見出し画像

【本の記録】フレデリック・ケック 『流感世界 パンデミックは神話か?』

本を読み終えたので、記憶が新しいうちに記録を。

読んでいた本は、フレデリック・ケックの『流感世界』だ。

=======

著者紹介:フレデリック・ケック

1974年生まれ。フランスの人類学者、哲学史家。現在は、フランス国立科学研究センター(CNRS)に所属し、パリのケ・ブランリ・ジャック・シラク美術館で研究部門を指導している。レヴィ=ストロースに関する研究を進め、プレイヤード叢書『レヴィ=ストロース著作集』の編集にも携わった[『流感世界』訳者あとがき参照]。

=======

本の情報:ケック、フレデリック 2017『流感世界 パンデミックは神話か?』小林 徹訳、水声社。

目次:> 序論 動物疾病の人類学
> 第1章 バイオセキュリティをめぐる回り道
> 第2章 自然に面した衛生前哨地
> 第3章 家禽経営
> 第4章 仏教的批判
> 第5章 動物を解放すること
> 第6章 生物を生産すること
> 第7章 ウイルスの回帰―あるパンデミックの回想録
> 第8章 ドライとウェット―実験室の民族誌
> 結論 パンデミックは神話か?

=======

水声社の「人類学の転回」シリーズはここ最近の人類学を牽引している人たちの訳本で、とても難解だが読まなければ!という感じの本だ。(*個人的な感想)

『流感世界』はずっと前に買って、最初と最後だけ読んで放置していた。また時がきたら読もうと思ってはいた。今回改めて読もうと思ったのは、言わずもがなコロナがあったからだ。

というのも、この『流感世界』は著者ケックが世界に広がるインフルエンザの流行を追いかけた記録だからだ。コロナが拡大する前に読んでおけば、もっと心もち穏やかに今を生きれていたかもなと思った。早く読んでおけばよかった。


>>>

2007年から2009年に香港における鳥インフルエンザに関する民族誌的調査をケックは行った。香港から調査始まり、次に中国は広州、北京、杭州、そして中国の隣国でアジアの両極、日本とカンボジア、ラテンアメリカはアルゼンチン・ブエノスアイレスとメキシコ、ケックの母国フランスと戻って香港。インフルエンザがグローバルに拡大していったように、ケックの調査地も世界中に跨っている。

この本では「専門家(エキスパート)」に注目している。

ケックは本書の目的として、「インフルエンザウイルスの軌跡を決定するメカニズムを認識しようとしているのではなく、それが現れたときに、それぞれの社会がさまざまな仕方で反応する様子を理解しよう」としている[p.13]。

その中で、「専門家」と呼ばれる人々は次のような人たちを指す。

畜産業者、商人、検査官、農業・食料産業の従事者、獣医、バードウオッチャー、微生物学者、医者、製薬産業の従事者、政治的権威とされる農業省・厚生省の人々、宗教的権威と情報を取り扱うメディアである。

このような専門家たちは、「生物学的変異と衛生上の殺処分と来るべき破局を貫いて、生物学的なものと政治的なものを結んでいる垂直軸と、生産と消費を貫いて、動物と人間を結んでいる水平軸」であり、「二つの軸で媒介者の機能を果たしている」[p.20]

彼/彼女らを追いかけることで、インフルエンザパンデミックとは一体なんだったのか、パンデミックは神話であるのかを考察していく。

>>>

ケックは本の中でしきりに「備え」の話をしている。

「備え」という概念は、「防止」のように、統計学的系列の空間内に発生地を画定することではなく、「予防」のように、行動の時間においてリスク評価することもでもない。

備え」の概念がカバーしていたのは、あたかも破局が現に現れているかのように振る舞い、その効果を制限しようとする諸実践の総体であった。それはもはや限界確定の交渉という経験的作業でもなければ、リスク評価という知的作業でもなく、むしろ想像力を駆使して、集団で、破局的地平の中に身を置くという作業だった[p.40-41]。

インフルエンザとストライキの類似性を考えていたときにケックは、パンデミックというものの「神秘主義的な」特性を意識するようになったと述べている[p.259]。

インフルエンザとストライキは、人間的活動の総体を、それが停止するかもしれないという角度から表象するという共通点を持っている。この二つはただ伝染によって進行し、個別的ケースの系列をいくつも打ち立てていくだけではなく、そうした系列を、社会の破局的な停止という地平に関係づけるのである。つまりそれら二つがともに導いていくのは、社会的構造における脆弱点を評価しながら破局に備えることなのである[p.259-260]。

<<<

インフルエンザがグローバルに拡大する中で、当事者らは次なる脅威に対して準備をしなければならないのだが、その行動を規定しているのが「備え」であり、その「備え」を理解することで、それぞれの社会が様々な仕方で反応していくことを理解することにつながるということだ、と私は理解した。

ケックの研究の「新しさ」は、なんといっても「実験室」への注目だ。ポール・ラビノウにバークレーで教えをこうたことも本書では述べており、訳者あとがきにも「明らかに現代人類学のいわゆるポストモダン的潮流に与している」[p352]と解説されている。

>>>

インフルエンザを社会的事実として扱おうと試みたとき、「実験室が社会的な製造所であるように見えた」と。実験室で何らかの緊張関係が発見された後、それと関わっていつも不安定な妥協や調停を強いられている当事者の数やサイズが大きくなるのに応じて、この緊張関係が他の場所で変異するのを観察することができる。

私の視線には来るべき破局へと向けられていたのではなく、むしろこの破局によって共通の地平に投げ込まれ、破局によってその地図を描くことが可能になった当事者たちの複数性へと向けられていたのだ[p.254]。

<<<

ここ最近の「実験室」への注目は、個人的に好きだ。なんか、農村とか都市部とかそういうんじゃなくて、「実験室」っていうのが新しくてキラキラしている。しかし、反対に「実験室」の研究を見てから、人類学で長年やってきた調査地での研究を見ると、「村の社会」も「実験室」も(誤解を招かぬようにお願いしたいが)同じだなととても思えるのだ。緊張関係というか、何かしらの均衡を保って人々が生きている様子が。


本の中盤に日本が事例として上がっており、そこで仏教のことや菜食主義のことが述べられていたが、これは何だかなぁという感じだ。私がケックの言わんとしていることを十分に理解できていないところもあるだろうが、日本だから仏教と結びつけるのはちょっといかがなものかと思う。レヴィ=ストロースの日本への関心と神話論とを含めて、もう少し勉強したい。


『流感世界』を読んで、今回のコロナの日本政府の対応を想うと、感染症に対する一般的な意味での備えは全くしてこなかったんだなと気がつかされた。韓国や中国が早々に収束できたのは、鳥インフルエンザやSARS、MERSの経験があったからというのはあるだろうが、日本はそこから何も学べてなかった(学んでいなかった)。私もそうだが、この本でようやくパンデミックや感染症について世界各地で起こっていたことを知った。大変、勉強不足のままコロナをむかえてしまったのだ。そりゃ、対応なんてできないよ。勉強してこなかったから、これから何が起こるのかも想像ができない。

「備えあれば憂いないし」とはいうが、備えるためには次なる脅威への想像力が必須だ。その「次なる脅威」が想像することができていないところに、今回の日本のコロナ失策があるように思える。



フレデリック・ケック『流感世界 パンデミックは神話か?』、読了。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?