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こわがり

こどもの私は怖がりでした。
今考えるとちょっと異常なほどではなかっただろうか。
みなさん、どうでしたか?

怖がる対象は、ザ・オバケ&幽霊。今風に言えばスピリチュアルなこどもであったが、そういったものが見えたことはない。どんな風に怖がりだったかというと、とにかくひと気のないところがダメだった。小学1年生の頃は、怖くて学校のトイレに一人で行けず、我慢しきれずにトイレの失敗を何度かしでかした。幼稚園生でもあるまいし、恥ずかしいのと、理由を説明できる語彙力がないのとで、先生に言えずトイレの前で泣いていた記憶がある。

家が学区の端だったので、学校帰り最後は必ず一人になる。真昼間でも人通りがない道を通るのがいやで、誰か同じ方向の人が通るまで分かれ道のすみっこで待っていた。どうしても誰も通らない時は、セーラームーンの主題歌や、文字通り『オバケなんてないさ』などアップビートな楽曲を大声で歌いながら押し通った。

階段の踊り場も苦手であった。住んでいたのは4階建てマンションの3階。エレベーターはなく、(あったとしても一人では絶対乗れなかったが)階段には半階毎に狭い踊り場があって、曲がり角になっていた。この先の見えなさが絶望的に怖かった。曲がった先の幽霊を想像して震え上がった。なので、住人の誰かが通るまで入口付近で待ち、誰か来ると無言で後をつけるようにいそいそと登った。とても不気味なこどもであるが、苦言を呈された記憶はない。そうやって毎日入り口でもじもじと、人待ちを30分も1時間もしている私を見ていた隣の建物に働くおじさんが、ある日声をかけてくれた。こどもながらに怖がりなことに罪悪感と恥らいを持っていた私は身構えたが、彼はなんともなげな口調で、私が階段が怖くて家に入れないということを聞き出し、その日からほぼ2年間、可能な限り日々欠かさず、下校時刻に合わせて職場の外でタバコをふかしながら私を待つようになった。なんの所以もない赤の他人のこどもに付き添って階段を一緒に登る、ただそれだけのためである。この小さなパートナーシップは隣の古い建物が取り壊され、私が住むのと似たような小さなマンションに建て替えられることになり終わりを迎えた。彼は結局私の両親に会うこともなかったように記憶している。でも彼の優しさは間違いなく、ちょっと考えても私の両親には理解に苦しむ怖がり少女の日常を救ってくれていた。

鍵っ子だった私には、家に帰りついてからも恐怖との戦いである。まずは間取り2D Kの屋内全ての電気を大急ぎで点けて回る。まずは玄関と廊下、トイレとお風呂場、キッチンダイニング、そことひとつながりになっている和室、それから玄関近くのテレビのある部屋に戻ってテレビも点けて、やっと一息つけた。テレビから流れてくる人の声が唯一怖さを和らげてくれたのだ。なので母が仕事から帰ってくるまでの間、私はずっと玄関近くの小部屋で過ごした。そこは外通路へ通じる窓がある部屋だったので、帰宅する母の足音が聞こえてくると安堵できるが、怖い気持ちが強いときや、母の帰りが遅くなって外が暗くなってしまうと部屋から出るのが怖くなり、トイレや、キッチンに食べ物を取りに行けなくなって困った。母は友人に私の点灯癖を驚嘆をもって愚痴っていた。「家に帰ると、明かりという明かりが点いてるのよ!電気代が嵩んで困る、どうしたらやめさせられるのか。」

成長とともに怖がりが薄れていったかというと、残念ながら大部分は変わらなかった。一旦怖いとなると、胃の奥の方をぎゅっと掴まれたようになり総毛立つ。でも恐怖心との付き合い方が上達していったとは思う。一度点灯して確認し、自分の安心できるゾーンを心中に保つことで点灯癖は改善されていったし、高校生にもなれば人通りのない夜道も、怖くないと自分に言い聞かせて音楽を聴きながら突破できた。街灯が切れかかってチカチカと不穏な光を放っている道は一人では流石にダメで、携帯電話で友人や家族に電話をかけながら足早に通り抜けた。一人暮らしをするようになってからも就寝時は明かりを点けたままだったし、テレビや、パソコンで動画を流しながら寝ることも多かったが、日常生活や人間関係に支障が出るようなことはなくなっていった。

