リウムリウム

序章

 迷路のようなその道を照らすものは少なく、容赦なくこの場を暗闇で覆おうとする。
 その闇に溶け込みそうな、黒いスーツをきっちりと着た男はネクタイに指をかけ緩める。シャツの袖から覗く手首には黒く〝KANATA〟と表記されている。それは自身の、この男の名前であった。
 壁に片手をつき屈んだ状態でそっと顔を出す。
 人影が見える。顔までは見えず輪郭がぼんやりと分かるくらいだ。
「これじゃあ下手に動けないな」
 カナタは舌打ち混じりに言う。ゆっくりと息を吸うと静かに吐く。どうやら体が強張っているようだ。
 それは見えないものへの不安感か、それともいつも隣にいる〝あいつ〟がいないことへの恐怖心か。
「どこに行ったんだ。イツキ……」
 あの人影が何者なのか把握できるまでは下手に動けない。カナタは息を潜める。
「動くな」 
 突然、後ろから掛けられる声。そして振り向く間もなく後頭部に嫌な感触があたる。
 カナタの背後をとったその人物は、そのまま頭に押し当てたものを左右に動かす。
「やめろ、痛いだろ……」
 カナタは眉間に皺を寄せ後ろへ向いた。
「だってカナタ、緊張してたみたいだから」
 その人物は押し当てていた拳をパッと開きおちゃらけた表情をする。袖の隙間からはカナタと同じようにアルファベットが見える。
「イツキ、どこ行ってたんだ」
「迷い込んだ野良猫と、ちょっと遊んでた」
「遊んでる場合じゃないだろ」
 イツキと呼ばれたその男はカナタとは対照的だった。同じスーツではあるがシャツのボタンは上二つまで外されていてネクタイはしていない。
「お前がここにいるってことは、あっちにいるのは……」
「ああ、それならもういないと思うよ」
「何言ってるんだ……」
 カナタは訝しげにそう言った。
「ほら立って立って」
 イツキは何の躊躇いもなく壁から出ると、その人影の方へ体を向けて立った。
「おい!」
 カナタは慌てて立ち上がりイツキの横へ立つ。
さっきまで確かにいたはずの人影はどこにもなかった。
「どこに行ったんだ……」
「帰ったんじゃない? 俺らも今日は帰ろうよ。業務終了」
 呑気な声で言うイツキを睨み、カナタは口を開いた。
「猫と遊んでたんじゃないのか」
「俺にとっては遊びだけど。他の人からしたら違う解釈になることもあるだろうね」
「……分かった」
 イツキはカナタがこの状況に納得していないことは分かっていたが、これ以上話す気もなかった。
「ほら行こう。世界を元に戻さないと」
「ああ」
 突如として道は形をなくしていく。それらはインクのようになりカナタとイツキの足元へ広がった。
 空は色を取り戻し、太陽がアスファルトを照り付けると、その二人の姿は消えていた。

第1章Ⅰ

「俺が行きます」
 青年は切れ長の目をその男から逸らさず見据える。
「うーん、でもねえ……」
 男は青年のその射貫くような視線に顔を引きつらせ、目を逸らす。青年より三十ほど年上に見えるその男は、この場の中心に立っていた。
「何を気にしているのか知りませんけど、俺ならすぐ終わらせられます」
 青年は横に立つ男を横目で見て言う。
「〝俺〟じゃなくて〝俺たち〟ね。ハルト」
 ハルト。この青年の名前だ。後ろで椅子に腰掛けカップに口をつけている男は、ハルトを咎めるでもなくのんびりとした口調で言う。
「一人でやった気になっているような新人に、任せるような業務ではありません。そもそもこれは俺たちが任されている案件だ」
 青年には目も向けず、カナタは前を見たままカナタは口を開いた。
「そういう堅い考えしかできないから、いつまでもこんな部署に残ったままなんじゃないんですか」
「何が言いたい」
「こらこらハルト君。先輩に向かってそういう言い方はよくないよ」
 男は宥めるように言うが、ハルトに睨まれるとまた委縮してしまった。
「ほーら喧嘩しないよー。カナタも、大人気ないぞ」
 間に入ったのはイツキだ。この二人の仲裁はイツキの役目になっていた。
「対等に相手をしてやっている」
 イツキは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに困ったような笑みを浮かべた。
「ハルト君のやる気はもちろんありがたいけどね、カナタの言う通りこれはもともと俺たちの案件だから、相手のことは俺たちがよく分かってるつもり。だからここは任せてくれないかな。〝こんな部署〟にしかいられない俺たちの顔を立てると思ってさ。それに、A地区がどうやらバタバタしてるそうじゃない。ねえサカイ部長」
 イツキが間に入ってくれたことに、安心しきった表情をしていた男、この部署の部長であるサカイは〝A地区〟という言葉に分かりやすく動揺する。
「えっ! ああそうみたいだけど……もしかしてイツキ君、それはさあ」
 何かを察したようにその表情はまた曇る。
「ハルト君たちはそっちに応援に行ったらいいんじゃないかな」
「イツキ君、それはさすがに同意しかねる。ハルト君はまだ新人だ。A地区には……」
「俺もそれは反対だなあ」
 イツキはその声に反応し後ろを向く。ずっと傍観者を決め込んでいた男は椅子から立ち上がりこちらへ近付いた。
「アサヒさんがいるから大丈夫でしょう?」
「買い被られてもねえ」
「正式な応援要請だって来てないんだよ……」
 サカイのその言葉が合図になったように部屋の電話が鳴った。
 サカイは嫌な予感に溜息をつき電話を取った。
 一言二言発し電話を切ったサカイは困ったように顔を向けた。
「A地区から応援要請だ。だがこれにはイツキ君たちに行ってもらう」
「行かせてください」
 すかさず言ったのはハルトだ。
「いいですよねカナタさん。そっちは自分たちの案件なんでしょう?」
「状況がさっきとは違う」
「都合が良すぎるんじゃないですか?」
 挑発に乗るつもりではないが、カナタはこれには反対の意思だった。〝状況〟が違うのだ。
「ハルト君の言う通りだよカナタ。最初にダダをこねたのはカナタだろ。ほら急がないと。部長、大丈夫ですよ。そのためのアサキさんとのペアでしょう?」
「……分かった。確かにこれ以上揉めてる時間はないからな。よろしく頼むよ、皆」
 
 イツキとカナタ、ハルトとアサヒは部屋を出て、それぞれの目的地へ向かう。
「イツキ」
 部屋をでてすぐ、アサヒはイツキを呼び止めた。
「何です?」
「あんまりうちの子いじめないでくれよ」
 表情こそ笑っていたが、声音はそれとは正反対のようだった。
「いじめてなんかないですよ」
「ならいいんだけどな。それじゃあお互い頑張ろうな」
「ええ」
 アサヒは駆け足で先へ行くハルトを追いかけていった。
「じゃあ俺たちも行こうかカナタ」
「……ああ」

 物を失くすこと、時間が過ぎるのを早く感じること、それらは不注意でも錯覚でもないとすれば何だろうか。
 それらを〝奪っている〟者がいるとしたら。

「A地区が雑用係にまで応援要請なんて、よっぽど切羽詰まってるのかな」
 現場に向かいながらイツキは呑気な声を出す。
「雑用係じゃない。地区巡回部だ」
「そうだったね」
地区巡回部。サカイ、アサヒ、イツキ、カナタ、そしてハルトの五人からなるこの部署。AからFに分けられた各地区にはそれぞれ担当の管理部、そして各管理部に所属する〝管理史〟がいるが、地区巡回部はそのどこにも属さない、すべての地区の管理部署だ。

「バタバタしてるってお前言ってただろ。何か知ってるんじゃないのか」
「うーん、なんか最近強いリードが現れたとかで。B地区もC地区も自分たちの地区でいっぱいいっぱいだとか。それで、A地区に人員が回せなくなってるんでしょ」
「強いって、実力のあるリードがいるってことか?」
「そうだよ?」
 カナタは足を止めた。それにつられてイツキも立ち止まる。
「どうしたのカナタ」
「それを知っててどうしてハルトを行かせようとした。A地区の奴らだって俺たちが来ることを前提に応援要請をしたんじゃないのか?」
「アサヒさんがいるだろ。大丈夫だよ。あの人の強さ知ってるでしょ。俺ら二人がかりでも敵わないよ」
「本気で言ってるのか」
「ふざける内容じゃないでしょ。それにハルト君だって優秀だよ。ほら、俺らは俺らの仕事をしないと」
 イツキはそういうと背を向けて歩き出す。
 カナタはそれ以上追及することはせず、イツキの言う通りアサヒさんがいるからと、カナタ自身、心のどこかでそう思っていた。

 リード。そう呼ばれるその存在は、〝奪う者〟とも言われている。世の中のあらゆる物体、空気、時間をも人々から奪うその存在は、管理史の敵である。管理史はリードから奪われたものを取り返すために存在している。
 管理史は個人個人でその能力には差がある。それはリードも同じだ。それに対抗すべく作られたのが管理部。AからFまでの部署に分け、その順番に能力の高い管理史を所属させている。
 上級管理史が担当しているA地区には同じく能力の高いリードが現れる。といってもそれは確率でしかなく、E地区やF地区にA地区相当のリードが現れることもある。イレギュラーが起これば適任の部署へ応援要請を入れるようになっているのだが、その適任が回せない場合に要請が来るのが地区巡回部だ。
 すべての地区を把握、管理しているこの部署はそういう〝人手不足〟を補う部署であり、他部署からは雑用係と呼ばれることもあった。

「ハルト、クリップはどうしようか? 俺が創ろうか」
 A地区の管理棟へ向かいながらアサヒはハルトに尋ねた。
「俺にやらせてください」
「カナタを見返したいもんな」
「……からかわないでください」
「ごめんごめん。でもまあ、それなら任せるよ」
「はい!」
 その威勢のいい返事を聞いても、アサヒは不安感を完全には拭えないでいた。
 確かに〝俺がいる〟から大丈夫だという自負はあったが、A地区に、しかも最近のリードの能力を考えると、現場に慣れていないハルトを投入するのはやはり抵抗があった。
 クリップは街に現れるリードと戦うための創造空間。現実空間に悪影響を及ばさないように創られる架空の空間だ。
 リードを見つけ次第クリップへ相手を引きずり込む。管理史はペアで行動するのがほとんどだ。中にはそれを拒みいわゆる一匹狼もいるがそれは例外だ。
 ペアのどちらかがクリップを創る。クリップは自由に創造できるため、能力の高い管理史ほど〝複雑な空間〟を創造できる。お互いが動きやすい空間、かつ相手を錯乱させることができる空間。その両立が基本である。だからお互いのことをよく把握することが重要であり、理想の空間を創れる管理史がクリップを担当する。
〝自由に創造〟出来るといっても、何もかもが都合のいいわけではない。その特性を把握して戦えるものは多くはないのだ。
 アサヒとハルトはまだペアを組んで日が浅い。演習訓練は行っているがまだお互いのことを把握しているとはいいがたかった 。
(本当なら、俺が創るべきかもしれないが……)
 アサヒは不安を残しつつ、現場へ向かった。

「いるな」
「だね。じゃあ始めますか」
 イツキはそう言うと、腰のホルダーに挿していたリムーブを足元へ向けて撃った。
 その瞬間光が充満し、晴天はあっという間に闇に飲まれた。
「お前はどうしてわざわざ暗くするんだ。敵が見えづらい」
「それは敵も一緒だよ。暗い方が俺はやり易いね。それにカナタを間違って撃ったりなんてしないよ」
「俺はお前を撃つかもしれない」
「危ないなあ。気を付けてよ」

