austin City Limits』の「ロックの殿堂」入りを記念するプレート (Photo by Ron Baker)

ナンシーは幼い頃から文学にも親しんでいた。元々幼稚園の先生を志していたという彼女にはどこか文学少女的な趣きがあった。実際、彼女のアルバムカバーを見ると、その多くで彼女は本を手に抱えているか手元に置いていた。そんな彼女の曲は、まるで短編小説のようだった。ナンシーの曲の主人公には、彼女自身でないと思われる人物が多かった。シンガーソングライターたちの多くが自分の体験や感情をそのまま歌にするのに対し、ナンシーの場合は少し違っていた。自分が出会った人たちから得たインスピレーションを膨らませ、それを物語に紡いでいく──そんな作品が多かった。そして、そんな主人公たちの多くが、アメリカのどこかの町に普通にいそうな人たちだった。その手法は、彼女自身が敬愛していたタウンズ・ヴァン・ザントやジョン・プラインらにも通じるものだった。

アメリカの田舎町を感じさせる曲調

私がナンシー・グリフィスの名前を最初に知ったのは1983年。当時愛読していた『アメリカン・ミュージック・ファイル』という小雑誌(それ以前の『カントリー・ミュージック・ファイル』が改題したもの)のテキサス音楽特集に彼女のセカンドアルバム『Poet in My Window』(1982年)が簡単に紹介されていたからだった。しかし、彼女が自費出版のような形で発表したこのアルバムを耳にする機会など、当時はもちろんなかった。

『Poet in My Window』(1982年)

その後ナンシーは、1984年にラウンダー傘下のフォークレーベル、フィロから『Once in a Very Blue Moon』を発表、マイナーレーベル・デビューを果たす。しかし、そんな情報は日本には全く伝わって来ず、私自身もナンシーの名前はほとんど忘れかけていた。そんな中、彼女の名前を再び意識したのは1987年。アメリカを初めて旅し、その後アイダホに留学した時だ。当時、カントリーラジオ局で頻繁に流れていてひと耳惚れした、キャシー・マティアのヒット曲「Love at the Five and Dime」がナンシーの作品と知ったのだった。

それでも、アメリカのカントリー局においてさえも、ナンシー自身の曲が掛かることはほとんどなく、私にとっては謎のシンガーソングライターのような位置付けになってしまっていた。その後数年が経ち、ようやく彼女の曲を初めて意識して聞くことができたのは、1992年。ジョン・メレンキャンプが自ら監督・主演した映画『Falling from Grace』のサントラ盤に彼女の曲が1曲だけ収められていたのだ。映画は、メレンキャンプ扮する成功したカントリーシンガーが田舎町に帰郷する中で起こる物語で、当時日本では未公開だったはず。今はネットで見れるようだが、私も未見だ。ただ、92年当時、サントラ盤に収められていたナンシーの曲「Cradle of the Interstate」を聞いた時、思わず泣きそうな気持ちになった。それはまるで、荒野に1本だけ伸びるハイウェイ脇に取り残された小さな町を思い起こさせるような、そんな寂寥感めいたものだった。その頃は歌詞の内容をきちんと理解していたわけではなかったのだが、その曲調だけで、テキサス辺りの乾いた風景が浮かんでくるようだった。

『Falling from Grace』サウンドトラック(1992年)

今改めて歌詞を見てみると、それは恐らく映画の主人公の気持ちを歌ったもので、成功したことで心底信頼できる友を見つけられなくなった主人公が「インターステート(ハイウェイ)のゆりかご」だけが心の拠り所だと独白するものだった。曲の中に実際に「荒野の中の町」が出てくるわけではないのだが、この曲も含め、彼女の初期の曲には、不思議とアメリカ南西部の荒野や田舎町の寂寥感を感じさせるものが多かった。これを音楽的に分析してみると、恐らくは彼女のadd9thやsus2コードの使い方によるのものではないかと思うのだが、ただ、私が感じたこのような感情は必ずしも個人的な思い入れよるものだけでもないようだった。93年に出たナンシーのライブビデオ『Other Voices, Other Rooms』の冒頭で、彼女の音楽について聞かれたあるアメリカ人のファンが、私と同じようなことを語っていた。いわく「ナンシーの曲には、基本的にとてもテキサス的なものを感じる」と。

