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追悼:寿岳潤!

Japan Skeptics初代会長で東京大学名誉教授の寿岳潤氏が逝去されたのは、CSICOP初代会長のポール・カーツの亡くなる1年ほど前のことだった。

Journal of the Japan Skeptics 20-3 (2011) は、急遽「寿岳潤追悼号」を発行することになり、私が関係者に声を掛けて編集作業を行った。締切まで短期間であったにもかかわらず、多くの錚々たる学者から追悼原稿が集まった。これも寿岳氏の人徳に拠るものである。執筆者は、古在由秀(東京大学名誉教授)、今井六雄(京都大学名誉教授)、中岡哲郎(大阪市立大学名誉教授)、西村史朗(国立天文台名誉教授)、尾崎洋二(東京大学名誉教授)、平林久(宇宙航空研究開発機構教授)、松田卓也(神戸大学名誉教授)、柴田一成(京都大学教授)、大槻義彦(早稲田大学名誉教授)、高橋昌一郎(國學院大學教授)である[敬称略、肩書は当時のもの]。

私の追悼文には、Japan Skeptics設立当時に何が起こったのかも触れてあるので、以下に、その記事を紹介しよう。

Japan Skepticsの寿岳潤会長                     

Japan Skeptics初代会長の寿岳潤氏が2011年9月14日に肺炎のため83歳で逝去された。謹んで哀悼の意を表明したい。


寿岳氏と最初にお会いしたのは1990年の春だったと記憶している。私はミシガン大学大学院に留学中、アメリカの「CSICOP」(Committee for the Scientific Investigation of Claims of the Paranormal)を創始した哲学者ポール・カーツから、日本に帰国したら「CSICOP」の日本支部の設立に参加しないかとコンタクトを受けていた。そして帰国後、「CSICOP」サイドから紹介された東海大学の寿岳潤氏と早稲田大学の大槻義彦氏、朝日新聞記者の久保田裕氏と丸善編集者の桑原輝明氏と合流し、この5名が中心となって「Japan Skeptics」を発足させることに話が進んだのである。


当時の記録を見ると、1990年12月4日の「第1回準備委員会」で会の名称・目的・理念、1991年2月16日の「第2回準備委員会」で会の事業・組織・運営、1991年4月5日の「第3回準備委員会」で設立準備総会について審議したということになっている。(Japan Skeptics Newsletter No. 1, p.2)


ただし、実は審議などといっても、皆の仕事帰りの夕方から高田馬場駅前のカフェバーのようなところに行って、飲みながら好き勝手なことを言い合うだけなので、まったく話がまとまらない。たとえば会員について、入会資格を厳しくして専門家集団の学会を組織すべきだという大槻氏と、幅広く誰でも入会できるようにして活動を広げるべきだという久保田氏では意見が正反対である。また、UFOや超能力現象に対して、積極的に個別の調査活動を行うべきだという点では大槻氏と久保田氏が同意するが、そもそもUFO目撃談の調査や超能力信者と話し合うことさえ時間の無駄だと考える寿岳氏は、乗り気にならない。


この頃の寿岳氏は元気溌剌で、ピザを片手に「ビールが私の主食です」と言いながらジョッキを何杯もお代わりしていた。二次会でスナックに行った際には、ママの手を取って腰を屈め、ヨーロッパの騎士のように手に挨拶のキスをした。その帰り道、かなり酔ったご様子だったのだが、突然私の方を向いて、「Japan Skepticsは、存続することに意味があるのです。このような会が日本に存在することに意味があるのです。率直に言って、私は敵(非科学信奉者)を啓蒙する必要など感じないし、UFO調査など時間の浪費だと思っています。とはいえ、今のように意見が割れていては会ができません。高橋さん、どうにか論理的に会則をまとめてくださいませんか」と丁寧に頭を下げて言われた。


寿岳氏はミシガン大学の大先輩であり、その実績は雲の上のような大先生である。議論の途中で激してくると、かなり強い言葉を大声で使われるようなこともあったので、最初の印象は「傲慢不遜で我儘な大先生」だった。しかし、この瞬間から、本当は「礼儀正しくて率直な大先生」なのだと考え直すようになった。そして、その後の私は、自分の意見はとりあえず置くことにして、あくまで「Japan Skeptics」が組織として存続することを最優先に考えるように方針を変えたのである。


「Japan Skeptics」の設立総会は、1991年4月6日に丸善の大会議室で開催された。ここで寿岳会長、大槻副会長、久保田氏と私が運営委員、桑原氏が監査委員という体制が承認された。「超自然現象を批判的・科学的に究明する会」発足ということでマスコミからの取材も多く、入会については1000件を超える問い合わせがあり、実際の入会者も200名を超えたと記憶している。このとき驚いたのは、寿岳氏の友人だということで、世界で最も著名な天文学者カール・セーガンから祝辞が届いたことだった。(Japan Skeptics Newsletter No. 2, p.4)


寿岳氏にはいくつかの口癖があって、その一つが「私はガチガチの科学主義者ですから」というものだった。久保田氏は、このような寿岳氏の姿勢を暗に批判して、「一度もデータを調べたりせずに、『超自然現象などあるわけがない』と断言し、それを信じる人を見下してみせる、というのは、科学的・教育的な態度とはいえない」と述べている。(Japan Skeptics Newsletter No. 3, p.1)