「地区巡回部のアサヒです。応援に参りました」
「アサヒさんじゃないですか! お久しぶりです! てっきり応援にはカナタ君たちが来るのかと」
「久しぶりだなコウ。相変わらず元気そうだ。あっちは今案件抱えててね。それに、この子、実践踏ませたくて」
 A管理部所属のコウはアサヒの隣に立つ人物に顔を向けた。
「地区巡回部のハルトと言います。本日は宜しくお願い致します!」
「A管理部のコウです。本日はありがとうございます。いやあ優秀そうな子が入ってますね」
「だろ。今の俺のペアなんだ」
「ペアできて良かったですね。一人は寂しいって言ってたから」
「誰かさんがAに昇格なんてするからな」
二人の会話を隣で聞いていたハルトは口を開く。
「コウさんって……いたっ」
 横を通り過ぎたその男がわざとぶつかって来たのは明白だった。
「おいっ……」
「ストップ」
 声を上げようとしたハルトの口元にアサヒは手を添えてそれを制止する。
「相手にするような奴らじゃないさ」
 ハルトは納得いかないというように顔を顰める。
「雑用係の新人にA地区が務まるかよ」
 わざと聞こえるように言われている。それが安い挑発だとしてもハルトは相手を睨みつけた。
「ハルト、ダメだよ」
「……」
 ハルトが口を開くより先にアサヒはハルトを窘める。いつもとは違うその声音に、ハルトは何も言い返すことはできなかった。
「気にしなくていいですよ。僕だって未だに言われるんですから。『雑用上がり』って」
「コウさんは元々巡回部だったんですか?」
「そうだよ。ハルト君の前にアサヒさんと組ませてもらってたんだ。いやあアサヒさんとペアなんて羨ましいよ」
「またそういうことを言う。ほら、こんなのんびりしてていいのか」
「そうでした! では扉開きます」
 コウは後ろへ向くと壁を二回ほど叩いた。真っ白で何もなかったはずのその壁に亀裂が入りそこを境に左右に壁がスライドした。
「凄い……。扉を創るなんて」
「コウは空間創造が飛びぬけて優秀だからな。正門を通らなくても街へ降りれる」
「お気をつけて」
「ありがとうな。んじゃ、さっさと終わらせようか。行くよハルト」
「はい!」

「くっそ! 相変わらず分けわかんねえもん創りやがって」
「お褒めいただき光栄だね。クレイ君」
「へえ、名前憶えてたのか。俺はお前の名前なんて忘れたけどな」
「俺のこと、指名するくらい大好きなのに?」
「ちっ……」
 イツキはその舌打ちとほぼ同時に動きだした。リムーブと呼ばれる銃をクレイへ向けその腰についている〝四角形の箱〟へ向かって銃弾を撃ち込んだ。
 クレイは難なくその弾を交わし同じく銃をイツキへ向けた。
「おっと」
 イツキは後退しながら壁を何層も自分の前に作り上げる。
 この空間はイツキの創造物。この空間においてイツキは絶対的存在でありどんな物体も自由自在に創れる。動きながら思った通りに空間を変形させるのは簡単なことではない。だがイツキの表情からは何の迷いも焦りも見られない。むしろこの状況を楽しんでいるようだった。
 クレイの弾丸はその壁を、まるでそこに何もないかのように貫通する。イツキは壁を足場にし駆け抜ける。
 ナイフのような小型の刃物が飛んでくる。イツキは壁から地面に着地しそれを交わすとそのままの低い姿勢でクレイの足元へ体を滑らせる。
 クレイは軽く脚を上げイツキが振り上げた脚を避けると上体を倒し左手でイツキの顔を掴み地面へ押しつける。その反動で一回転し地面へと着地する。
「いったあ……」
 イツキはゆっくりと体を起こす。
「乱暴だなあ。こぶにでもなったらどうすんの」
「そりゃちょうどいいな。俺はお前みたいなお綺麗な顔した奴が嫌いなんだ」
「良く褒めてくれるね。それじゃあ特別に……」
 イツキはリムーブを天井へ向け撃つと黒に塗りつぶされた空間は目に痛いくらいの白へと変わった。
「明るい方が俺の綺麗な顔が良く見えるよね」
「本当にうぜえ野郎だ」

「イツキ?」
 暗闇は晴れ視界はどこを見渡しても白色だ。迷路のように複雑化されているいつもの壁の道も変化しているようで、壁に背を預けていたはずの体は支えがなくなりよろける。
「おっと……」
「よろけてる場合か?」
 声がしたのは頭上、カナタはすぐさま腕を伸ばしリムーブを向ける。
 落下してくる相手のネオファイルに上手く照準を合わせられない。
(くそっ)
 カナタはリムーブを下ろし相手を交わす。リードの踵が頬を掠る。
 後退し距離をとる。
「何か、前より動き鈍くなってないか?」
「余計なお世話だ」
「クールなとこは変わってないみたいだが。にしても、あんたの相方は気まぐれだな。やりにくいったらない」
「それには同感だな。リード」
「その呼び方はやめてくれよ。ヒビキだ」
 ヒビキと名乗ったリードは銃を構えた。カナタもそれに倣うようにリムーブを構える。
 狙っているのは相手の心臓ではない。リードの腰に下げられている四角形の物体。ネオファイルという。あの中には〝奪った〟様々なものが入っている。
 そもそも心臓を狙ったところでリードを死に至らせることはできない。リムーブは攻撃に特化していない。あくまでネオファイルから奪われたものを元の場所へ戻すだけの銃だ。
 直接本人を狙うにしたって気絶させられるくらいだろう。
 だがリードの銃は違う。心臓にでも当たれば、〝死〟だ。
 
「アサヒさん。いました」
「よっし、じゃあいっちょかましますかね。ハルト、頼んだ」
「はい」
 ハルトはリムーブを足元へ撃つ。そこから広がった白はリードと共にハルトとアサヒを取り囲む。
 四角形や円形、三角形、様々な形、素材でできたオブジェが浮かぶハルトの創造空間。
「いやあやっぱりいいね。ハルトのクリップ。戦いやすいし、見渡しやすい」
「あの、何か問題があれば言ってください」
「全然。むしろハルトの動きやすいようにどんどん変えちゃっていいよ。俺はちょっとスリルがある方が好きだから」
「俺、アサヒさんのそういうとこは、ちょっと苦手です」
「ははっ、ハルトは素直だな。俺はハルトのそういうとこ好きだけどね」
 ハルトの溜息が聞こえるのと同時に、銃弾は二人の間に落ちてきた。
 先に動いたのはハルトだった。
 オブジェを踏み場にして相手へと一気に距離を詰める。
 脚に力をこめ飛びあがると同時にホルダーからリムーブを二丁取り出す。
 相手が抵抗する隙もない。ハルトが〝優秀〟だと言われる所以はここにある。
「やるね、君」
「なっ……!」
 確かに当たったと思ったのに、その声は後ろから聞こえた。
 振り返ると目の前にあったのは銃口だった。
(避けられない……!)
 次の瞬間相手の銃身が揺れ弾はハルトに当たることなく顔横を通り過ぎる。
 ハルトは上体を捻り足場を創る。
「ハルト大丈夫か!」
「はいっ……」
 ハルトが銃口を向けられた瞬間、アサヒは咄嗟に相手の銃にリムーブを撃った。
「間一髪ってか。確かに手ごわいみたいだな」
 アサヒはハルトの無事を確認するとすぐに正面へ向き直る。
「なかなかの動きだな。さすがA地区の担当ってところか。けど、あのガキは弱そうだ」
 アサヒの前に立つのはこの空間にいるもう一人のリード。ハルトが戦っている相手とはまた違う雰囲気を持った男だった。
「そりゃどうも。だけどあの子は舐めない方がいい。優秀な新人だ」
「へえ。A地区に新人なんて、初めて当たったな」
「だろうね。俺たちはA地区担当じゃないんでね。もっと特別な管理史なんだ」
「特別ね。それじゃあ、その特別とやらを見せてもらおうかな」
 アサヒは相手が銃を構えるのをしっかりと見た。
(こっちを早く片付けないとな)
 アサヒも同様に銃を構える。その瞬間に足下に気配を感じた。
「へえ、随分早く動けるんだな」
 いつの間に移動したのか、リードはアサヒの足元に屈んでいた。それを確認したのも束の間、リムーブを握る手を払われそうになる。アサヒは弾を放ちながら間合いをとる。
「いい反応だ」
「どうも」
「トウマだ。あんたは?」
「アサヒ」
「アサヒ。簡単に終わってくれるなよ」

「ちょっとクレイ君。俺はこの状況で無駄な争いは避けたいんだよね」
 イツキは壁を創りクレイの銃弾を防ぐ。その手にリムーブはなく、ホルダーに仕舞われていた。
「うるせえな! だったらさっさとここから出せよ」
「もうちょっと我慢してよね。俺の相方がまだ頑張ってるみたいだからさ」
 イツキはクレイのネオファイルを撃ち終わっていた。奪われたものは元に戻りこれで任務完了。これ以上は何もする必要はない。だけどリードにとっては別だ。
 奪われたものは〝元に戻る〟。あるべき場所に戻るのだから、管理史を攻撃したって取り返すことはできない。それでもリードが攻撃を止めないのはただ単純に、〝邪魔になる者〟を消すためだ。
 管理史の業務にリードを消すことは含まれていない。任務が完了次第クリップを解き、後は去るだけだ。
 イツキはカナタが戦っている方角を見た。
「カナタ、まだ終わんないのかなあ」
「おい、余所見してんなよ。つか、なに銃仕舞ってんだ!」
「だから無駄なことはしたくないんだって。……あっ!」
 イツキは百メートルほど先の壁の上にカナタを確認した。
「はーい終了。さすがにもう懲りてよね。クレイ君」
「おいっ、まっ……」
 イツキはクレイの言葉を待たずリムーブを空に撃ち、クリップを解いた。
 空間は歪み、壁は液状となって足元へと広がった。

「クリップ解いたら部屋のベッドの上にってできないのかな。俺疲れちゃったから横になりたいよ」
「そんなに動いてないだろ」
 イツキとカナタは下界への入り口の一つである第七正門の前にいる。空間を解けば、下界へ降りる際に使用した門へと返還されるのだ。
「今日は俺結構動いたんだよ。って、あれ? カナタ、頬っぺたどうしたの?」
「ん? ああ、蹴りをいれられたときに避けきれなかった」
 イツキはその傷に手を伸ばす。
「おい、触るな。痛いだろう」
「ねえ他に傷は? 大丈夫? ごめんすぐ助けに行けばよかった。ごめんね。ごめんねカナタ」
 イツキは目を泳がせ突然に落ち着きを失くす。カナタの頬に触れているその手は震えている。
「落ち着けイツキ。俺は大丈夫だから」
 イツキははっとしたように手を離す。
「ごめん……」
「大丈夫だ。ほら、早く帰ろう」
 カナタは、イツキのその怯えるように震えた声を、表情を、今までも見たことがあった。それは決まって自分が怪我をしたときだとも分かっている。どんなに強い相手だろうが、戦況が不利になろうが、イツキが怯えるなんてことはないのだ。

