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光と闇、そしてワンネス

自己探求はじめて、この感覚に辿り着いたのはいつのことだろうか。。。

これは一つの見方です。

「人はもともと1つワンネス、みんな繋がっていた、魂は経験したくて地球に生まれてくる。」

という真理は、スピリチュアルに興味のある方は、聞いたことがあると思う。

その真理を私なりに探求して、行き着いた感覚を頑張って言語化して書いてみようと思う。

ワンネスでは、陰陽、光と闇の違いはない。
ないから、どちらが良くてどちらが悪いとかのジャッジももちろんない。

陰陽、光と闇はただの質。

あの人は光だとか、闇だとかない。
光の人、闇の人とかもない。
陰陽でもだいたいどちらの性質も併せ持ち、バランスの違いが個性になる。
だから均等がいいとかもない。

人はワンネスでは経験できないことを経験するため、感じられないことを感じ味わうため分離して生まれてくる。

そしてその感覚をもってワンネスに戻ろうとする。

ワンネスに近い分離したての光と闇を神聖な光、神聖な闇と表現するとする。

ワンネスに近ければ近いほど、違いが少ない。
ただただ静かな光と静かな闇。

これがどんどん分離が進んでいくと、どんどん違いが出てくる。これをさわがしい光とさわがしい闇と表現するとする。

神聖な層からさわがしい層まで、魂が何を経験してきたかでそれぞれ質のバランスがその人それぞれの中にあるように感じる。

さわがしければさわがしいほど、真の自分を見失いやすくなる。
経験するための、自分の中にただある質なのに、それを忘れて光だ闇だ、良い悪いとジャッジして混乱し、経験したかったということを忘れて、どんどんさわがしくなり、真の自分に戻れなくなる。

どこではっとするか、、、

「何のために生きているんだろう。」
(気づき方は色々、例えばです。)

私は約12〜3年前に、はじめてはっとした。
そこから自己探求がはじまった。

私は自分の中にある闇をジャッジしまくり、自己嫌悪にまみれて、自分を責めて生きていた。

自分と向き合い、自己探求している内に、自分が闇なわけではなく、自分の中にただ闇という質があるだけなんだということが感覚でわかっていった。ある時まで見えなくなってしまってた光の質もただただ存在していることがわかった。

怒り、恐れ、不安、疑い、嫉妬、嫌悪、などをただあるだけなんだとジャッジしないことで、抑制することなく自分の中で安心して内観できるようになっていった。
さわがしかった闇は静かになっていき、神聖な闇の質を洞察力や真実を見極めるポテンシャルとして開花させていった。(今も磨き中。)
神聖な闇が感覚でわかるようになるとさわがしい闇がこわくなくなる。そして神聖な闇のエネルギーはとても心地よく、わるいというジャッジに囚われることがなくなっていった。(そこまでいくのにとてもとても長かった!!!)

人の役に立ちたいという光の質はさわがしくなるとお節介になったり、ひとりよがりの浮ついたものとなる。

私の場合は、そうなってはいけないと思いすぎて、光はありませんとか言い出して、拗らせてた。

でも自己探求する前は、役に立つことで存在価値を得るかのように、さわがしい光が全面に出てしまい、よかれと思ってお節介なことをいっぱいしてしまっていた。自己犠牲の質もここからくることが多い。

さわがしい光が落ち着いて神聖な光に向かうと、自分の喜びと真に相手になるためのことがうまく循環するようになる

自分にも人にもやさしくなる。

手を差し伸べるときと、見守るときがわかるようになる。

とにかくはっとした時に、神聖な光に向かう方が自分を取り戻しやすい人、神聖な闇に向かう方が自分を取り戻しやすい人がいる。

でも光と闇は表裏で、さわがしい光の隣にはすぐさわがしい闇があり、神聖な光と闇も隣り合わせ。

表現がむずかしいが、光と闇をいったりきたりしながら進む。(表面的なことじゃないことを表現することがむずかしいが、どちらかだけとは限らないということ。)

例えば、
もういらない執着を手放す、は、
さわがしい闇から神聖な光へ

手を出してヘルプしたいけど相手のためを思って見守る、は、さわがしい光から神聖な光へ

★不安を手放せないから、こわいものはこわいんだとこわいという感情が落ち着くまで感じ続ける、感じている内になくなった場合は、さわがしい闇から神聖な光へ、なくならないけど落ち着いて不安はあってもいいと受け入れ共にいる、は、さわがしい闇から神聖な闇へ

など、人によって、時と場合によって、自分にあったやり方、進み方がある。

よくあるのが、

光は良いもの、闇はわるいものという固定観念にやられて、手放せない感情を手放そうとして、手放せない自分を責めてしんどくなる。(私もそうでした。)

怒りはよくないものだから、無理矢理感謝におきかえたりしながら、抑制する。(私もそうでした。)

逆に光が苦手な方もおられます。
そんな方に、光のメッセージやアファメーションを浴びせても逆効果。(私もそうでした。)

そういう方は、神聖な闇に向かう方が真の自分に辿りつきやすい。

私ももともとは、愛や光という言葉自体が苦手で、そのゾワゾワ感をよく内観していました。今では、真か偽りかを見極める力として神聖な闇のポテンシャルを使えるようになり、そのあと神聖な光は好きになり、ある程度のさわがしい光は楽しめるようになりました。

。。。。。

これはほんの一部です。
深すぎてうまく書けたかわかりません。
なんせ感覚なのです。
セッションでは、クライアントさんを前にすると自然に導き方がわかり、言葉がでてきます。

わからない時は、神様や宇宙にお任せします。私も一緒に新しい発見をさせていただくこともあります。

ほんとにそれぞれ進み方が違うので、オリジナルセッションはすべてマンツーマンなのです。

世の中、手放しましょうが主流で、上記した★印の方向性があることを知らずに、自己探求してるのに行き詰まってる方がたくさんおられるように感じています。

Lokoのセッションでは、思い込みや固定観念が解けた中で内観できるよう、言葉がけをしながら導いていきます。

内観がうまくできない理由に、思い込みや固定観念が邪魔をして、ただ感じるということができてないことがとてもよくあります。

自己探求してるのに、なかなか自分らしく生きられないという方には、時々ガイドのサポートを得ることはとてもおすすめです。








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