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連載:「哲学ディベート――人生の論点」【第10回】どこまでヒトをロボット化してよいのか?

2021年6月22日より、「noteNHK出版 本がひらく」で連載を開始した。その目的は、次のようなものである。

●「哲学ディベート」は、相手を論破し説得するための競技ディベートとは異なり、多彩な論点を浮かび上がらせて、自分が何に価値を置いているのかを見極める思考方法です。
●本連載では「哲学ディベート」を発案した哲学者・高橋昌一郎が、実際に誰もが遭遇する可能性のあるさまざまな「人生の論点」に迫ります。
●舞台は大学の研究室。もし読者が大学生だったら、発表者のどの論点に賛成しますか、あるいは反対しますか? これまで気付かなかった新たな発想を発見するためにも、ぜひ視界を広げて、一緒に考えてください!

「人生」は無数の選択で成り立っている。どの学校に進学すべきか? どんな相手と、いつ結婚すべきか? 生きるべきか、死すべきか? しっかりと自分の頭で考えて、自力で決断するために大きなサポートとなる「人生の論点」の「哲学ディベート」を紹介していくつもりである。乞うご期待!

医学部E 僕は「ブタの心臓をヒトに移植してよいのか?」という問題を提起しましたが、2022年3月9日、アメリカのメリーランド大学は、この手術を受けたディビッド・ベネットが死亡したと発表しました。結果的に彼は、ブタの心臓で2カ月寿命を延ばしたことになります。
 この結果を知って思い出したのは、A子さんの言っていた「人間には定められた寿命がある」という考え方です。改めて、どこまでヒトの寿命を延ばせるのか、また、どこまで延ばすべきなのでしょうか?
 僕は医学を志しているわけですが、その基本方針は、目の前の患者の命を長引かせる「延命」、患者の苦痛を和らげる「緩和」、そして病気に罹患していない個人や集団をさまざまな疾病から防御する「予防」にあると、日頃から教えられています。
 そして、そもそもヒトの寿命は、およそ120歳を超えられないという限界のあることがわかっています。この点について、詳しく調べてみました。
 1961年、カリフォルニア大学サンフランシスコ校医学部の微生物学者レオナード・ヘイフリックは、次のような実験を行いました。まず、ヒトの皮膚の繊維芽細胞をシャーレで培養します。細胞は分裂して増加するので、その一部を別のシャーレに移し、再び増加した細胞を別のシャーレに移します。このように細胞を分割して「代」を継ぎながら培養し続ける方法を「継代(けいだい)培養」と呼びます。
 ヒト細胞の「継代培養」は順調に続き、120日を過ぎても繊維芽細胞は新たなシャーレで増え続けました。ところが、培養日数が130日になり、40回を超えた分割の頃から、細い繊維芽細胞が徐々に扁平に広がり始め、分裂のスピードが衰えてきました。
 45回まではシャーレの細胞数はほぼ一定でしたが、それ以降は目に見えて分裂する細胞が減少し始めました。実験開始から270日が過ぎた63回目のシャーレでは、ついにすべての細胞分裂が完全に止まってしまいました。
 つまり、ヒトの繊維芽細胞は、永遠に分裂を繰り返すのではなく、その回数に限界が存在することがわかりました。この現象は、今では「ヘイフリック限界」と呼ばれています。ヘイフリックは、最後のシャーレに残った「老化細胞」を「WI-38細胞」と名付け、少しでも早くこの現象を解明できるようにと、この細胞を世界中の研究者に提供しました。このヘイフリックの行為は、すばらしい「科学者精神」を示していると思います。
 その後、世界中の研究者が、なぜ「ヘイフリック限界」があるのかを追究してきましたが、その結果がわかるまでには、30年近くかかりました。1990年、ついにこの現象を解明したのが、コールド・スプリング・ハーバー研究所の分子生物学者キャロル・グレイダーのチームです。このチームは、細胞分裂の限界が「テロメア短縮」によって引き起こされることを発見しました。この功績によって、グレイダーらは2009年にノーベル医学・生理学賞を受賞しています。
「テロメア」とは、染色体の末端にある塩基対の「反復配列」(TTAGGG)のことで、最初は10,000塩基対以上あるものが、細胞分裂の度に短くなっていき、2,000塩基対にまで短くなると、細胞がそれ以上は分裂できない「分裂限界」に達します。
「テロメラーゼ」という特別な酵素を使うと「テロメア」の長さを伸ばして再び分裂させられるのですが、その場合、細胞が「がん化」してしまいます。つまり、健康な細胞の分裂には、どうしても超えられない限界があるわけです。
 一般に、生物種の寿命は、「身体の大きさ」や「成熟までの時間」や「脳の大きさ」といった要因を左右する「寿命遺伝子」で定まります。個別のヒトの寿命は「遺伝3割・環境7割」で決まるといわれていますが、ヒトの「最長年齢」は「寿命遺伝子」の設計図に記されているわけです。そこから導かれるヒトの寿命の限界が、およそ120歳なのです。
 そこから先の話は、もはや通常の医学を超えているのではないかというのが、僕の正直な感想です。心臓や肺、肝臓や腎臓のような主要臓器を「異種臓器」に置き換えること、さらに未来社会では「人工臓器」に置き換えていくことも医学なのでしょうか。極端に言えば、未来社会の人間は、脳細胞以外を機械化し、ロボット化して生きていくようになるかもしれません。
 そこで僕が考え始めているのが、「どこまでヒトをロボット化してよいのか?」という問題です。