「はあ……はあ……」
 ハルトは何とか息を整えようと四方を囲む壁を創り、リードの攻撃を防いでいた。だが、防いでいるだけでこちらからの攻撃は殆どできないでいた。
「くっそ……。防ぐばかりじゃ体力が減るだけだ」
 もうずっとこの状況が続いている。いくらこちらが撃とうがそれはかわされ次の瞬間には敵の射程圏内に入っている。空間を創るのも上手くできなくなっているのが分かる。イメージを固められない。思うような動きができないことへの焦りと苛立ちはさらに調子を狂わせる。
 ハルトは壁から顔を出し相手を見る。
「やっと出てきた。君もう戦えないんじゃない? 僕だって弱い者いじめはしたくないんだ」
「それはこっちのセリフだ」
「口は減らないね」
 アサヒの様子はハルトからもちゃんと見えている。ネオファイルを撃ったのも確認済みだ。けれど相手のリードが戦いを終わらせない。心のどこかで、アサヒが助けに来てくれることを期待している。それを自覚するのをハルトは拒んでいた。
(ここで引いたら、あいつを、あいつらを見返せない)
 子供じみたことだと、くだらない維持だとも思う。だけど、ハルトはアサヒに助けてということも、この空間を解き、強制的にこの戦いを終わらせることもしたくないのだ。
 ハルトは壁から飛び出ると大小様々なオブジェを盾としながら相手との距離を詰める。
「ホント懲りないね」
 リードは休めることなく銃を撃つ。距離五メートル。リードは空いている手に小型の刃物を持ちそれをハルトへ向かって投げた。
 ハルトはオブジェを蹴り跳躍し避ける。空中からリードの手元を狙い撃つ。リードも銃口を上に向け弾を放つ。リードの銃弾はハルトの足を掠った。一方でハルトの銃弾は相手の手首に当たったようで弾かれるようにしてリードの手からは銃が離れた。
(今……!)
 リードが銃を持ち直す前にハルトはその銃を球体の箱に封じ込めた。
「……なっ」
 相手が動揺したその一瞬にハルトは落下する勢いでリードの頭を掴みそのまま下へ押しつけた。そして背後に回って銃を構える。リードは咄嗟に体をこちらに向けた。
 ハルトはネオファイルに向かってリムーブを放った。
 銃弾はネオファイルに当たり、奪われたものが返っていく。
「なんだ、まだ動けるんじゃん」
 リードのその表情は笑っていた。
「ハルト! クリップを解け!」
 まだリムーブを構えたままでいたハルトはアサヒの声にハッとする。
 オブジェは崩れ始める。それはリードの銃を閉じ込めた球体も例外ではない。リードは解放された銃を手に取った。
 そのとき、リードがハルトに向かって何か言ったように見えたが、その声が届く前にクリップは解かれた。

 カナタは部屋へ戻ると言ったイツキと別れ、C管理棟へ向かっていた。
「医務室まで遠いな……」
 カナタの目的はC管理棟というより、そこにある医務室だった。
 医務室には二種類あり、一つは治療担当が常駐しているD管理棟医務室、通称〝ホンジョウ室〟。ホンジョウというのは医療担当の人物の名前だ。そしてもう一つはC管理棟医務室。ここは軽症を負った管理史が自由に出入りできるようになっている。
カナタはC棟医務室へ向かっていた。
カナタたちがいた第七正門は中央棟にある。中央棟には下界へ降りる正門が七つ、円形の棟に沿うように並んでいる。そして棟から真っ直ぐに通路が伸び、AからF管理棟、そしてカナタ達地区巡回部などが利用するN管理棟が中央棟を囲むように建っていた。
 管理史はそれぞれの所属する棟に自室を持っており、そこで生活をしている。だいたいは皆〝棟〟と略すことが多いようだった。
 カナタはA棟へ向かって歩いていた。各棟はA棟を正午の位置に合わせると、そこから時計回りに順に並ぶ。N棟からC棟へ行くにはA棟を通っていく方が早い。
(ハルトたちはまだ戻ってきていないのか……)
 A棟にはハルトたちの姿はない。
「考えすぎか……」
 カナタは思考を振り払うと足早に医務室へと向かった。

「カナタ先輩!」
 医務室に入るなり、カナタに声を掛けてきた人物は椅子から立ち上がり、カナタへ駆け寄る。
「ナツキ。久しぶりだな?」
「お久しぶりです! カナタ先輩最近C地区に応援来ないから。次いつ会えるんだろーって!」
「応援なんかない方がいいだろ。それくらい平和ってことだ」
「そうですけど……」
 ナツキと呼ばれた青年、C管理部所属の管理史だ。以前にカナタとイツキが応援に入った際に知り合って以来、こうして挨拶に来るのだ。
「おいナツキ。カナタさん怪我したからここにいるんだろ。引き止めるなよ」
「分かってるっつの! つか叩くなよナヅナ」
 ナツキは振り返り言うと、そこにいる人物、ナヅナを睨む。
「ナヅナも久しぶりだな。〝ナツコンビ〟は相変わらず元気そうだ」
「カナタさんお久しぶりです。あと……その呼び方はちょっと……」
「悪い悪い」
 ナツキとナヅナはC管理部でペアを組んでいる。名前に〝ナツ〟がつくことから〝ナツコンビ〟と言われており、それは名前だけでなく、相性の良さもその所以なのだが、当の本人たちにはその自覚はないようだった。
「お前たちもどこか怪我したのか?」
 カナタは空いている椅子に腰かけながら言う。
「ナツキだけです。ちょっと切れただけなので。大したことはないです」
「おいナヅナ。なんでそんな棘のある言い方なんだよ。もっと相方を労れよ……」
 ナツキは救急箱を開け道具をテーブルの上に手際よく並べていく。
「自分でやるぞ? ナツキはもういいのか?」
「自分はもう平気っす。タオル、水に濡らしてきます」
 ナツキはそういうと手洗い場へ向かった。
「悪いな」
「やらせてやってください。役に立ちたいんですよ」
 ナヅナはそう言うとカナタの向かいに座った。
「ありがとう」
「いえ、礼をするべきなのは俺たちなので……」
 ナヅナは視線をナツキへ向けると、何かを懐かしむように目を細めた。
「イツキにもたまには顔出せって言っておくよ」
「えっ、いや俺は別に……! ああいや、ありがとうございます」
 ナヅナはそう言って顔を俯かせた。その耳が赤くなっているのをハルトは見落とさず、それを見て頬が緩んでいることには無自覚だった。
「あっ、いたいた」
一人の管理史が医務室の扉の前で立ち止まった。
「ナツコンビ、報告書持って来いよ」
(報告書……?)
「分かりました」
 ナヅナはそう返事をするとすぐに立ち上がった。ちょうどナツキが戻って来て、カナタは手を差し出しタオルを促した。
「ナツキ、報告書だって。あとは自分でやるよ。ありがとう」
「すみませんカナタ先輩」
「いいよ。お疲れ様」
「行くぞナツキ。カナタさん。失礼します」
「ああ」
 カナタはタオルを持つ手とは逆の手を軽く上げる。
(やっぱり聞いておくか……)
 カナタはナツキの背が見えなくなる直前に呼び止める。
「ナツキ!」
「えっ、はい! ナヅナ先行ってて」
 ナツキは声に引っ張られるように部屋へと戻る。
「どうしました?」
「引き留めて悪い。一つだけ。今日の任務は、何か〝特別〟か?」
「いえ、特にって訳じゃないんですけど。C地区にしては相手がちょっと強かったんで。あっ、でも全然余裕でしたけどね!」
「そうか……。分かった。ありがとう」
「いえ! そうだ、今度演習付き合ってくださいよ!」
「分かったよ」

 医務室を出てからも、カナタはずっと考えていた。報告書は通常の任務であれば書く必要はない、それが必要になるのは特筆すべき点がある案件だ。
〝C地区にしては〟強い。本来なら、ナツキもナヅナもA相当の能力を持っている。どうしてずっとCに所属しているのか、あまりそのことを深く考えたことはなかった。いいタイミングで移動になるだろうと楽観的に考えていたが……
(動かせない理由か)
「おっと、すまない」
 思考に気を取られ気がつかなかった。カナタは向かいの角から曲がってきた人物と軽くぶつかる。
「カナタさん……」
 そこにいたのはハルトだった。カナタはハルトが帰っていることに内心安堵したが、それを表には出さないよう、平静を装う。
「ハルト。どうした、医務室か?」
「少し切っただけです。カナタさんこそ、怪我してるじゃないですか」
「俺も大したことはない」
「そうですか。……それじゃあ失礼します」
 ハルトはそれだけ言うと足早に去っていく。
 カナタは何か声を掛けなければと思ったが、上手い言葉が見つからなかった。
「難しいもんだな」

 アサヒは任務から戻るとハルトを医務室へ促した。
 わざわざ行くほどではないと拒むハルトを半ば強制的に行かせたのだ。
「そっとしといた方が良かったかな」
 少し強く言ってしまったことに後悔もしながら、アサヒ自身はN棟に向かっていた。きっともうカナタ達は戻ってきているだろう。そう思うと、歩調は無意識に早くなった。

「あれ、アサヒさんだ。お帰りなさい」
「イツキ、お疲れ様」
 アサヒはイツキの部屋へ向かっていた。だが、そこへ行きつく前に、共有スペースにその姿はあった。
「ハルトは?」
「少し足を怪我してね。医務室に行ってる」
「C棟ですか?」
「ああ。そんなに大したのじゃないからね」
「なら、もしかしたらカナタと会うかもしれませんね。カナタも行ってるんですよ。まあカナタも少し切ったくらいです」
 イツキはそう言い視線を落とす。
「へえ、珍しいなカナタが怪我なんて。最近はずっと何もなかったのに」
「ですよね。何かに気を取られてたんじゃないですか」
 そう言ったイツキの声、視線が〝いつもとは違う〟ことに、アサヒは気付いていた。
(あれから、ずっとだな)
「というより、俺に用があったんじゃないんですか?」
「そうそう、よく分かったな。あのな、ハルトのことだけど……」
「〝いじめないでくれ?〟」
 言おうとしていた言葉を当てられアサヒは口をつぐむ。多分イツキは全部分かっている。だからこそ言いやすいのかそれとも逆か。
「イツキの考えは?」
「一度痛い目を見れば、もう生意気なことを言わなくなるでしょ」
 イツキはそう言って笑う。けれどアサヒのその真剣な表情を見て、一つ溜息をこぼすと再び口を開いた。
「ハルトは意地だけでやってますからね。あのままだと〝後悔〟する。自分の力を見誤るほど危険なことはない。あれじゃあ、自分だけじゃなく、守りたい人だって守れない。だけど、きっかけがなければホントの意味でそれを理解できない。俺がリスクをとるのはそのためですよ」
「だけど今日は実際に危なかった」
「けど無事だった。アサヒさんがいたからだ。俺だって本当に危ないことはさせない」
「随分と信用されてるな」
「信用しなくても、アサヒさんが強いのは事実でしょ」
 イツキはふざけて言っているのではない。アサヒはそのことを分かっているつもりだった。
「イツキ、俺は……」
「アサヒさん」
 アサヒの声に被せるようにハルトは声を発した。
「俺は守れますよ。ハルトに何かあったら、カナタが悲しむ」
 イツキはそう言うといつもの〝顔〟に戻っていた。
「ああ、そうだな」
 アサヒはそれだけ言うと、それ以上は口を開けなかった。
「アサヒさんも疲れてるでしょ。俺ももう部屋戻るんで」
 イツキはアサヒに背を向ける。途端にアサヒの耳には他の管理史の足音や、しゃべり声が入ってくる。急に現実に戻されたような気がして、アサヒはどこか緊張していたらしい自分に苦笑した。
「〝誰を守る〟んだろうな」