私の恐怖の源は、生の世界の外にあった。

死を連想させるものは全て怖かった。霊柩車も、骸骨の絵も、虫の死骸も、七不思議も、ニュースの殺人事件も怖く、幽霊を想像して怖くなっていたのもその結果生じた二次産物なのだと思う。日本に来る前、記憶もおぼつかないくらいすごく幼い頃、曾祖母が脳卒中で倒れた。祖母に連れられて病院へお見舞いにいったのだが、場所は1980年代後半の上海。その病院は不衛生な感じがして、とにかく暗く冷たく、人の生気みたいなものがなかった。私は大好きだったはずなのに、優しい笑顔で可愛がってくれていたひいばあちゃんと、ベッドに横たわるひいばあちゃんのギャップを受け入れることができず、それが怖くて病室に入るのを断固として拒否し、祖母を困らせたという記憶と罪悪感を、今でも持っている。私にとって生の外の世界というのはそんな感じなのだと思う。あの入れなかった暗い病室の中にあったのだろう。そしてそれは、死ぬことよりも、死そのものへの恐怖を私に植え付けた。私が想像上で恐れ慄いていた幽霊達は少女だったり女の人だったりすることが多かったが、皆表情がなかった。あの病院のように無機質で冷たい目をし、髪に不衛生な感じがしていた。

アラフォーとなった今、私はもう怖がりではない。人のいない暗い道も、暗い家も平気だし、無音の暗闇の中でもぐっすり眠ることができる。なんなら怖い映画だって見ちゃう。いつからだろう、この文章を書きながらふと考えた。はっきりした区切りがあるわけではないのだけれど、祖母の死が私から恐怖心を徐々に取り除いてくれたのかなと今は思う。

祖母は私が20代前半の時亡くなった。もう危ないという連絡を受け、私と両親は上海へ飛んだ。昔に比べたらだいぶ改善はされているはずだけれど、日本に比べれば、まだだいぶ暗く陰湿な雰囲気を残す病院に祖母は入院していた。病室に横たわる祖母はすごく小さくなっていて、最後に家であった時とは別人のようだった。でも手を握ると自分の手がその感覚を覚えており、「ああ、おばあちゃんだ」と思った。あたりまえのことだけれど、薄暗い病室にも、変わってしまった祖母の姿にも怖さはなかった。そもそも、怖さについて考えさえしなかった。不謹慎じゃないか、と自覚するくらい現状をただ見つめていた。その場にいる全員、談笑するほど不思議なくらい悲壮感がなく、祖母は意識は朦朧としていたが、手指を何かを数えるように一本ずつ折り曲げる動作を繰り返していた。それを見た叔母が「人は亡くなる前にこんな風にして日数を数えるらしいのよ」とまことしやかにいったが、それはどうなのだろう。

そんなふうにして数日が過ぎたある日の夕方、病院にいた母からついに「もうダメかもしれない」と連絡が入った。従姉妹と一緒にタクシーを病院に乗り付け、駆け込むように病室に入ると、ドラマのように心拍を計測する機器がアラーム音を鳴らし、血圧を示す数字がみるみる下がっていっていた。両親と私、叔父一家、祖母の妹一家、10人ほどがベッドの周りを囲み、息を飲んでおばあちゃんを見守った。血圧が40まで下がった時、祖母は大きく息を吸い、そしてホゥと力を抜くように、息を吐いた。それが最後であった。私には祖母の魂が最後の吐息と共に体を離れたように見えた。これが死なのか。あんなにも私を恐怖させた死には、恐ろしさどころか、そこ儚い哀しさと、そっと人を包み込むようなやさしさがあるではないか。おばあちゃんだったからかもしれないけれど。

永遠にも感じられた祖母の死の瞬間の後、間髪入れず、いつからそこにいたのか、ずっとそこにいたのか、医者が死亡時刻を告た。それから看護師達によりテキパキと祖母の身体は清浄され、そそくさと霊安室に運ばれて行った。病室を出ると、呆然としている母と叔父の代わりに、祖母の妹の長男がもともと段取りをつけていた葬儀社に連絡を入れているのを尻目に、なんだか現実味を全く持てないまま、その日は帰宅した。祖父もちょうど入院していて誰もいない祖母の家に帰ったのか、ホテルに泊まったのか、従姉妹の家に泊まったのか、正直記憶にない。

いつか訪れるであろう、家族や自分の死は今だってこわい。だけど、祖母の死により、死自体への恐怖はなくなった。何より出産だって、生の世界の外から命を授かるようなものじゃないか。

私の曲がり角の先にはもう、無機質な顔をした女の幽霊は立っていない。




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