教授 E君、「ヘイフリック限界」から「寿命遺伝子」まで、よく調べたね。君が新たに提起した「どこまでヒトをロボット化してよいのか?」という問題は、たしかに医学だけではなく、生命倫理学一般に関わる大きな問題だといえる。もっと言えば、実はその問題は、そもそもヒトの「生」や 「死」が何なのかという哲学的問題にまで繋がっている。
 以前のゼミでE君が発表してくれたように、発明家のレイ・カーツワイルは、「21世紀には2万年分の進歩が生じる」と予測している。さらに、彼が2045年には「シンギュラリティ」に到達し、10万円程度のコンピュータが、全人類100億人の計算能力に匹敵する能力を持つようになると予測していることについても話したね。
 実は、カーツワイルは、2045年になれば、人間の脳細胞の情報さえも機械にアップロードできるようになると述べている。つまり、ヒトの記憶や思考、すなわち「意識」そのものを、コンピュータに「マインド・アップロード」できるようになると考えているわけだ。
 今後、ヒトの皮膚や臓器を機械化して、身体をロボット化する可能性は十分考えられるだろう。首から下がすべて機械といえば、映画『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーや映画『ロボコップ』のアレックス・マーフィを思い起こすことができるが、さすがに脳そのものは取り換えていない。
 ところが、E君が説明してくれたように、実は脳細胞も、120年も経てば、ヘイフリック限界に達して、使い物にならなくなってしまうわけだ。そのため、未来社会では、ヒトが身体を捨てて、脳細胞を機械に「マインド・アップロード」する時代が来るのではないかというのが、カーツワイルの考え方だ。
 アップロードされた「マインド」をネットに接続すれば、ネットの世界の中で生きていくことになる。もはやヒトは、個別の身体という概念を超えて、世界の現実を「バーチャル・リアリティ」で体験できるわけだ。これは映画で言えば『マトリックス』の未来像だね。
 シンギュラリティ研究の第一人者である神戸大学名誉教授の物理学者・松田卓也氏は、このような未来像に基づくライフスタイルを「明るい寝たきり生活」と呼んでいる。