 カナタはN棟まで戻ってくると、自分の部屋にはいかず、イツキの部屋へ向かった。
 扉を叩くが返事はない。
(外にでも行ってるのか?)
 カナタは時間を置いてからまた来ようと自分の部屋へと戻る。
 カードキーを差し込みドアを開ける。少し開いたところで、おかしいなと思った。部屋の電気がついていた。消し忘れたのだろうか。それとも……。足元を見ると見慣れた靴が目に入る。カナタは脱いだ靴その靴の隣に綺麗に並べ中へ入る。そこにはよく見慣れた姿があった。
「お帰りカナタ」
「イツキ、またか。ホント、どうやって入ってるんだ?」
 カナタはジャケットを脱ぎハンガーに掛けながら言う。イツキは当たり前のようにソファに座っている。
「どうやって入ってるか知りたい?」
「いや、いい。知らなくていいことな気がする」
「あはは、何それ」
 イツキは体を横に倒す。カナタはその背中に向かって声を掛ける。
「アサヒさんにでも怒られたか?」
 カナタはイツキに体を向け椅子に座る。
「……カナタは、怒ってる?」
「怒ってないよ。あれがお前のやり方だろ。それを否定はできない」
「そっか」
 それだけ、お互いそれだけ言うと、あとは沈黙が続いた。時計の針の音が明瞭になって、空気が澄んでいくような感覚を、カナタは感じていた。
「イツキ、寝たのか?」
 イツキからの返事はない。カナタは椅子から立ち上がり顔を覗く。
カナタはブランケットを持ってくるとイツキへ掛けた。そのままソファを背にして座った。照明のリモコンを手に取りスイッチを押す。
 その暗闇に落ちていくように、カナタは目を閉じた。

 イツキはゆっくりと起き上がると、音をたてないように床に足をつける。
「ベッドで寝ればいいのに……」
 イツキはカナタの隣にしゃがむと自分に掛けられていたブランケットをカナタに掛ける。
 顔の傷はテーピングされていて、イツキはそれに軽く触れた。
 起こさないように、イツキは部屋を出た。

 カナタはイツキが出たのが分かると、目を開けた。
「そうやって、人の傷ばかり気にする」
 そっと傷に手を当てる。イツキの触れた体温が残っているようだった。
「痛い……」

「いやあ、ハルト君も何もなくてよかったよ」
 翌朝、地区巡回部部室にはサカイをはじめ、イツキとカナタ、アサヒとハルトが集まり朝のミーティングを行っていた。
「さすがですよ、相手の銃を立体に閉じ込めるなんてやったことがない」
 アサヒはそう言ってハルトの頭に手を乗せ叩くように触る。
「ちょっと、やめてください……」
 ハルトは顔を顰め乱れた髪をなおす。
 ミーティングはまず、前日の担当案件についての報告から始まる。ミーティングといっても、巡回部は人数が少ないためあまり畏まったものではない。他の管理部はそれぞれ八十~三百名近くが所属しているため、部署によってはグループに分かれて行っていたり、グループリーダーが集まっての話し合いなども行っていたりする。
「そっちはどうだったんだ? やっぱりおなじみの二人?」
 アサヒはイツキ、カナタに問いかける。先に口を開いたのはイツキだった。
「クレイ君もなかなかしつこくて。何度やったって結果は変わんないのに。ねーカナタ」
「ああやっぱりその二人だったんだね」
 サカイは報告内容を記録しつつ言う。
「あの、そのクレイって言うのは?」
 ハルトは軽く手を挙げて言う。
 それに答えたのはカナタだった。
「ハルトは知らないか。クレイとヒビキっていうリードがいるんだ。で、なぜか俺たちを……というよりクレイがイツキを指名してくる」
「指名?」
「ああ。いつも決まった区域、B地区内の区域のことだが、そこに現れる。他の管理史が行くとイツキがどうのこうの言うらしくてな。だからあの区域にリードが現れたら俺たちにB地区から要請が来るようになってる」
「本当に手間がかかるよねえ。こっちの管理体制変えてくるなんてさあ。それに毎回クレイ君たちならまだしも、全然違うこともあるのに」
 イツキは頭の後ろで手を組みながら言う。
「だから、行かせなかったんですか……」
 ハルトはカナタを見る。
「まあそれも理由の一つだが……」
「違うよハルト。カナタはただ単に自分の仕事取られたくなかっただけだよ」
「イツキ煩い」
 イツキはそれに対し、はーいと気の抜けた返事をする。
「特筆すべき点はなかったかな?」
 サカイは軌道修正するように問いかける。
「特には……。いや、一つだけ。強くなっていると思います。最近の他部署の様子を見ても、全体的にリードの能力は高くなっているのかもしれません」
「確かに、他部署からもそういう意見は出てるみたいだしね。ありがとうカナタ君。それじゃあ他の皆も大丈夫かな? なければ解散で。ああ、カナタ君とイツキ君は今日非番だね。ゆっくり休むように」

「じゃあ俺は二度寝してこようかなあ」
 イツキは欠伸をしそう言うと扉へと向かう。
「待てイツキ。演習場に行くぞ」
「えっ、嘘でしょカナタ。そんな体動かしたい気分?」
「そうじゃない。ナツキと約束をしてる。ナヅナも来る」
「いつの間に。けどそっか、ナヅナも来るんだ。それじゃあ行かないとだね」
 イツキが足を止めたのを確認すると、カナタは振り返りハルトに声を掛けた。
「ハルトも行こう」
 ハルトは突然に投げられた言葉に戸惑う。整理しようとしていたファイルを持ったままで返事をする。
「俺は業務が……」
「いいですよね。アサヒさん、サカイ部長」
 カナタはそう問いかけると、二人もすぐに返事をする。
「俺はいいよ。要請があったらすぐ呼ぶからちゃんと端末持って行ってね」
「演習で疲れて業務に支障が出ないようにね。それだけ気をつけてくれれば」
 カナタはそれを聞き返事を促すようにハルトを見る。
「……それなら、ご一緒させていただきます」

 三人は部屋を出るとN棟地下へ向かう。演習場はそれぞれの棟の地下に設置されていて、どの演習場も自由に使えるが、基本的に自分たちの所属している管理部のある棟を利用する者が多かった。
「前から思ってたんだけどさ」
 イツキはカナタとハルトの少し後ろを歩きながら、どちらにともなく声を掛ける。それに返事をしたのはカナタだった。顔を少し後ろに向けながらイツキに応える。
「なんだ?」
「端末って意味あるのかな?」
「どういうことです?」
 ハルトも首を軽く動かし答える。
「だって、クリップの中って通信届かないじゃん」
「それはそうじゃないですか。クリップはあくまで架空のもの、外部とは関われないって……」
「それは知ってるよ。そこに不満があるんじゃなくてさ、つまり端末なんて持たなくていいじゃんって言う話だよ」
「ハルト、イツキの話にまともに答えなくていい。ただ持ち歩かなくていい理由を探してるだけだ」
「ちょっとカナタ。後輩の前でそんな言い方やめてよ」
 ハルトは二人の顔をそっと見る。違和感。というのだろうか。そういえば、こんなふうに二人と話すのは初めてかもしれないと思ったのだ。いつもと何かが違う気がする。その正体は何だろうか。
「あの、どうして急に」
 ハルトはカナタに問う。
「端末の話?」
 ハルトはイツキのその返答に首を振る。
「いえ、それではなくて。どうして誘ってくださったのかと」
 それを聞きイツキは口を閉じる。少しの間があって、カナタが口を開いた。
「休みが合わないだろ。巡回部は二ペアしかいないし、どっちかはいないといけない。だから演習訓練を一緒にするのも今日が初めてだ」
「あまり理由になっていない気がしますが」
「たまには気分転換になるかと思ってな。それに、地区巡回部は各地区へ応援に行く。他部署の奴に顔を知られておくのも損はない。顔を広くしとくのも業務の一環だ」
「まあ、それなら納得できますが」
 イツキはその二人の会話を一歩下がって聞いていた。カナタがこうして誰かを演習に誘うのを珍しいと思っていた。何か心境の変化があったのだろうかと、イツキはカナタの背中をじっと見た。
「どうしたイツキ」
「何でもないよ。早く行こう」

巡回部部室に残ったアサヒは、他部署からの共有報告書の整理や、応援要請の内容を地区ごとにまとめていた。
「アサヒ君。君要請が来たら一人で行くつもりだろう」
 サカイはお茶をすすりながら尋ねる。
「そんなことしませんよ。サカイ部長が一緒に行ってくれるでしょう」
 アサヒは書類から目を離すとサカイへ視線をやる。
「やっぱりそうか」
 サカイは溜息混じりに言う。だがその表情は少し笑っているようだった。
「銃の申し子の本気、見たいんですよ」
「もっと他の言い方はないのかねえそれ。まあでも、ハルト君を演習に行かせたのは正解だったと思うけどね」
「朝一でカナタから頼まれたんですよ。あいつも成長してますね。あ、サカイ部長お茶入れ直しますよ」
 アサヒはそう言うと二杯紅茶を入れテーブルに並べる。サカイはそれを見ると椅子から立ち上がりテーブル横のソファに座り直した。
 アサヒは向かいあうように反対のソファに座る。
「僕のところには相談なかったけどなあ」
 サカイは温度を確かめるようにそっとカップに口をつけて言う。
「サカイ部長は許してくれる前提だったんでしょう? 実際そうだったし」
「それは、信用されてるってことでいいのかなあ」
 困ったような表情を浮かべる。テーブルの中央に置かれた籠に手を伸ばすとチョコレートを一つつまんだ。
「そういうことですよ。まあとにかく、ハルトが少しは肩の力抜いてくれればいいんですけどね」
「大丈夫だろうよ。似てるからねえハルト君。昔のカナタ君と」
「イツキにも似てると思いますけどね」
「ああ、それもそうだね……そうか、似た者同士なんだな」
 サカイは思い出された過去のことを、またそっと閉じ込めるように、口に残ったチョコレートの甘さと一緒に紅茶で飲み込んだ。