組織についても長い議論があったが、結果的にJapan Skepticsには誰でも希望すれば入会できることになったため、いわゆるオカルト糾弾者からオカルト信奉者までが会員となり、まさに「呉越同舟」状態からスタートすることになった。その後、いろいろな揉め事や紆余曲折があり、1993年からは大槻氏が副会長を退き、久保田氏は会そのものを辞めることになった。この頃、オカルト信奉者や興味本位で入会していた人々も脱会したため、会員数が半数近くに急減した。それでも寿岳会長は「自然淘汰ですよ」と笑って動ずることがなく、「きっと大槻先生は戻って来られるでしょう」と言ったが、その予測通り大槻氏は現在は再び運営委員としてご活躍中である。


さて、もう公言しても構わないと思うが、たしかに久保田氏の批判にあるように、寿岳氏が内心で超自然現象を「見下して」いたことは事実である。というのも、実際の天文学や科学は、疑似科学や迷信とは比較にならないほど興味深く知的好奇心を掻き立てる研究対象だからであって、寿岳氏が力を注ごうとしていたのは、「敵(非科学信奉者)」に感化される以前の人々への科学教育活動だった。この点で、寿岳氏は、カール・セーガンと一致する信念の持ち主であった。


その一方で寿岳氏は、真の哲学的問題については「私にはわかりません」と謙虚に答えていた。「私は人間原理についてはずるくって、わからない、わからないといつも言っています。いわゆる『弱い人間原理』についてはわりとすんなり受け入れられますが、『人間』の名を付ける必要があるのでしょうか。原理と言う以上、それに基づいて何かを予言し、実験で検証することが望ましいのですが、そのような話は聞きません」(寿岳潤・佐藤勝彦・高橋昌一郎「宇宙はなぜ宇宙であるか」『月刊現代』講談社1993年12月号、281ページ)


「亡くなった木村資生は、『銀河系の中で高度な知的生物は人類をおいて他にない、という主張の方がはるかに理にかなっているように思われる』と述べている。しかし、ド・デゥーブのように、『宇宙における生命の発生と進化は、適切な条件の下では必然である』と説く生命科学者もいる。私には分からない」(寿岳潤「自分と出会う」『朝日新聞』1999年2月16日号)


改めて寿岳氏の言葉を読んでみると、実はロマンティストであったこともよくわかる。「『あなたは宇宙人の存在を信じますか』と尋ねる人をよく見かけるが、科学は信ずる、信じないの問題ではない。意味のある設問を科学的に判断できることが分かった場合、それを追究するのが科学である。『宇宙知性体の存在が確認されれば、どんな利益がありますか』と聞かれると、私は涙が出るほど悲しくなる。だが、何ら報われることなく、研究者としての一生を宇宙知性体の検出に費やしてきた米国の友人の話を聞いていると、ひょっとすると人類の未来も捨てたものではない、という気持ちになることもある」(前掲紙)この文脈で「涙が出るほど悲しくなる」という表現を使う「ガチガチの科学主義者」は珍しいのではないだろうか……。


これもJapan Skeptics設立当初の思い出だが、たしか「CSICOP」の翻訳権について会長に最終確認していただく必要があって、急遽ご自宅に伺ったことがある。リビングのあちこちに装飾品があって、ところどころに美しい花が飾られていた。「私は天文学と結婚したつもりだったのですが、急に最近になって人間の女性と結婚したのです」と、立て掛けてあった奥様の写真を指差された。「それはおめでとうございます。優しそうな方ですね」と言うと、「そうです。優しい方です」と、心底嬉しそうにニッコリされた表情を今でも覚えている。


寿岳氏に脳梗塞の最初の発作が起きたのは、2003年9月だったと、その奥様から後で伺った。その朝、寿岳氏は「かつて経験したことがない異様な感覚」に襲われたにもかかわらず、自分一人で病院に行き、きちんと順番を守って診察を受けたそうだ。もっと大騒ぎして早く診てもらえばよかったのかもしれないが、寿岳氏はそういうことのできない良家に育った紳士だった。


その後、ご自宅や病院へ何度かお見舞いに伺ったが、会うと途端に世界のSkepticsの動向から地球温暖化問題、人間原理や超越論にも話が飛んで、尽きることがなかった。お送りした拙著『理性の限界』と『知性の限界』も隅々まで読んでいらして、質問は多岐にわたった。2010年の秋、小学生の長男と幼稚園児の長女を連れて家族でお見舞いに伺ったのが最後になった。子供たちが、ぬいぐるみのクマをプレゼントして小さな手で寿岳氏と握手をすると、嬉しそうに涙ぐまれていたことを覚えている。


2011年は「Japan Skeptics創立20周年」であり、総会には歴代会長に集まっていただき、初代会長の寿岳氏には映像参加していただこうと企画していたのだが、3月11日の東日本大震災の影響で総会そのものが延期となってしまった。その後、対談記事を頂戴するために何度か奥様に連絡を取っていたのだが、日程が折り合わずに、結局インタビューを果たすことができなかった。「Japan Skeptics」としても誠に残念だった。

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