文学部A 仮に2045年に本当にシンギュラリティが到来して、機械の機能が飛躍的に増大して、私の脳の状態をそのまま小さなパソコンに「マインド・アップデート」できるようになるとします。
 そのパソコンには、私の過去の記憶や思考や性格など、私の「心」に関するあらゆるデータが入っていて、つまり、そのパソコンが私の「意識」を持つわけですよね?
 その「A子パソコン」の「意識」をネットに繋げば、ネットの中で「私」が世界中どこにでも好きなように一瞬で飛んで行って、「バーチャル・リアリティ」を体験できるというお話でした。ネットの中の私は、ハワイの海で泳いだり、エベレストに登頂したり、宇宙空間に浮かぶこともできる……。
同時に、私の「意識」はネットと融合して、ネット上のあらゆるニュースを瞬時に知ることができるし、どんな画像や動画や情報にも、自由自在にアクセスできるというイメージだと思います。
 そこまでは理解できたのですが、一方、生きている人間としての私は、そのまま普通に生きているわけですから、そこで人間の「A子」と機械の「A子パソコン」の2人が存在することになります。つまり、この世界にA子が2人いることになりますよね?
 もし「私」が複数のパソコンに「マインド・アップデート」して「A子パソコン」が何台もできたら、各々が「私」ということになります。そこで、「たった一人の私」というアイデンティティが崩壊してしまうのではないでしょうか。
 単細胞生物のように細胞分裂によって増殖していく生命には、そもそも固有の「死」は存在しません。たとえば大腸菌は、自分自身が二つに分裂して、それがまた二つに分裂して増えていきますから、クローンのように同じDNAの大腸菌が延々と続いていくことになります。
 ですから、いくら個別の大腸菌が死んでも、それとまったく同一の大腸菌が生き続けているわけですから、通常の意味で想定されるような「死」の概念は当てはまらないでしょう。
 もし「私」の意識を何台もの機械に「マインド・アップロード」できるようになれば、「私」とまったく同じ「私」のクローンをいくらでもコピーできますから、「私」が死ぬことに意味がなくなります。
 私は、松田教授の「明るい寝たきり生活」という言葉を聞いて、非常に不気味な感覚を覚えたのですが、その原因はそこにあると思います。「A子」という私は、たった一つの身体で成長しながら、これまでいろいろな経験をしてきて、その結果が今のユニークな「私」であるわけです。

法学部B A子さんの気持ちはよくわかります。よく自分の「心」が他人の「心」と入れ替わって、お互いの身体に乗り移るような小説や漫画がありますよね。僕は、最初からあまりにもバカげた設定だと思って、そのタイプの作品は読む気がしません。
 というのは、僕は「心」と「身体」は、根本的に切り離せないものだと思っているからです。たとえば、僕の右足の太腿には大きい傷跡がありますが、これは高校時代、サッカーの県大会決勝で相手校のフォワードと交錯した際、サッカーシューズのスパイクで抉られた傷です。試合の後、そのフォワードが入院した僕を見舞いに来てくれて、今では彼と親友になっています。
 逆に言えば、右足の太腿に大きい傷跡があるのが「僕」であって、その痛い体験のおかげで新たな友人と「心」の交流が生まれたわけですから、それらを切り離して考えることはできません。
 一方、この世には、交通事故などやむを得ない事情で、足を切断しなければならなくなった人もいます。そこで調べてみて驚いたのですが、現在の「義足」は、最低限の歩行や生活を保障する数十万円の製品から、マイクロコンピュータ制御の数百万円の製品、さらに健常者以上の能力を発揮する一千万円を超える製品まで揃っているのです。
 義足でとくに重要になるのが「膝」の動きですが、高価な製品は、膝内部の空圧シリンダーをマイクロコンピュータで制御するため、歩行速度に合わせて膝の屈伸速度を自動変速し、自然に歩行できます。
 安価な義足では、歩行中に膝がガクッと曲がってしまうことがあるのですが、高価な製品では、曲がった部分が自動制御されているため、仮に転びかけても、体勢を容易に元に戻せます。階段を自然に左右交互の足で下りることもできます。さらに高価な製品では、通常以上に速く走ることもできます。
 これは「義手」でも同じことです。もし高性能の義手を使えば、人間離れした速度で細かい作業を正確にこなしたり、コンピュータにリンクして綺麗な字を書いたり絵画を描いたり、人間の素手で触ると危険な物を平気で掴んだりできるようになります。普通の人間ならば1時間かかる細かい手作業を、高度な義手を付けた人間は10分で、しかも正確に終わらせることができるかもしれません。
 つまり、僕が危惧するのは、人間の機械化が進むにつれて、そこに新たな差別が生まれるということです。高価な製品で高度に機械化された人は、そうでない人に比べて、遥かに効率的に仕事をこなすことができるでしょう。そこで生まれる格差は甚大で、未来社会では、機械化されていない普通の人間ができる仕事は、減少していくかもしれません。