「二対二でいいかな」
 イツキは四人の顔を見渡す。演習場につくとすでにナツコンビは来ていて、ハルトを紹介するとさっそく演習内容の話し合いになった。
「いいんじゃないか。ハルトとナツコンビのどっちかは別にしたいな。まだお互いの動きの癖とかも知らないし、そっちのほうが練習になる」
「じゃあ俺カナタ先輩と組みたいです!」
 すかさず声を上げたのはナツキだった。それに続きイツキも口を開く。
「じゃあ俺ハルトと組もうかなあ。ナヅナ、次は俺とな」
「はい! お願いします!」 
「じゃあ最初はそれでやろうか。内容はポピュラーなのでいいな」
 カナタのそれに他メンバーも異論はなく、準備を始める。演習場にあらかじめ用意してある、ネオファイルを模した四角形の箱を腰につける。
「あっ、ネクタイ持ってきてない。もお、カナタがいきなり言うからだあ」
「人のせいにするな。大体、いつもちゃんと着けておけばいいだろ」
「イツキさん、もしかしたらと思って……これ、使ってください」
 ナヅナはそう言うとイツキにネクタイを渡す。
「さすがナヅナ。よく分かってるねー。ありがとう」
 カナタはそれを見て溜息をつきつつ先ほどとは反対側、ベルトに蝶々結びにする。
 演習にはっきりとしたメニューがあるわけではないが、カナタの言う〝ポピュラー〟というのは、〝偽ネオファイル〟を撃つことで勝敗を決めるものだ。ネクタイは接近戦に特化したもので、取れば勝ちというもの。
 カナタ達は今回、その両方を同時にやる。
「制限時間はなし! 勝ったほうが勝ち! よーい……」
 イツキが声を上げると慌ててカナタはそれを止める。
「ちょっと待て。誰がクリップを創るんだ?」
「確かに……」
 ナツキは同意の声を上げる。
 他部署の管理史がいるからだろうか、ハルトも自分はやるとは言わなかった。
「俺、カナタ先輩の見たことない気がします」
 そう言ったのはナツキだった。いつもは自分やナヅナが創っているからと続ける。
「戦いながら創るっていう練習をさせてたからね」
 イツキは試案しているような表情を浮かべていう。カナタはその様子を見て、イツキの言わんとしていることを感じ取る。先手を打ってされるであろう提案を遮ろうとするも、イツキはそれよりも早かった。
「じゃあカナタにしてもらおうよ。普段は俺が担当してるし、たまには創りたいよね」
 後輩の前で断るのも格好がつかないなんてことを思いつつ、その実イツキはきっと引かないだろうというのがカナタの本音だった。
「それじゃあ俺が創ろう。クリップの中に入ったら開始だ。すまない、ナヅナは終わるまで外で待っててくれるか? 俺のクリップは見学に向かない」
「えっと、はい、分かりました……」
 ナヅナが、カナタが言ったその言葉の意味を理解する前にクリップは発動した。
「これが、カナタ先輩の……」
 ナツキは初めて見るそれに息をのんだ。見入っているのはナツキだけではない、それはハルトも同じだった。
「ナツキ、見惚れてる場合じゃないぞ。もう始まってる」
 カナタはそう言ったのとほぼ同時、走った先は……
「さすがの動きだな」
 ハルトは放たれた銃弾を交わすとすぐに二丁のリムーブを抜いた。
「これじゃあナツコンビとハルトを別にした意味、ないよね……」
 イツキはそう小さく呟くと、そうするであろうことをどこかで分かっていた自分にも嘲笑する。
「俺が先にイツキ先輩とやるのは、ちょっとナヅナに申し訳ないですけど」
「あははっ。嫉妬されちゃうね」
 イツキとナツキはリムーブを構える。その指が動くのを見て、二人は同時に踏み込んだ。

 アサヒは巡回部部室に入ると、サカイと目を合わせる。アサヒがにこりと微笑むとサカイは溜息をついた。
「部下が任務から帰った来たのに。ため息つかないでくださいよ」
「あのねえ、本当に一人で行くとは……。最近のこともあるんだから、あんまり無茶をしないでくれよ」
「ちゃんと勝ってきたでしょ」
 アサヒは冷蔵庫から水を出すとそのまま自分の机へと向かう。
「さすが、特別任務室の管理史は違いますね」
 アサヒの後ろから聞こえた声、その声に振り返ると、入り口には一人の男が扉によりかかるように立っていた。
「珍しい人が来たね」
 サカイはその人物へ見定めるような視線を向ける。
「〝元〟特別任務室だけどね。それにしてもわざわざ雑用係に来るなんて。特別任務室〝現役〟管理史のツバキ君」
「お久しぶりですね。サカイ部長、それと、アサヒ〝先輩〟」

ハルトは入り組んだ建物の中で〝展示〟されている作品に身を隠しながら慎重に動いていた。
 カナタの創るクリップはさながら美術館のようだった。最初にいたのは大広間だったが、戦いが始まるとどんどん中へと進んでいき、今はハルトからイツキやナツキの姿は見当たらない。
 ハルトの状況は劣勢。ネクタイを取られれば勝負終了。すでにもう箱は撃たれている。けれどまだカナタからは何も奪えてはいなかった。
「こんな複雑な空間、どうやったら創れる……」
果てが見えないのだ。どれだけ移動しようが行き止まりになることもなければ同じ場所を通っているようでもない。内部をその都度その都度創りかえるというのもあまり現実的ではない。クリップ全体を常に引っ掻き回すなんて止まっていても体力を消耗されるものなのだ。そもそも特定の建造物を創るのだってどれくらいの力がいるのか、ハルトには見当もつかなかった。
「見つけた」
 その声がハルトの耳に届くとほぼ同時、ハルトが隠れていた彫像が重々しく横へと動く。
 カナタがこちらへと歩いてくるのが見えた。ハルトは彫像から飛び出すと左右の壁に飾られている額縁に向かってリムーブを打ち込んだ。
 壁から床へと滑り落ちる。足場の悪くなった通路にカナタは一瞬立ち止まったが、すぐにリムーブを構え撃ちながらハルトに向かい走る。
 ハルトも同じく今度はカナタへ向かって撃つ。距離が縮みカナタはリムーブを下ろすと腰を屈めハルトの足元へ飛び込もうとした。
(傷……?)
 屈んだカナタの首元に見えた傷。普段はネクタイで締まっている首元も今はシャツが緩んでいる。その襟元に切られたような傷が見えた。
「何をぼうっとしてる?」
ハルトはその声にハッとする。
床に落ちた額を足先で踏み力を入れて額縁を立たせた。同時に片手のリムーブをホルダーへ戻す。
「うおっ……」
 突然の障害にカナタは咄嗟に上体を後ろにやる。ハルトはその立たせた額をくぐるとそのままの低い体勢で片腕の側面を床につけ体を支え、片足を上げると踵をネクタイの輪っかに引っかけ膝を曲げた。
 その足を交わそうとカナタの体はさらに後ろへと下がる。
 ゆるくなったネクタイを今度は空いた手でしっかりと握り思い切り引っ張る。
(とった……!)
 ハルトはすぐに今度はリムーブで箱を撃とうとしたが、カナタが背中に手を回したのを見ると攻撃を止め咄嗟に後ろへ下がろうとした。だがそれは目の前ギリギリに迫る。
「よく避けれたな」
「どうも……」
 向かい合ったカナタの左手には短刀が握られていた。攻撃力に特化していないリムーブを使う管理史にとっての攻撃手段。リードから〝取り返す〟ことが目的の管理史にとって、それはあまり使用するものではない。だが、こちらの〝命〟をも奪おうとする相手と戦うには、不必要なものではないのだ。
「ハルトは二丁拳銃だったな。理由は……刀の扱いが上手くないから?」
 ハルトはその言葉に口を噤む。
「特技を伸ばすのに不得意を捨てるのもいい判断だと俺は思うが」
「バカにしてるようにしか聞こえませんが」
「そんなつもりはないが……」
「なっ……」
 散らばった額縁は柵のようにハルトを囲む。動きを封じ、カナタはハルトの後ろへ回ると、短刀を喉元へたてる。
 カナタはリムーブをホルダーへ戻すと、ハルトの背中を手で撫でる。
「次からはちゃんと持ち歩いておけ。守りたいものも、守れなくなる」
 カナタはそのまま手を腰へ伸ばし、ネクタイを取った。
「守りたいものなんて、ありませんよ」
「自分の命は惜しくないのか」
 カナタは短刀を下ろし背中の鞘に戻す。
 ハルトは返事をしないでいると、カナタは再び口を開く。
「俺は、お前の命を惜しいと思う」
「それはどういう……」
 振り返りカナタに問う。だがその答えを聞く前に、景色は二重三重にブレ、気付けばもとの演習場に戻っていた。
 演習場に戻ると、第一声に聞こえてきたのはナツキの声だった。
「あーー! 負けたあ!」
 そう叫んだナツキの腰には箱もネクタイもついていない。
「お前がイツキさんに勝てるわけないだろ」
 ナヅナは腕を組みそれが当たり前だというように得意気な顔をしている。
「お前相方を応援しろよな……」
 ナツキは諦め混じりにそう言いうなだれる。
「あははっ。それじゃあ困るなあ。俺を越えてもらわないと。それで、そっちはどうだったの?」
 イツキは二人の腰元に視線をやる。
「へえ、ハルトやるなあ。カナタから一本取ってる」
 イツキがそう言うと、ナツキとナヅナは驚いた顔をし、感嘆の声を上げる。
「ええ嘘! ハルト君カナタ先輩から一本取れんのかよ」
 ナツキがそう言うとそれに続くようにナヅナも声を上げる。
「もしかしたらお前より強いんじゃないの、ナツキ」
「じゃあハルト君、次俺とやろうぜ」
「いいですけど……」
 ナツキがそう言うとハルトは頷く。その様子をカナタは満足げに見ていた。
「次は俺とナヅナが対戦するからあ。……どうペアを組もうか?」
 イツキは手を口元に添え考えるそぶりを見せつつカナタに視線をやる。
「それじゃあ、また同じになるがイツキとハルトをペアにしよう。で、ナヅナがクリップ担当で」
「俺ですか?」
 カナタにそう言われ、少し動揺したようにも聞こえる声で、ナヅナは聞き返す。
「いいんじゃないの。見せてもらおうかな、ナツコンビのコンビネーション」

夜、ハルトは自室を出て中庭へ向かって歩いていた。夜の風が体を包むように抜けていき、木の葉を揺らす音が聞こえる。ハルトは目を瞑ってそれを感じる。
 中庭に出ているのはハルトだけではない。夜に出歩く人は珍しくはなく、他の管理史も幾人か見えた。
 ハルトは空いているベンチに座り、持ってきていたボトルに口をつける。
「守りたいもの……」
 カナタの言葉を、ハルトはずっと考えていた。あの言葉が頭から離れてくれない。管理史の役目は〝奪われたものを取り返す〟こと。それ以外に、ハルトは目的なんか考えたことはなかった。
「ハルト君?」
 その声にハルトは振り返ると、その人物を見て立ち上がる。
「お疲れ様です。ナツキさん」
「お疲れ。ああ立たなくていいよ。俺も隣に座らせてもらおうかな」
 ナツキはハルトの隣に腰掛ける。先に口を開いたのはハルトだった。
「今日はありがとうございました」
「こっちこそ。ハルト君強くて驚いた!」
「いえそんな、俺なんてまだ全然。あの、ナツキさんはずっとC管理部所属なんですか?」
「いや? 俺はD上がり。ナヅナは最初からCだけど。だからあいつ上からなんだよなあ」
 ナツキはそう言うと頭の後ろに手を組み、空を仰ぎ見る。
「けど、相性がいいように思いました。ナヅナさん、ナツキさんの動きも見て空間動かしてましたよね」
「よく見てるね。そうそう、あいつ器用だからさ。俺は空間創造は全然ダメなんだ。頭使うの苦手だし。だからいつもあいつに任せてる。ハルト君は今アサヒさんとだっけ? アサヒさんが担当?」
「いえ、クリップは俺がやらせてもらってます」
「おおさすが!」
「だけど、自分だけで精一杯です。今日のナツキさんとナヅナさんを見て思いました……」
 ハルトは顔を伏せ、その手に持っているボトルを触る。
「……カナタ先輩はどうだった。強かったでしょあの人。って、同じ部署なんだから知ってるか」
「実際戦ってるのを見るのは今日が初めてでした。クリップも、その……凄くて、正直驚きました」
「だよな! クリップ! 俺も今日初めて見たんだけど超テンション上がった! さすがだよなあ」
 ナツキは勢いをつけ立ち上がりそう言うと、あっけにとられた表情をしたハルトを見て咳払いをし、また座り直す。
「あの、ナツキさんって、どうしてそこまでカナタさんのことを……」
「……ハルト君って、カナタ先輩とぶつかってる? なんかそんな風に見えた」
「えっと、はい……」
「そんなばつ悪そうにすんなよ。俺もそうだよ。部署の先輩にはよく噛みつくし。カナタ先輩にだって俺、最初はすっげー突っかかってたしさあ」 
 ハルトは顔を上げてナツキを見る。
「ナツキさんが、カナタさんに突っかかってたんですか?」
「そうだよ。知ってる? 傷」
 ナツキはそう言うと自分の首の後ろ辺りを指でトントンと叩く。
(首……?)
ハルトの頭にはふとあの場面が浮かんだ。
「カナタさんの、首の傷……ですか」
「そう、それ。何で傷ができたのか知ってる?」
「いえ、偶然見えただけなので理由までは」
 ナツキはゆっくりと一つ息を吐くと、はっきりとした声で言った。
「俺のせいなんだ」
 風が強く吹いて、ナツキの顔を前髪が隠す。そのせいで、ハルトにはナツキの表情が分からなかった。
「二年前になるけど。俺がC所属になって、ナヅナとペアになったばかりのときにさ、カナタ先輩とイツキ先輩がC地区に応援に来てくれたことがあったんだ。まだペア組んだばっかりだったし、あいつとは結構ぶつかることも多くてさ。だから、その日の任務で、危ない目にあった。まあようするに死にかけたんだよな。俺も、ナヅナも」
 もろく大切なものを、大事に手で包み込むように、その一言一言がしっかりとした重みを持っていた。
「ナヅナももう動けないくらいになって、クリップも壊れそうになったときに二人が来たんだ。カナタ先輩の首の傷は、本当は俺が負うはずだった傷だ。言ったんだ、あの人『俺が守るから、だからもう大丈夫だ』って」
「守る、ですか……」
「ただヘルプに来ただけなんだよ。それでそんなこと言うんだ。未だに分かんないよ。あの人の言う〝守る〟ってのは」
 分からない。その言葉は、ハルトが今日何度も思い浮かべた言葉だった。
 それが他の人の口から出たことが、ハルトにどこか安心感を与えた。
「ナツキさんは、守りたいものって、ありますか?」
 それはもう無意識に出た言葉で、ハルトはその答えを焦っている。
「カナタ先輩かな」
 なんの淀みもなく放たれた〝カナタ先輩〟に、ハルトはその言葉を上手くかみ砕くことができなかった。
「カナタさんですか」
「うん。正直カナタ先輩の言うみたいに守りたいとか俺にはよく分かんねえけど、ただカナタ先輩はかっこよかったから。あのとき、俺を助けてくれるんなら全力でそれに縋りたいと思った。だけど、次は俺があの人を守れるようになりたい。そのために、俺はカナタ先輩を越える」
 ナツキは言い切ると、ハルトの頭を掴みぐしゃぐしゃに手を動かした。
「わっ、何ですか!」
「お前が恥ずかしいこと言わせるからだろ! じゃ、俺戻るわ」
 ナツキはそう言って立ち上がるとC棟へ向かって歩いていく。
 ハルトはそれを見送ると、背中をベンチに預けそのまま体を滑らせた。足を投げ出し、見上げた先の月が、何処までも遠く見えた。

