ネオテニーとセックスの話し

先々月「褒める話し」を書いた。「他人を褒めることは、自分を幸せにすることと同じなのかもしれない。」などと書いておきながら、褒めることについて疑問を感じ始めてしまった。

褒めることと世辞をいうことは違うのだけれど、それを混同しているひとが非常に多い。褒めるというのは、自分が素敵だなと思ったことを口にすることで、相手を気持ち良くするために無理に吐き出す言葉ではないのだ。Twitter社が「言論の健全化のために廃止する」と言っている「いいね」文化…つまり「相手をとりあえず肯定しておけば良いだろう」という習慣の果てなのかもしれない。ファック。

とくに女性同士の「褒められたい」願望のようなものを感じ始めたら、なんと未熟で幼稚な行為なんだろうと思うようになってきた。

ある女性に「わたし、普段はもっとメイク濃いんです」と言われた。メイクが話題になっていた訳でもなく、メイクアップは適材適所、それぞれ個人の自由だと考えるから、わたしは心のなかで「??何故そんなことをいうのだろう?」と疑問が浮かんだ。なんと答えればよいか分からず、とりあえず「そうなんですね。」と返した。

あとで考えてみたら、きっと彼女はそこで「えー、そうなんですか!すっぴん風メイクでも十分お綺麗ですよ。」と言われたかったのだと気づいた。なんて面倒くさい生き物なんだろう!

子供の頃、40代、50代って、もっと大人なんだと思っていた。強くて自己解決ができて、めったに他人に甘えたりしない。でも自分がその歳に近づいてきたいま、自分を含め、周りの友達も年上のひとも、両親も、精神がすごく未熟だと感じる。寿命が長くなったから?戦争のような命の危機にさらされることが少なくなったから?そもそも「昔の大人」も心は未成熟だったんだろうか?

そんな未熟で勉強中のわたしも、心が満たされて強い大人になれる瞬間がある。または未熟になって甘えることがゆるされる瞬間がある。それは、ベッドのうえで、恋人を相手にするときだ。

生物学者の福岡 伸一は「ヒトはサルのネオテニー」だという。
https://note.mu/lmx/n/n80fb430cbb75

あとは、書くのが面倒になってきたので、うえの記事を読んでください。

誰だって、「やらなければ」と思っているのに気が進まずできなかったり、傷ついたり、弱ったり、甘えたくなったり、サボりたくなるときがある。

そんなとき、ベッドで愛しあえば性成熟を実感する。心もみたされた大人、成熟に近づく。だから、「常に誰かに褒められたい」という未熟さが消えていく。強くなって「次に進もう」と思える。ねぇ、セックスしよう。