経済学部C 私は、今のB君の話を聞いて、「他にパラリンピック出場の方法がないのなら、足を切断します。大きな決断ですけど、僕にとって車いすバスケットボールの方がずっと大事なんです」と言った17歳の少年の話を思い出しました。
「車いすバスケットボール」選手のオスカー・ナイト君は、「CRPS(複合性局所疼痛症候群)」という難病に罹っています。何らかのケガなどをきっかけに、原因不明の強い痛みが続く病気なのですが、オスカー君の場合は、足に強い痛みがあり、歩くことができないので、普段から車いすを使用しています。足の筋力が低下したため、彼の両足は一般的な少年に比べてかなり細くなっています。
 2020年1月、「IPC(国際パラリンピック委員会)」が「国際車いすバスケットボール連盟」に対して「障害の基準を満たさない選手」を東京大会から除外すると発表しました。
 ここでIPCが定める障害の基準は、「1.筋力低下 2.他動関節可動域障害 3.四肢欠損 4.脚長差 5.低身長 6.筋緊張亢進 7.運動失調 8.アテトーゼ 9.視覚障害 10.知的障害」の10種類となっています。
 さらに、「車いすバスケットボール」では、障害の種類や程度によって最も重度の1.0から4.5まで8段階に分けられていて、コートでプレーする5選手のポイントの合計が常に14点以内でなければならないという独自のルールが定められています。
 オスカー君のCRPSは、そもそも10種類の障害基準に含まれていないため、東京大会出場の候補から除外されてしまいました。そこで彼は、足を切断して「四肢欠損」でパラリンピック出場資格を得ようと考えたわけです。
 私は、「ブタの心臓をヒトに移植してよいのか?」という質問に対して、完全に個人の自由だと答えました。ブタの心臓を移植してでも生きたいという人もいるだろうし、そこまでして生きたくないという人もいるでしょう。
 それと同じように、どこまで自分の身体を変えるか、機械化するかも、完全に個人の自由だと思います。オスカー君のように「車いすバスケットボール」が痛む足よりも大事な人にとっては、切断という決断も尊重されるべきではないでしょうか。