「それじゃあ今日もよろしくね」
 朝の巡回部でのミーティングが終わり、それぞれが業務につく。
「俺ちょっとC棟に行って来るんで。ハルト、応援入ったら呼んでね」
 アサヒは端末を持った手をひらひらと振り部屋を出ていく。
 ハルトはそれに軽く会釈し、再び資料へと目を落とす。
 しばらく、紙を捲る音とキーボードをたたく音、時計の針の音が響く。
 ハルトは棚の前に立ち資料を探すカナタの後姿をじっと見た。昨晩のナツキの言葉が脳裏に蘇る。自分のせいだと言ったナツキをカナタはどう思っているのだろう。きっとナツキのせいだとも、ましてやナツキに対して怒っているわけもないのだろうと、ハルトは思う。
「じっと見てどうしたの」
「うわっ! 何ですか……」
 突然耳元でささやかれた言葉に、ハルトは椅子ごとその相手と距離をとる。
「そんなに驚かなくてもいいのにー。ほら部長も怪しんでるよ」
 ハルトはサカイへ視線をやると目が合った。ばつの悪そうに会釈をするとサカイは軽く手を挙げてそれに答えた。その後にカナタを見たが、こちらを気にする様子もなく淡々と業務をこなしているようだった。
「何なんですかイツキさん」
 ハルトは声を潜める。
 イツキは近くの椅子を引っ張ってくるとそこへ座りハルトと肩がつくくらい近付く。
「カナタ見てたでしょ。どうしたのかなあって」
「別に何もないですよ」
「見てたことは否定しないんだあ」
 イツキの言葉に顔を顰めると、ハルトはわざとイツキの肩を押し机へ向き直る。しかしイツキはそれを気にすることはなく続ける。
「カナタって、考えてることがいまいち分かんないよね」
 冷ややかなその声に、ハルトは顔を上げると、イツキと目が合い、その視線に囚われたように動けなくなる。
 イツキの長い前髪が右目を隠す。ハルトはその言葉を聞き返そうとしたが、その声は電話の音にかき消された。
 サカイは受話器を耳に当て、話しながら目だけを動かした。受話器をおいて口を開く。
「A地区から応援要請なんだけど、カナタ君たち、行ける?」
 カナタが返事をする前にイツキが声をあげた。
「行けますよー」
 そう言って立ち上がったイツキはいつもの顔に戻っていて、ハルトはどこかほっとした自分に気付いた。
「サカイ部長、俺とハルトで行かせてください」
「ハルト君と?」
 サカイはイツキを見て、すぐにカナタへと視線を戻す。
「分かった。それじゃあカナタ君、ハルト君、行ってくれ」
「行くぞ、ハルト」
「……はい!」
 ハルトは戸惑いつつも、部屋を出ていくカナタを追った。
 A棟に向かうとき、ハルトはカナタの隣を歩けなかった。今、どんな顔をしているのだろうと、想像はできなかった。それと同時に、イツキの表情を見なかったことを後悔し始めていた。

「コウさん。お久しぶりです」
 カナタはA棟へつくと正門へは向かわずA部の事務室へ向かった。
「カナタ君! いやあアサヒさんに続いてカナタ君にも会えるなんて。……あれ?」
 コウはカナタの隣に立つ人物に視線をやり、首を傾けた。ハルトは何も言わず軽く頭を下げる。
「……まあ、今度ゆっくり聞かせてもらおうかな。それじゃあ開けるよ」
 コウは壁を叩く。そこに亀裂を入り、そこは扉となった。
「ありがとうございます」
「いってらっしゃい。ハルト君も、気を付けてね」
「はい……」

 下界へ降り、ハルトはすぐに辺りを見渡す。いち早くリードを見つけるため、それはもう体に染み込んでいる動作だった。
「ハルト、クリップはどうする?」
 動かしていた視線をカナタへと向ける。
「それは……」
 ハルトは昨日の演習でのことを思い出し、言葉を詰まらせる。
「何だ? この前はあんなに威勢が良かったのに。怖気づいたか?」
 ハルトはすぐに言い返そうとしたがその顔は俯く。感情を抑えつけるように声を発した。
「勝算のある方を、選ぶべきだと思います」
 カナタは表情を曇らせるハルトをじっと見た。カナタ自身、悩んでいるのは同じだった。ハルトが自分でやると言えば、そのまま承諾するつもりでいた。けれどどこか予感していたように、ハルトは自分がするとは言わなかった。
「ハルトが創ってくれ」
 その返答が意外だったのか、ハルトは声もださずにただ驚いた表情をしてカナタを見返した。
「聞こえなかったか? クリップはハルトが創る。ぼさっとしてる暇はないぞ」
「どうして……」
 煮え切らない態度がハルトらしくない。
「勝算のある方を選んだだけだが?」
「分かりました」
 ハルトはカナタの視線が少しだけ動いたのを見逃さなかった。すぐに後ろを振り返ると〝二人〟を視界に捉える。
 カナタは瞬時にクリップを広げる。白に包まれ、様々なオブジェの並ぶ空間が現れた。
「あれ? この間の生意気な子じゃん」
 前に立つリードの一人が言う。ハルトもそのリードのことは覚えている。アサヒと共に戦った相手だ。ハルトはその時のことを思い出し、表情を硬くした。視線を、手に向ける。震えている。ハルトはそれを何とか収めようと手に力を入れた。
「前にやった相手か?」
 カナタはハルトに問いかける。帰ってきた声は重い響きを持って返ってくる。
「……はい」
 カナタはオブジェがひずんでいることに気付く。それがハルトの精神状態とリンクしているからだ。カナタが声を掛けようとすると同時に、リードの声が被さる。
「俺、そっちの人と戦いたいな。もう一方は、弱かったから」
 さっきのリードが銃を向ける。銃口はカナタへと向けられていた。
「俺だ……」
カナタは自分に向けられたと思ったその声が、自分ではなくリードに向けられたものだと一瞬で理解した。
ひずみが無くなっている。それに気付いたその瞬間にハルトが動きだした。
「だからさあ、君じゃないんだって。俺は強いほうとやりたいんだよ」
「だったら尚更」
 ハルトは二丁のリムーブをネオファイルに向けて放つ。リードは軽くそれを交わすと銃口をハルトに定めた。
 放たれた銃弾を、今度はハルトが交わした。カナタはそれを確認するともう一人のリードに向き合った。
「何だ? アサヒじゃないんだな」
 そのリードは手にはなにも持たず、攻撃姿勢ではない。カナタもリムーブをまだホルダーに仕舞っている。
「今日は俺が相手をする」
「前の奴はなかなか楽しませてもらったが、お前はどうかな?」
「残念だが楽しめないだろうな。そんなことを思う前に終わらせる」
「へえ。そりゃ楽しみだ……」
 カナタは振り返りながら足を蹴り上げる。
 相手のリードは一瞬でカナタの後ろへと回ったがカナタはそれを確実に捉えていた。リードは体を逸らしてそれを交わすとカナタの足を掴み自分の方へと引きよせた。
 もう一方の脚はその反動で地面から外れカナタの体が宙に浮く。リードは片手にナイフを握りカナタに覆いかぶさるようにそれを振るった。
 カナタはそれを半身で交わそうとしたが腕にナイフが掠る。そのまま地面に叩きつけられると間髪を入れずに今度はカナタの手をリードが足で踏む。
「おいおい。ちょっと弱すぎるんじゃねえのか?」
 カナタはリードのその言葉には何も言い返さず、頭ではイツキの顔が浮かんだ。勝手なことをして、しかも怪我をしたともなればあいつはどんな顔をするだろうか……。
「あんたさあ、やる気あんの……っと」
 突然リードの足元だけが崩れる。リードは咄嗟に飛び後ろの球体のオブジェへと移った。カナタはゆっくりと上体を起こし立ち上がる。
 踏まれた手をもう一方の手で払う。
 カナタはハルトの方を見やると、ハルトはこっちのことなどお構いなしといったように、相手と戦っている。
「おいおい、もしかして今のはもう一人の方がやったのか? こっちのことなんか見てなかっただろ」
「さあ、どうだろうな。俺にも分からない、が助かったな」
「掴めないやつだ。ああそうだ、名前は? 俺はトウマだ」
「カナタだ」
 カナタはゆっくりとリムーブを抜いた。
 
