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【本の記録】ジョアオ・ビール 『ヴィータ 遺棄された者たちの生』

2019年に邦訳が出版された、ジョアオ・ビールの『ヴィータ 遺棄された者たちの生』。訳者あとがきを含めると640ページとなかなかの厚さだが、読みやすさと話の展開のおもしろさであっという間に読み終わった。2007年のマーガレット・ミード賞(Margret Mead Award)にも選ばれた、秀作の民族誌である。

個人的に読んで欲しい対象者は、医師・看護師などの医療従事者、ソーシャルワーカーやホームヘルパーをしている人、医学部看護学部の学生だ。

もちろん、医療人類学をやっている方はすでに読んでいるだろうけど(煽ってない)未読であれば是非。社会学や精神病に関する様々について考えている方にもぜひ手にとっていただきたい。

著者:ジョアオ・ビール

ジョアオ・ビール(João Biehl)
ブラジルで神学とジャーナリズムの学士号および哲学の修士号を取得。1999年にカリフォルニア大学バークレー校で文化人類学の博士号を取得。バークレーにある宗教学総合研究センターで1996年に宗教学の博士号も取得している。専門は医療人類学。現在はプリンストン大学人類学部教授および同大学の「グローバル・ヘルスと健康政策」プログラムの事務局長およびブラジル研究所の事務局長を務める。(『ヴィータ』著者紹介より)

概要

 ブラジルの保護施設(アサイラム)のヴィータで暮らす女性カタリナをめぐる民族誌。ヴィータには精神病患者、薬物依存症患者、行き場をなくしホームレスになった高齢者たちが住んでいる。彼/彼女らは家族や親戚、警察、病院の関係者から棄てられた人々だ。
 カタリナもまた、家族や親戚、医療現場から見放された女性である。足が悪くなり働くこともままならず毎日の生活にも支障がでていたカタリナ。彼女は夫との夫婦仲が悪く日々喧嘩をしていた。夫はカタリナを精神病であるとし、精神科の病院に幾度となく連れて行った。家族や親戚らも入退院を繰り返すカタリナを「きちがい」で「精神を患っている」とし、介護することをやめ、ヴィータに置き去りにすることに決めた。
 人類学者のジョアオがヴィータを訪れ、カタリナの証言とこれまで受診してきた病院のカルテ、新たな医師からの診断をもとに彼女の過去を調査していく。すると、カタリナは精神病ではなく、神経系の病気マシャド・ジョセフ病であり脳や精神への疾患がなかったことが明らかになった。
 カタリナは「社会的精神病」であり、社会的に遺棄された者である。彼女の語り、書き残した「辞書」を手がかりに、主体性と「可塑化された自己」、社会的精神病について考察する。カタリナのような人は多く存在し、彼女だけが特異な例ではない。彼/彼女らは社会・政治・家族・医療の網の目の中を生き続けている。カタリナのライフヒストリーから、ブラジル全体の医療と政治の現状を描き出している。

ジョアオが援用した概念:人間の「可塑的な力」

フリードリヒ・ニーチェ:〈可塑的な力〉「それはつまり、自己自身から独自に生じる力であり、過去と未知のものとを改造し、身近なものや現在と一体化し、傷を癒やし、失われたものを補充し、壊れた鋳型を修復する力である」
→ ニーチェは、歴史の諸過程に対峙して修正される主体の形態と感覚、および過去や変わりつつある世界との間に新たな象徴的関係を確立する可能性へと、注意を向けさせている
>>「順応性の高い素材としての自己」=いかに社会文化的なネットワークが形成されるのか、いかにそうしたネットワークが身体からの影響と内面世界に媒介されているのか。このようなことを理解する上で、可塑的な自己という概念は中心的役割を果たす。

人間は不変の存在ではなくて、常に変わり続けている、ということでいいのかな。「可塑」の辞書的な意味は「思うように物の形をつくれること」だ。カタリナが、自分自身の名前のスペルを変えてみたりする行動もそうだし、カタリナが精神疾患では無かったことを知った後の親類の行動や語りの変化もそうなるのかな。でも、親類は根本的には変わってなかったから、変わったとは言えないか。

ジョアオのいう「社会的精神病」

社会的精神病:親族、公的機関、精神医学、薬物治療。これらが新たに結びつくことによって、人びとを精神病にしているといわないまでも、いかにして人びとの経験に精神病なる形式や価値を付与し、さらには間主観性をつくり変え、遺棄へと橋渡ししていることか。これこそが私が社会的精神病と呼ぶものである[154]

以上の引用部分が、ジョアオが定義する「社会的精神病」であり、本書のはじめににクリフォード・ギアツの言うところの「常識」について以下のように引用されていた。

クリフォード・ギアツ:「常識は世界を親しみ深いもの、あらゆる人が認識でき、また認識すべきもの、そしてそのなかではすべての人が自分の足で立ち、また立つべきものとして描き出す」。常識とは、「分別ある市民」が日常の問題に直面したとき、効果的に意思決定できるよう手助けする思考の日常領域である。常識を持たない者たちは「欠陥ある」人間とみなされる。

カタリナは、結局は精神病ではなかった。しかし、彼女の住む場所では、彼女の行動や言動は「常識」からは外れていて、「欠陥ある」人間とみなされてしまった。そのような親族との関係、そして公的機関、精神医学、薬物治療が相まってカタリナは精神病とみなされたのだ。今後「社会的精神病」について語る場面が来れば、カタリナの事例はいちばんに思い出されることになるだろうな。


感想と気になったこと

面白かった!で終わりたい、と思うくらい難しい本だった。どの部分もスイスイ読めてしまって、それが逆に難点だ。多分理論部分は勉強不足なためにわかってないんだけど、わかったつもりで読んでたら気持ちの良いくらい読めるし、「カタリナかわいそうだな」「ブラジルの医療、しっかりしてくれ」とか思ってしまう。アクロバットな展開だったはずなのに、すとんと読めてしまうこと、これが民族誌の難点だ。「そんなに上手い話がありますか?」と疑念を持ちつつ再読必須だ。


「ペンテコステ派に改宗した」とか「ペンテコステ派の教会に通っていた」など、ペンテコステ派がちょくちょく本文に登場していた。

ペンテコステ派教会:プロテスタントの一派で、異言、霊的癒やし、悪魔祓いなど、聖書に記された賜物の実践、およびすべての信徒がこれらの賜物を所有することを重視し強調する。[『ヴィータ』注釈より]

確かにペンテコステ派ならではの語り方があったのは明らかだった。しかし、個人的にはもう少し説明が必要かなと思った。「この人はこのような語りをしていました」「あ〜ペンテコステ派だからな」と単純に結び付けられるわけではないと思う。結び付けられるのか?じゃあ私が発する言葉全部が「あ〜仏教徒だもんな」ってなるか?ならないと思う。そんな感じだ。もう少し説明が欲しかった。別のところに書いてあるのかもしれないから、また探そうと思う。


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