小津映画のような淡々とした語り口

キャシー・マティアがカントリーチャートでヒットさせた「Love at the Five and Dime」は、ナンシー・グリフィス自身の代表作に挙げられる曲のひとつだが、それはまさに、アメリカの田舎町に住む普通のカップルを歌った一編の物語だった。

バンドでスティールギター弾いているダンスの上手い青年エディは、町の日用雑貨スーパーで働いていたリタという栗色の髪の少女と出逢い、恋に落ちる。リタはまだ10代。エディがリタをバンドの活動の場であるバーに連れていくことにエディの母親は難色を示していたが、結局ふたりは結婚。しかし、早々に子供を亡くしてしまう。その後バンドとのツアー生活の中でお互いに浮気をしてしまう時期もあったが、やがて二人はよりを戻す。数年後、関節炎を患ったエディは音楽活動が思うようにできなくなり、副業で保険を売ったりする日々に。リタは家事に勤しみながら、三文小説を書いている。そんな二人は今も出会った頃と変わらず、ラジオの曲に合わせて肩を寄せ合ってワルツを踊っている……

「Love at the Five and Dime」が収めれているアルバム『The Last of the True Believers』(1986年): ジャケットのデザインは「Love at...」の内容がコンセプトになっている。右端でワルツを踊っている男性は、ナンシーの後輩格にあたるシンガーソングライター、ライル・ラヴェット。

特に劇的なことが起こるわけではないのだが、何でもない語り口の中に、登場人物やそれを見つめる作者の温かさを感じる。その手法はまるで、小津安二郎監督の映画のようだ。ごく普通の人たちが、その人たちなりに一生懸命に生きている姿──この曲の場合、主人公のカップルは若くして子供を亡くしているのだが、そのことすら「ふたりはアビリーンで結婚し、テネシーで子供を亡くした。それでもその愛は続いた」としか語られていない。本来なら、夫婦にとって子供を亡くしたことは一大事のはずなのに、そのことをテーマに涙を誘うのではなく、そんな中でもそれなりの幸せを見つけて生きている登場人物の姿を淡々と描写する語り口が逆に心に響く。

身近な人の死を、ほんの一言でさらりと触れる──そんなナンシー・グリフィスの歌がもうひとつある。彼女のデビューアルバム(1978年)のタイトル曲であり、MCA時代のアルバム『Lone Star State of Mind』(1987年)でも再演された、彼女の代表曲のひとつ「There's a Light Beyond These Woods (Mary Margaret)」だ。この曲は彼女自身の実体験に基づくもので、幼馴染のメアリー・マーガレット(マギー)という親友との今に至る思い出が綴られるものだ。ナンシーには、高校時代、ジョンという少し年上の彼氏ができた。ナンシーとマギーは、高校の卒業記念に一緒にニューヨークに行こうと計画するが、ナンシーは「私にはジョンがいるから」と旅行を断念。マギーひとりがニューヨークに行く。マギーは卒業記念のシニアプロム(ダンスパーティ)に合わせて帰ってくるが、その夜、ジョンは、ナンシーをバイクでプロム会場に送って行った帰りに事故を起こして亡くなってしまう。マギーに語りかけるこの曲の中で、ナンシーはこの事実について、「あなたはシニアプロムに間に合うように帰ってきたわね。ジョンを亡くした時よ」としか触れていない。

当時10代の彼女にとって、この出来事は相当な衝撃だったに違いない。にもかかわらず彼女は、背景を知らない者であれば聞き逃してしまうくらいあっさりとこの事実を語る。ストレートに気持ちを吐露するのではなく、客観的に情景だけを伝える。そこには、心情の解釈を聞き手に委ねる俳句のような奥深さがある。

もっとも、こういった曲の良さを私が理解できるようになったのは、90年代半ば以降に彼女の初期作品を遡って聞いてからのことだ。先に紹介した「Cradle of the Interstate」以降、実際に私がナンシー・グリフィスに深く入れ込むことになるのは、93年にニューヨークに住むことになってからだ。ただ、その話をすると記事が長くなってしまう。今回はここまでとし、「次回に続く」とさせていただこう。


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