理学部D 少し違う視点から考えてみたいと思います。僕は、先生の「自己分析論」の授業で、古代ギリシャ時代のデモクリトスの思想に感銘を受けました。
 デモクリトスは、ソクラテスとほぼ同時代の紀元前460年頃に生まれたにもかかわらず、当時の神話や常識にいっさい頼らず、さまざまな物質の性質を純粋に自然現象として研究した人物です。しかも彼は、自然現象は「神」の力などではなく、「自然法則」に従っていると考えていました。
 太陽や月、雲や海、動物や植物など、さまざまな自然現象を観察していくうちに、デモクリトスは、すべての物質が「原子」と「空虚」の組み合わせで構成されていると考えるようになります。そこから彼は、宇宙の「空虚」に無数の「原子」があれば、それらの「原子」が渦を作りながら一カ所に集まり、衝突して幾つかの塊を作りながら回転を始めるに違いないと推察しました。
 驚くべきことに、この発想は、まさに太陽系で惑星が形成されて公転を始める現象の解説にもなっています。デモクリトスは、今から2500年近く前に、そんなことまで考えていた天才だったのです。
 デモクリトスの「原子論」を信奉し、そこから「いかに生きるべきか」を考えたのが、デモクリトスよりも少し年下のエピクロスでした。
 エピクロスによれば、人間は「原子」からできているため、人間が死ねば、その身体を構成していた「原子」も自然に還元されます。したがって、ソクラテスのいう「魂」のようなものは存在するはずがありません。そこで彼は、ありもしない夢想の「魂」の話を人々に説いて、市民裁判官に憎まれ口を叩き、挙句の果てに死刑に処せられたソクラテスのことを「バカ」だと断言しています。
 さらに、「万物は原子からできている」以上、「天国」のように原子に還元できない世界も存在しません。したがって、人生の目的は、ソクラテスやプラトンが言うように「徳」をもって善く生きて「天国」に行くようなことではないことになります。
 エピクロスにとって重要なのは、今生きている現実世界で達成すべきことであって、エピクロスは、人生の目的は「幸福」でなければならないと考えました。それでは、どうすれば「幸福」になれるか。
 エピクロスは「快楽」によってこそ人間は「幸福」になれると考えました。そこから彼の立場は「快楽主義」と呼ばれるようになったわけです。
 エピクロスは、人間の欲求を3種類に分けて考えました。健康と安定した衣食住のような「自然で必要な欲求」、大邸宅や贅沢品で飾り立てるような「自然だが不必要な欲求」、世俗的な成功や名声のような「自然でも必要でもない欲求」……。
 人間が「幸福」になるためには、何よりも苦痛や恐怖のような「不快」から逃れなければなりません。そう考えてみると、「自然だが不必要な欲求」と「自然でも必要でもない欲求」を満たそうとすると、必ず「不快」が付いてくることがわかります。たとえば、贅沢のために金儲けをしようとしたり、名声を得るために成功しようとしたりすると、必ず嫌な思いもしなければならないでしょう。
 そこでエピクロスは、人間が「幸福」になるためには、「自然だが不必要な欲求」と「自然でも必要でもない欲求」をすべて捨て去り、「自然で必要な欲求」だけを追求しなければならないと主張したわけです。
 その結果、人間は、あらゆる苦悩から解放されるはずです。エピクロスは、人間にとっての最高の「幸福」は、「平静な心」を実現することだと考えました。これを古代ギリシャ語では「アタラクシア」と呼びますが、この言葉には「無感覚」という意味もあります。要するに、何も感じない澄み切った水のような心境のことです。
 さらに、エピクロスは、「死を恐れる必要はない」と述べています。それは「魂」が永遠だからと考えたソクラテスやプラトンとは正反対の理由で、エピクロスによれば、死の瞬間に人間は「感覚」を失って「原子」に戻るのだから、恐怖を感じることはないというわけです。むしろ、その瞬間にこそ、人間は「平静な心」を得られるということになります。
 さて、僕は、遺伝子操作や異種移植や身体の機械化によって無理に寿命を延長させる行為は、エピクロスの言う「自然だが不必要な欲求」ではないかと思います。たしかにC子さんの言うように、やりたい人がやればよいのかもしれませんが、僕はそれよりも「アタラクシア」に到達することの方が人間にとっては重要だと考えます。

教授 「どこまでヒトをロボット化してよいのか」という問題から「ヘイフリック限界」や「パラリンピックの障害基準」や「アタラクシア」に関する哲学的議論が抽出されました。本当に難しい問題だと思いますが、このディベートを契機として、改めて自分自身で考えてみてください。

参考文献
Joshua Miller, “Maryland Man Dies Months after Receiving First Pig Heart Transplant” https://nypost.com/2022/03/09/maryland-man-dies-months-after-first-pig-heart-transplant/
Ray Kurzweil, The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology, Viking, 2005 [レイ・カーツワイル(井上健監訳/小野木明恵・野中香方子・福田実訳)『ポスト・ヒューマン誕生:コンピュータが人類の知性を超えるとき』NHK出版、2007]
NHK「『パラ出場のために足を切るか』車いすバスケットボール・出場資格巡る波紋」https://www3.nhk.or.jp/sports/story/6215/
高橋昌一郎『自己分析論』光文社新書、2020
松田卓也『2045年問題』廣済堂新書、2012
森望『寿命遺伝子』講談社ブルーバックス、2021

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