卯月草
私はまだこんなに貴方のことが好きなのに、なんて、ただ駄々をこねたところで、彼を引き止められる理由にはならなかった。 一人になった部屋は、あまりにも広すぎた。…
二月十四日。世間ではバレンタインと呼ばれるこの日は、私の恋人の生まれた日だ。 彼と付き合い始めてから、初めての誕生日。 だけど、正直、しんどい。それは嬉しくな…
『目を覚ますと、新しい一年が始まったということに気がついた』 ゆっくり起き上がり、僕は体を奮わせた。 冷えた空気が体を覆っている。空はまだ暗く、眼下には街の…
序章 迷路のようなその道を照らすものは少なく、容赦なくこの場を暗闇で覆おうとする。 その闇に溶け込みそうな、黒いスーツをきっちりと着た男はネクタイに指をかけ緩…
杏さんと友達になって一か月が経った。あの日から、平日は毎日のように、放課後図書室で会った。約束をしているわけではない。ただ、ここに来れば会えるだろうと、そう思…
手のひらに、コロンとしたチョコレート一つ。キャンディーのような包み紙。 「ありがとう」 クラスの女の子に貰ったチョコレート。もちろん、義理チョコ。律儀に全員に…
私はまだこんなに貴方のことが好きなのに、なんて、ただ駄々をこねたところで、彼を引き止められる理由にはならなかった。 一人になった部屋は、あまりにも広すぎた。机の上に丁寧に置かれた鍵が、鬱陶しく感じる。帰ってこいよ、と思う。カーテンの隙間から橙色に照らされた建物が見えた。一日の終わりへと向かう光は、彼が帰ってくる合図だったのに、扉が開く音がしない。時計の音が部屋に響いてうるさかった。その音を消すようにスマートフォンから音楽を流すと、彼が好きなバンドの曲が流れてきた。フラれた
二月十四日。世間ではバレンタインと呼ばれるこの日は、私の恋人の生まれた日だ。 彼と付き合い始めてから、初めての誕生日。 だけど、正直、しんどい。それは嬉しくないだとか喜べないだとかそういうことではなく、当日どうやって過ごすのが正解なのかとか(高校生だから学校はあるけれど)、放課後にデートすべきなのかとか、学校でプレゼントを渡した方がいいのかとか、誕生日とは別にバレンタインのチョコレートは用意すべきなのかとか。そういった〝正解〟を当てることが、しんどかった。彼にがっかりされ
『目を覚ますと、新しい一年が始まったということに気がついた』 ゆっくり起き上がり、僕は体を奮わせた。 冷えた空気が体を覆っている。空はまだ暗く、眼下には街の明かりが瞬いていた。 「やあ、おはよう。起きたね」 その声に振り返ると、一人の青年が立っていた。一年ぶりにみる“鱖魚群”に、また季節が巡ってきたのだと、実感する。 その青年は僕の隣にこしかけると、街を見渡した。 僕はその横顔に話しかける。 「サノさん。お久しぶりです。もうすっかり寒くなったんですね。雪は降りまし
序章 迷路のようなその道を照らすものは少なく、容赦なくこの場を暗闇で覆おうとする。 その闇に溶け込みそうな、黒いスーツをきっちりと着た男はネクタイに指をかけ緩める。シャツの袖から覗く手首には黒く〝KANATA〟と表記されている。それは自身の、この男の名前であった。 壁に片手をつき屈んだ状態でそっと顔を出す。 人影が見える。顔までは見えず輪郭がぼんやりと分かるくらいだ。 「これじゃあ下手に動けないな」 カナタは舌打ち混じりに言う。ゆっくりと息を吸うと静かに吐く。どうやら
杏さんと友達になって一か月が経った。あの日から、平日は毎日のように、放課後図書室で会った。約束をしているわけではない。ただ、ここに来れば会えるだろうと、そう思って俺は毎日図書室へ通った。杏さんも、そうだろうか、そうだといいなと、独りよがりなことを考えてしまうほどには、俺は杏さんのことが好きになっているみたいだった。 一か月前と同じ、教室の空気がそわそわしているのは期末試験の返却だけが理由ではないだろう。 昼休み、俺の前に座る酒井が椅子を反対にし、俺の机にどかっと飲み物
手のひらに、コロンとしたチョコレート一つ。キャンディーのような包み紙。 「ありがとう」 クラスの女の子に貰ったチョコレート。もちろん、義理チョコ。律儀に全員に配っている。そもそもあの子は彼氏がいる。彼は嫉妬したりしないのだろうか。そんな心配をしてしまう。 今日はバレンタインだ。何となく、教室がそわそわしていた気がする。友人は、今日は彼女とデートと言っていた。帰りのホームルームが終わると、駆け足でさっさと教室を出ていった。俺は「楽しんで」と言って軽く手を振ると、いつものよ