乃東生

『目を覚ますと、新しい一年が始まったということに気がついた』

 ゆっくり起き上がり、僕は体を奮わせた。
 冷えた空気が体を覆っている。空はまだ暗く、眼下には街の明かりが瞬いていた。
「やあ、おはよう。起きたね」
 その声に振り返ると、一人の青年が立っていた。一年ぶりにみる“鱖魚群”に、また季節が巡ってきたのだと、実感する。
 その青年は僕の隣にこしかけると、街を見渡した。
 僕はその横顔に話しかける。
「サノさん。お久しぶりです。もうすっかり寒くなったんですね。雪は降りましたか?」
「まだ降ってないなあ。けどこの寒さだと、もうすぐかもしれない」
 そうですか、と、空を見上げて呟く。カシオペアが光っていて、点を目でなぞる。
 雪を、去年は見れなかったなと思い出した。毎年、雪を見ることができるかどうか、密かな楽しみなのだ。
「雪が降るかどうか、その質問も何回目かな? 見れるといいね」
サノさんは優しく僕に笑いかける。
 〝密かな〟と、思っていたのは僕だけらしく、恥ずかしくなって視線を街へ戻した。
 この山の展望台から見る景色は、相変わらず美しかった。目の前に広がるパノラマは、満天の星をそのまま鏡に映しだしたようだと、いつも思う。
「夜が明けたら、どこへ行くの?」
 サノさんは首に巻いたマフラーを外しながら言う。
「行けるだけ、行ってみます。出来るだけ挨拶したいので。……あっ」
 サノさんはマフラーを僕の首に巻きつけた。すぐに首元から温もりが広がっていく。
 顔が埋もれそうなくらい、大きなマフラーは、体によく馴染む。寒い季節を生きる僕たちにとって、このマフラーは特別だ。暖かい季節にも、僕らのマフラーとは違う、何か特別なものがあるのだろうか?
 どうしたってこの五日間の中で目を覚ましていると、他の季節の様子をなかなか知ることができない。
「そうだ、今年はもう一つ、大切なものがあるんだった」
 サノさんはそう言ってコートのポケットをまさぐった。
 そうして出てきたものは四角く縦長い、薄いもの。〝スマートフォン〟と呼ばれるものだった。見たことはあるけれど、実際に触ったことはない。
「それ、どうしたんですか?」
「俺も受け取ったんだ。どうやら〝桜始開〟からずっと周ってきてるみたいだよ」
 僕はそれを受け取り、表面を触ったり裏返したりしてみる。
 側面に小さなでっぱりがあり、押してみると明かりがついた。
「わっ! これはどうすればいいんですか?」
 僕はそう尋ねると、サノさんは慣れたように画面を触る。そうして現れたのは四角い様々な絵や記号のようなもの。綺麗に均等に並んでいる。
「これを押すと、ほら、皆が撮った写真が見れる」
「……綺麗だ」
 自分の手のひらに、今まで見たことのない世界が広がっていた。行ったことのない場所、知らない花、初めて見る〝季節たち〟。
「凄いよね。俺も貰ったときは驚いたよ。これで写真や動画を撮って、皆で共有していくんだって」
「あっ! サノさんが映ってます!」
 そこにはサノさんと、背景には街を彩るイルミネーションが輝いていた。
「そうそう、ルールが一つだけあって。自分を一度は撮らなきゃいけないんだって。自分を撮るなんて何だか恥ずかしかったけど」
 写真の中のサノさんは少し照れたように笑っている。
「これは、どうやって自分を撮るんでしょう?」
 くるくるとスマートフォン回して、カメラのレンズであろうものと画面を交互に見ていると、サノさんが手を差し出してきた。
 僕はその手にスマートフォンを渡す。すると腕を伸ばし体をこちらへ寄せた。
 さっきまでサノさんが映っていた画面には、今は僕とサノさんが映し出されていた。
「あれ、レンズは後ろにあるのでは?」
「ほらよく見て、こっちにも小さくついているだろう?」
 サノさんは反対の手で画面の端を指さした。確かにそこにはほんの小さなレンズがついていた。
 僕はそれに向かって手を振ってみる。
 すると画面の中の僕も僕に手を振った。
「一枚撮ってみようか」
 サノさんはそう言うと画面にある白い丸を押した。カシャっと音がして今この瞬間が切り取られた。
 サノさんは画面を何回か触ると、今撮ったばかりの写真を見せてくれた。
「僕とサノさんが映ってます」
 それはそうだよと、サノさんは笑った。
 そうしてスマートフォンの操作を簡単に教わると、サノさんは立ち上がった。
「もう行くんですか」
「うん。そろそろ行くよ。俺の役割は一旦お終いだ」
 もう何度目の別れか分からないけれど、今年はどうしてか、いつも以上に寂しく感じた。
 画面の中で、いつでも会えるはずなのに。
 僕は自分からサヨナラということができず、じっと口を閉ざした。
「また来年会おうな。そのときのためにも、たくさん写真、撮っておいてよ」
 僕は返事をしようと口を開いたその瞬間、強い風が吹いて反射的に目を瞑った。
 瞼を開いたときには、サノさんはもういなかった。
 いつの間にか、空が白んでいることに気付く。
 僕は立ち上がると、空へ向けてスマートフォンを構えた。
 また、新しい季節が始まる。
 僕は清々しい気持ちで、シャッターを切った。
                                      了