古典的名著を読む意義、目的についてさらに考えてみる

前回までの記事で、時代の転換期に自分がいる文明や社会の基盤となっている価値観を述べている古典的名著を読み直すことの意義を語ってきた。

しかし、それ以外に意義、目的はないのかという問があるかもしれない。
大いにあると思う。あとあと語ることになると思うが、私はむしろそちらの問題意識の方が強く、その問題意識に従って本を選び、読んでいる。

具体的な事例を思いつくままに並べてみよう。

・単に作品として好きだから

たまたま好きになった作品がいわゆる古典的名著と呼ばれるものであったという場合。

・教養として

知らないと恥ずかしいし、なんかいいこと書いてあるのかな、と興味本位で読むのもここに含まれるだろう。

・信仰している宗教の教典だから

こういうケースも少なくないはずだ。この場合、自分の信仰している宗教の教典も読んでないと恥ずかしいという気持ちで読むならば教養として読む場合と近い。自分の信仰のために読むのであれば、

・哲学的・思想的問題意識から

という読み方に近くなる。

好きな作品だから読むという場合は、好きな作品を好きなように読むのが正しい。概説書や解説書があった方が楽しめるなら併せて読んでもいいし、そういうものが余計だと感じるならば読まなくていい。

教養として読むという場合は逆で、ダイジェスト本を徹底的に利用する。行ってみれば観光地を旅行する前に下調べをして、見に行くべきところ、食べるべきものをリストアップしておくようなものだ。
原典に当たるとしてもダイジェスト本に書いてあることがやはり原典にも書いてあったと確認するために読むという形になる。
すでに述べたように、教養とはその社会の中で知っておくべき事柄なのだから。

信仰している宗教の教典という場合は事情が複雑になってくる。
その教団内で知っておくべき知識とされているから読むというのであれば、その教団の出している概説書なり解説書なりを下調べして読めばいい。教典が分厚かったりしたら辞書的に引いて読むにとどめることもあるだろう。
しかし、自分の信仰のために読む、すなわち、曖昧であったものを確固としたものにしたいとか、自分が属する教団が言っている解釈に疑念を抱いてそれを原典で確認するために読むとかいったことであれば、教養として読む場合とは大きく違ってきて、哲学的・思想的問題意識から読む場合とほぼ同じになる。

哲学的・思想的問題意識から読む場合、どのような姿勢で、どのような方法で読むことになるのか?

それこそが、私が話題にしようと思っていることなのだ。

詳しくは次回以降。

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