【小説】〈2〉カラオケルーム

〈1〉赤毛の男 https://note.mu/lnntnsi/n/n27553851e29e

乗る予定だった電車が、ホームへの階段を駆け降りている私を置き去りにして発車した。遅刻だ。地元の駅は電車の本数が少ない。
「ごめん、遅れる。どこか入って待ってて」
すぐに男に連絡する。
「楽器屋でも行こうかな」
男は音楽が好きらしい。特にロックが。そう言えばこの間の通話中にも、自慢げにエレキギターを爪弾いていた。

K駅近くの大型商業施設の中に、その楽器店はある。私も数ヶ月前にここでギターピックを購入した。
「ついたよ」
とメッセージを送信して、辺りを見回した。男のプロフィール写真はどれも顔全体がはっきりと写っておらず、私は彼の人相をよく知らなかった。真っ赤な毛髪も今は黒に染め直したらしい。わかるのは、背が高いということだけだ。
あそこでギター弦を眺めているのがそうだろうか。こちらの方を向いたと思いきや、店の奥へ入っていった。違ったようだ。メッセージは既読にならないし、他にそれらしい人はいない。本当に男はここにいるんだろうか──────。その時、立ち並ぶ楽器の奥から背の高い男が歩いてきた。
「ん」
私の前で立ち止まり、頷いた。
「お待たせ、ごめんね」
そう口に出すのと同時に、ああこの人が透くんなのか、と脳が判断した。少し茶色がかった髪に青いシャツ。最近人気の若手俳優のような甘い顔をしている。実物よりは少し目つきが悪いとはいえ、雰囲気の良い好青年だ。ファッションがどれほど第一印象に影響するかがよく解る。
「で、この辺何か面白いところあんの?」
投げやりな口調が露わになると、たちまち人気俳優が不躾な大学生に戻った。私の都合で指定したK駅は、遊び場らしいところは少ない。
「カラオケくらいかな」
いつも利用する安価なカラオケチェーン店は駅を挟んで反対側だ。こちら側には古そうな小さな店が一件だけだ。
「近くに一件だけあるけど、行く?」
私が尋ねると、男は返事をする代わりに店の出口へと歩き始めた。

寂れたカラオケルームで、男は煙草をふかす。曲入れていいよ、とリモコンを渡したきり、私が歌うのを眺めているだけだった。
「何見てんの」
「他人が歌ってるところって見てて面白いじゃん」
部屋は煙で満ちていた。私はふと思いついて、「煙たい」という曲をリクエストした。
「何だよ、俺への文句かよ」
画面に映し出された曲名を見て、笑いながら男が言った。無視して私は歌う。

♪トムヨークは聴き流すくらいが丁度いい
そんな気分で爪を隠し持っている子猫になれたならいいな

「トム・ヨーク知ってんのか?レディオヘッドのフロントマンだぞ」
曲が終わるなり馬鹿にしたような口調で男が訊いてくる。
「クリープなら知ってるよ」
「とにかくオーケーコンピューターってアルバムは聴いとけ。最高だから」
私は生返事をして、マイクを男に突きつける。
「次の曲一緒に歌ってよ、知ってるでしょ」
えぇ、と漏らしながらも男はマイクを受け取った。いざ曲が始まるとよく通る声で歌い出す。艶っぽい歌声が曲調にもぴったりだった。男性とのデュエットなんていつぶりだろうか。自分の声に低音が絡みついてきて心地良い。男は最後まできっちり歌い上げた。歌う気が起きてきたのか、その後は何曲かひとりでも歌った。
「そろそろ出なきゃ」
次の予定の時間が迫っていた。最後の一曲を何にしようかとリモコンをのぞき込んでいると、男の手がテーブル越しに伸びてきて私の顎を掴んだ。私の頭は男の手に乗せられ、テーブルの向こうへと運ばれて行く。両頬の肉に押されて不格好に突き出た私の唇に、男が自分の唇をつけた。すぐに男の手が顎から離れ、私の頭が宙に浮く。
「うざー、最低じゃん」
頭を引っ込めながら無表情でそうぼやいておいた。煙草の味も感じられないほど一瞬のキスが、私たちの間で何か意味を持つとは思えなかった。

カラオケを出て駅の近くで男と別れた。少し歩いてからスマートフォンを取り出して、メモ帳アプリに「オーケーコンピューター」と書いて保存した。そして男にメッセージを送った。
「今度家行ってもいい?」
返事は聞くまでもないだろう。“不健全”同士なのだから、こうなることは解り切っているのだ。今日過ごした数時間も所詮は回り道に過ぎないが、私はこの回り道を楽しんでいる節がある。本当は、こんな戯れにも付き合ってくれるあの男を、うざいとも最低だとも思っていなかった。 【続】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?