「今日は相方が別みたいだけど。足手まといだから捨てられちゃったのかな」
「相変わらずよくしゃべる」
 ハルトは相手の動きを封じる方法を考えていた。視界に捉えたはずなのに、気付けば後ろにいるという状況を何度も繰り返す。そのたびに消耗する体力があまりに大きかった。前回と同じ動きでは勝てないことは勿論分かっている。けれどじゃあどうすればいいかまでの策は未だ浮かんでいない。そして、カナタが自分にクリップを任せたことにそのヒントがあるのではないかと、その考えが頭をしつこく回る。
 横目でカナタを見る。さっきは何とかフォローをいれることができたが、次に同じ状況になったときに同じ動きが出来るとは限らない。
(そもそも、カナタさんがあんなに追い込まれるなんてことあるか?)
現に今は対等に相手のリードと戦っているように見える。
(試されてるのか……?)
 ハルトは考えを打ち消すようにし相手を見据える。
「なあーんか、考え事してるみたいだけど。どう? いい方法でも見つかった? 俺を倒すさ」
 リードは手に銃を持っているが、構える姿勢をとろうとはしていなかった。ハルトは一つ息を吐く。相手がこっちを舐めているならむしろ好都合だ。
 目を瞑る。自分の創る空間を感じる。音が聞こえる。カナタの足音。相手のリードの音とは別だ。ちゃんと聞き分けられる。自分と相手、カナタとの距離感、ちゃんと感じる。自分の創った空間なんだ。〝見えなくても〟ちゃんと分かる。
 目を開く。その瞬間、ハルトのクリップは轟音をたてて、崩れた。

「戻りましたーって、あれ? 部長だけですか」
 アサヒが巡回部に戻ると、そこにはサカイの姿だけだった。コーヒーの香りが漂う部屋で、サカイはソファに座りのんびりとした様子だった。
「おかえり。今は皆出払ってるよ」
 アサヒは机へと向けた脚を止めサカイへ向き直る。
「出払ってるって、カナタとイツキは任務ですか? ハルトは?」
「任務」
「えっ、誰と? まさか一人じゃないでしょう」
「もちろん一人じゃないよ。カナタ君とだよ」
「カナタと?」
 アサヒはそのままソファへサカイの向かいに腰を下ろす。何でもないように話すサカイをじっと見た。
「何かあったみたいですね」
 サカイはカップを置くとアサヒを見返す。
「Aから要請が来たんだけどね。カナタ君がハルト君を連れて行っちゃったんだよ。……あとは、何となくわかるでしょ」
「ああ……。なるほど、それじゃあ俺は、不貞腐れて出ていったイツキを探しに行けばいいんですね」
「よろしく頼むよ」

 アサヒはまずイツキの部屋へと向かった。そこにいるとも思えなかったが、どこか行きそうなところに心当たりがあるわけでもなく、最初に行くにはそこしかなかった。
 カナタがハルトを連れて行ったのは、きっとそれはハルトを気にかけての事だ。先日ナツキとナヅナと模擬演習を行っばかりで、そこでの成果を試したいという気持ちがあったんだろう。ハルトも何かを掴みまけている途中だろうから、実践に向かわせた意味も分かる。
 だけど……
「イツキが心配だな……」
 きっと、カナタはイツキのことまで考えが追いついていない。気にかけているのは分かる。だけど、最近は特にハルトの事ばかりになっているのはサカイだって気付いていただろう。
「ハルトとペアなのは俺なんだけどな。これは、俺もしっかりしないと」
 アサヒは気持ちを切り替えるように、前へ踏み出す一歩に力を込めた。

 中央棟の屋上。イツキはN管理棟に背を向けるように柵に寄りかかっていた。
『カナタって、考えてることがいまいち分かんないよね』
 自分の言葉が頭の中を何度も反芻する。カナタが今ハルトを気にかけているのは分かる。それは、ちゃんと分かる。じゃあ自分は? 自分のことはどう思ってるんだ? それが分からない。
「カナタには、俺は……」
「見つけた」
 その声にイツキは顔を上げる。
「……ツバキ……さん」
「久しぶり、イツキ」

 足場が、いや、クリップ全体が大きく揺れている。オブジェが崩れて、〝再生〟されていく。
 広い空間に様々なオブジェを創っていたハルトのクリップから、それが取り払われた。カナタやハルト本人、リードの足元はいつの間にかオブジェではなく長方形に広い地面になっていて、四人が同じ場所に足をつけている。カナタがそれを確認した瞬間、今度は柵が四人を囲む。
「随分シンプルになったもんだね」
 リードはハルトの前で不愉快そうな顔をして言う。ハルトは気に留めることもなく目の前のリードへ向かって真っすぐに駆け抜ける。
「いくら空間を変化させたって、同じ戦い方じゃ結果は変わんないよ」
 リードは向かってくるハルトに向かってナイフを投げる。それを交わすハルトの、今度は背後に回り込み銃を構える。
「鏡……!」
 背後を取ったと思った瞬間、銃を構えた先にいたのは自分自身だった。そして次に目に入ったのは鏡に映る自分の背後に現れたハルトだった。咄嗟に振り返るがそこにはハルトはおらず、また自分の姿があるだけだった。
「なっ……」
 再び現れた鏡に動揺した瞬間、今度は地面が揺れた。自分が立っている場所を中心にして山のように盛り上がる。狭くなった足場にバランスが崩れ、背を後ろに倒れそうになるのを体に力を込め踏ん張るが鏡の上にいつの間にか立っていたハルトを視界に捉えると、体の力を抜きわざと後ろへ落ちた。放たれたリムーブはネオファイルに当たる。リードはそのまま受け身の体制をとり下へと落ちる。
「よかったよ」
 リードはゆっくりと起き上がると口の端を吊り上げる。
「何がだ?」
「相手が君で。今日はちゃんと楽しめそうだ」
「俺はもうあんたには……」
 言い終える前に、リードは短刀を取り出した。
「フユキだ。君の名前も教えてよ」
「……ハルト」
「ハルト。俺はさ、正直ネオファイルがどうとか、どうでもいいんだよね。だから、俺的にはこっからが本番」
 その一瞬。確かに視界に捉えてたリード、フユキが目の前から消える。
「こっちだよ」
 声の方へリムーブを構え直し振り返る。
「つかまえた」
片方のリムーブの銃身を素手で握られる。急いでリムーブを放とうとしたが勢い良く引っ張られ体のバランスが崩れる。フユキのもう一方の手にナイフが握られているのが見える。
(くそっ、このままじゃ当たる!)
ハルトは自らリムーブを離し距離を取る。けれどすぐにフユキは銃を撃つ。
 嫌な汗が背中を流れる。
『守りたいものも、守れなくなる』
 あのときのカナタの言葉が、頭に響いた。

「牢獄だな」
 トウマは変化したクリップを見渡して言う。カナタも突然変化したクリップに驚いていた。何か心境の変化があったのだろうが、それがどういった変化か……。
「何時まで余所見してる。自分の仲間がしたことだろ」
 トウマは素早い動きで一気にカナタとの距離を詰める。カナタはギリギリまでトウマを引きつけ背中に手を回す。鞘から短刀を出しながらトウマに振り上げる。トウマはそれを避けたが間髪入れずに振り下ろされる脚は横腹に入り込んだ。体が飛ばされ背中が柵に当たる。トウマの口からはうめき声が漏れた。
 カナタは動きを止めずリムーブを構えるとネオファイルに向かって撃つ。避けられるであろうことを予想し次の動きの姿勢をとったが、トウマは動かない、いや、〝動けなかった〟というのが正しい。その事態に気付いたのは、ネオファイルが解放された後だった。
 柵が変形してトウマの腕に絡んでいる。
 カナタはハルトを見る。目に映ったのはハルトが背後に回った相手にリムーブを奪われた瞬間だった。動揺したのかハルトの反応が鈍くなっているのが分かった。そして、次の瞬間、相手の銃弾がもう一方のリムーブを弾いた。
(しまった……!)
 カナタは援護へ向かおうと足を踏み出したがその足元に弾が落ちる。
「俺のことを放っておいてどこへ行く気だよ」
 柵に捕まったはずのトウマは立ち上がり銃を構えている。空間が歪んでいる。
「あっちも楽しんでるみたいだし、俺達ももう少し遊んでいこうぜ」
「悪いが、また今度にしてくれないか」
 カナタはトウマに構わす走りだした。

「この前と反対だね」
 リムーブが手から離れる。急いで掴もうとしたがその手は空を切る。
(まずい! これじゃあ……)
「これじゃあクリップを解けないよね」
 フユキの手にはハルトのリムーブが二丁あった。心臓が痛いほど脈打つ。空間が歪みだしたのが分かる。けれど、それを止めることができない。冷静な判断ができない。体も動かない。
「ハルト! ぼさっとするな!」
 カナタがハルトを庇うように前に立つ。
「カナタ……さん。すみません、俺……」
「取り返せばいいだけだ」
 ハルトの声が震えている。まずはハルトを落ち着かせないと。状況は不利になるばかりだ。
「なんだ、トウマ。獲られてんじゃん」
 トウマも追いつき二人と対峙する形になった。
「それはお前もだろ」
「俺はいいんだよ。興味ないし。それより褒めてよ、これ奪ったんだからさ」
 フユキはリムーブを持った手を振る。
「だからどうした」
「何だよトウマ、知らないの?」
「あんたはよく知ってるみたいだな」
 カナタは遮るように言う。
「まあね」
 クリップを解く条件がある。それは空間に対してリムーブを放つこと。クリップを創るときと一緒だ。クリップとリムーブは繋がっている。だから、ハルトのクリップは歪みが生じやすい。精神面だけが理由ではない。リムーブが二丁だということはその分の負担が生じる。単純に言えばコントロールが難しいのだ。そして、そのリムーブが奪われている今、クリップの制御はさらに厳しいものになる。現に地面のひびや柵が変形しているのが見て分かる。
「ハルト。援護頼むぞ」
「えっ」
「援護だよ。フォローしてくれって言ってるんだ」
「一人で二人を倒すっていうんですか?」
「どうしてそうなる。俺と、お前で倒すんだよ。俺は俺のやり方でお前を守る。だから、お前はお前の、ハルトのやり方で俺を守ってくれ」
 ハルトは口を噤み、返事も、カナタを見ることもできず俯く。
 カナタは一息をつき口を開いた。
「イツキが煩いぞ。俺だろうがハルトだろうが、怪我したらイツキが煩い。俺は嫌だぞ、お前が怪我してイツキにどやされるのは。お前だって嫌だろ」
 〝イツキ〟と聞いて、朝のことを思い出す。
『カナタって、考えてることが分かんないよね』
本当に、分からない。ハルトはゆっくりと顔を上げる。そこにあったのはカナタの笑った顔だった。
「どやされるのは、俺も嫌です」
ハルトは自分を囲むようにガラスを張る。カナタはそれを見ると自身もリムーブを握り直した。
「何か作戦でも考えてた? けどもういいよね。そろそろ、始めようか……」
 フユキはリムーブをネオファイルに入れると銃を構えた。
「遅いな」
「なっ……!」
 カナタはフユキの後ろへ回り腹に蹴りを入れる。フユキは咄嗟に腕をクロスさせそれを受ける。体が飛ばされるのを脚を踏んばり柵の手前で止まる。そのままフユキへリムーブを打ち込もうとしたがすぐ後ろで何かが弾かれるように鈍い音が鳴った。振り返るとそこにはちょうどカナタが隠れるくらいの大きさの壁が現れていた。だがその壁はすぐに消え、向かいにいたのは銃を撃ったトウマだった。
「なるほど。武器がなくても戦えるって訳か」
「てっきり、どちらかはハルトを狙うと思ったが」
「武器を奪っておいて一方的に攻撃するなんて、そんな趣味はないね」
「それじゃあ、仮に俺を倒したとして、ハルトには攻撃はしないってことか」
「ああ、そうか。それは困るなあ。それじゃあ前言撤回だ。だけど、まずはあんたからだ」
 カナタは後ろから飛んできたナイフを短刀で振り落とし、身をかがめてトウマの銃弾を交わす。そのままの姿勢でトウマの脚を掴み自分のほうへ引き寄せる。トウマの倒れる体に覆いかぶさる体制になり短刀を持つ腕を振り上げる。
「なるほど。あんたは他の管理史と違うらしい」
 短刀を掴んだ手から流れる赤が、トウマの腕を伝う。
 カナタは短刀に込めた力を緩めない。トウマの表情が歪む。
「カナタさん!」
 ハルトの声が響く。カナタは短刀を離し後ろへ振るう。それと同時にもう一方の手に持ったリムーブの引き金を引いた。
背後から来たフユキは、振られた短刀を避けるのに高く跳躍し逆さまになったまま銃を撃った。
 カナタはとっさに避けようとしたが身体を寸でのところで止める。当たると思った銃弾はハルトのつくったシールドで防がれる。
 フユキはシールドを足場にし地面に着地する。
「あれ? トウマやられちゃった?」
「気絶してるだけだ」
 ふーんと、フユキは倒れたままのトウマを一瞥すると、それ以上は興味を示す素振りは見せなかった。カナタは立ち上がり短刀を払った。
「終わっちゃった」
 フユキはそう呟いた。
「どういう意味だ」
「そのまんまの意味だよ。あんた、さっきトウマに向かっていったときの殺気がもうなくなってる。せっかく面白くなると思ったのに。それに……」
 フユキはそこまで言うとナイフを複数、カナタへ向かって投げる。カナタはそれを短刀で弾く。その間にもフユキはハルトへと距離を詰める。
「先にこっちかな」
 フユキはカナタの上を飛ぶ。
「ハルト……!」
 狙いはハルトだ。そう理解した瞬間カナタはハルトへと走った。
 フユキの銃がハルトを狙う。ハルトの張ったガラスで防げればいい。だけど、今のハルトの力で確実に防げる保証はない。現にガラスは所々消えかけていた。
(あれじゃあ確実に……)
カナタはガラスに飛び込む。ガラスは割れることはなくカナタの体はなんなくすり抜ける。
「……カナタさん……?」
 ハルトに覆い被さったカナタは、そのままハルトに寄りかかった。支えるように背中に回したハルトの手は嫌な感触に濡れる。
「怪我、してないか。ハルト」
「してないです……」
「ならよかった。イツキに……どやされなくてすむ」
 カナタの声が細くなる。
 ハルトは何か声を掛けようと口を開くが、震えるばかりで言葉が出なかった。
「あははっ! そうそうそれ! さっきもさあ、あんた、そうやってトウマも庇ったんだ」
 フユキは愉快そうに笑って言う。ハルトは苛立ちと焦りが混じり顔を歪ませる。反論しようとハルトは懸命に声を出した。
「庇ったって……そんなことあるわけ……」
 確かにフユキが上から銃を撃ったとき、あれはトウマに当たることも構わないといった攻撃だった。それをカナタは避けなかった。けどそれはシールドが張ったからじゃないのか。あの瞬間、ハルトはそう思っていた。けど、フユキのそれを聞いて、確かにそうではなかったのかもしれないと、確信に近いその想像がよぎる。
(俺がシールドを張る保証なんてなかったはずだ。だったら、避けた方が確実に助かるのに……)
「カナタさん……何で……」
 カナタは身体に力を入れ寄りかかっていた体を起こす。
「カナタさん…!」
「ハルト、相手に惑わされるなよ」
 ハルトはそれを聞いて、自分の判断力がなくなっていることに気付く。
「動かないでください」
「俺は大丈夫だよ。まだ全然動ける」
「けど……」
 ハルトはカナタの顔を見れないでいる。地面に滴る赤が目に痛い。けれど、そこから目を逸らすことができない。
 カナタは腕をあげ両手でハルトの肩を掴んだ。
「顔上げろ。ハルト」
 ハルトは恐る恐る顔をあげる。カナタと目が合う。
「俺はお前を守ると言ったぞ。お前は、ハルトはどうなんだ?」
「俺は……」
 確かなその声、全身で感じるカナタのその存在感。
 恐怖心が薄れていくのが分かる。
(俺は、カナタさんを……)
 目を瞑る。ゆっくりと呼吸をし息を整える。開いた瞳は真っ直ぐにカナタと向き合った。
「必ず、守ります」
「頼んだぞ」
 カナタはハルトの言葉を聞いて満足そうに笑うと、ゆったりと立ち上がる。
「最後の挨拶はすんだ?」
「確かに、これ以上はもう話さなくていいみたいだ。もうすぐ終わるからな」
カナタはリムーブを握る手に力を入れる。
痛みはある。だけど、動けないほどではないとカナタは自分に言い聞かせた。
ハルトのクリップが壊れかけていることには変わりないが、かろうじて今の状態を留めている。正直、これ以上戦闘を長引かせるわけにはいかない。ハルトも、自分自身もこれ以上は本当に危険だ。助けが来れば心強いが、確実ではないそれは無いと思うぐらいで丁度いい。
「カナタさん。俺が、一気に相手までの距離を縮めます。……上手くいくかは、分からないですけど」
「方法があるなら全部やるぞ」
 ハルトはカナタの背中に滲んだ赤を見て、気を強く持つ。
「視界が開けたら、その瞬間にネオファイルを撃ってください」
「分かった」
 カナタは聞き返すこともなく頷いた。
 ハルトは胸が苦しくなるくらいゆっくりと呼吸する。
 イメージするんだ。フユキの周りに、箱型の、いや、形は何だって言い、とにかく相手にスキができるまでカナタさんを移動させ続ける。そのためのフェイクを創る。
 ハルトは頭で一度その場面を創るとそれをそのまま目の前に映し出すように想像する。
 次の瞬間にはフユキの周りにはいくつもの大小さまざまなオブジェが現れる。
「一人いないってことは、このどれかに入ってるってことかな」
 フユキは品定めする様に辺りを見回す。先ほどまでハルトの目の前にいたカナタの姿はすでになく、フユキの言う通り、カナタはあの中のどれかにいる。
「とりあえず、一つ一つ潰していったらいいのかな」
 フユキは銃を構えるとその発言通りオブジェへ向かって弾を放つ。ハルトはその銃弾を目で捉えながらカナタを移動させる。
 フユキがいくら打とうがカナタを撃つことはできない。きっとそのことに相手はすぐに気づくだろう。ハルトはそれを覚悟したうえで、一瞬の隙をつこうとしていた。
 ハルトもカナタも、攻撃できるとすればきっとこれが最後だ。相手を倒すより、とにかく早くこの空間から逃れなければならない。自分の創った空間にこうも簡単に囚われてしまうことに、ハルトは嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
「これって、いくら打っても意味ないやつだよね」
 そう言ったフユキの顔には疲れが見えている。相手だって確実に体力が減ってきているのだ。
 ハルトはそのフユキの表情と動きを見る。動きが鈍る瞬間がどこかであるはずだ。
 銃弾の音も聞こえなくなるくらい、ハルトは目の前の敵に集中する。
 一瞬、それは反射的なもので、感覚に近かった。
 フユキの後ろ、カナタが姿を現した。視界が開けたカナタはすぐにフユキの姿を捉える。
「やっと出てきた」
 フユキもカナタの存在を瞬時に察し振り返る。それと同時に銃をカナタに向かって放った。
 確実に当たりはずだったそれはカナタをすり抜ける。
「残念だったな」
 そのカナタの声がフユキに届いたときにはカナタの放ったリムーブはネオファイルに当たっていた。
 フユキは弾の反動でトウマの側まで飛ばされる。
 ハルトはカナタの落下地点に緩衝材を創る。
 腰に取り付けたホルダーに重みが戻る。ハルトは手をやるとそこには二丁のリムーブが確かにあった。
 安堵感を抱いたのも一瞬で、ハルトはその体を引きずるようにカナタへ向かう。
「カナタさん……」
 声を出すのもやっとなことに気が付く。自分が今どんな状態なのか、その判断も上手くできない。
 ハルトはカナタの腕を掴み揺さぶる。その少しの反動で体が痛む。
「ハルト……大丈夫か?」
「カナタさんは……」
「大丈夫だ。ハルト、リムーブを……」
 そうだ、リムーブを解かなければ。手が震える、落ち着かなければと思う程緊張が体中を走って体が言うことを聞かない。
 手に力を込め、何とかホルダーからリムーブを抜く。
 引き金を引く直前、耳を劈くような音が響いた。ハルトのすぐ横に銃弾が落ちる。
「待った……」
 フユキは上手く動かないのか、腕に力を入れ上体を起こしている。
「まだ終わって……」
「フユキ」
 遮ったその声はフユキの後ろ。トウマだった。血の気が引く。意識が戻ったのだ。もし二人に攻撃されれば自分たちはどうなるだろうか。最悪の事態が頭をよぎる。
「フユキ、終わりだ」
 トウマから発された予想外のその言葉に驚いているのはハルトだけではない。それはフユキも同じだった。
「さっきまで気絶してたくせに。何だよ急に」
「自分でも分かってるだろ。お前ももう動ける状態じゃない」
「何言って……」
「管理史!」
 突然呼ばれたその呼称にハルトはトウマに視線を合わせた。
「早く空間を解け」
 はっきりと発されたその言葉。敵であるトウマがなぜそんなことを言っているのか分からない。けれどハルトにそのことを考える余裕はなかった。
「ハルト。前会ったとき、聞く前に消えただろ」
 フユキのその問いに上手く反応できず、ただ相手を見るばかりのハルトを気に掛けることなくフユキは続けた。
「今回はちゃんと聞いとけ。ツバキに、よろしく」
 引き金を引く。朦朧とした意識の中で、空間は崩れて消えていった。

「僕って、ずっとD地区なのかな」
 歩くたびにふんわりと揺れる髪が、窓から差し込む陽の光に透ける。隣を歩く青年は、その髪を上から掴むように手を置き乱す。猫ッ毛がさらに柔らかさを増す。
「そんな深刻な顔してどうすんだよ。それに、何で〝僕〟だけ? ハヤトと俺がペアなんだから、残るなら俺も一緒だろ」
 ハヤトと呼ばれた青年は髪を抑えつつ下を向いたまま口を開く。
「ペア組んでるからって、必ずしもずっと一緒ではないじゃん。そんな規則ないんだし。それにユウマはもっと実力があるんだから」
 だんだんと小さくなっていく声と、その背が曲がり縮こまっていくのを見て、ユウマは内心溜息をついた。どうにも自身を持てないでいる相方が、ずっと心配だった。いっそ昇進したいなんて気持ちを持たなければこうして悩むこともないのにとユウマは思う。
 隣を歩くハヤトを見ると、いつの間にか背は真っ直ぐに伸びていた。その視線は一点に集中している。
「ハヤト?」
「……ユウマ、ホンジョウ先生に電話!」
 突然そう言ったハヤトは当惑するユウマを置いて走り出した。
 状況が分からなかったのはほんの数秒だった。ハヤトの向かった先に二人、管理史が倒れていた。

 自分のシャツに赤色が滲んでいく。気付けばカナタに覆いかぶさるように倒れている。
(戻れたのか……?)
朦朧として視界もぼやける。早く医務室へ行かないと。ああ違う、それよりもアサヒさんに連絡した方がいいだろうか。イツキさんは今どこにいる? 動かなければ、意識を保たなければ。カナタさんを助けなければいけないのだから。
「イツキさん……」
 誰かが来るのが見えた。けれどその目は、ほんの少しそれを捉えただけで、ゆっくりと視界は落ちた。

「電話もでないな……。ったく、どこに行ったんだ?」
 端末を片手に、アサヒはイツキをまだ見つけられないでいた。部屋も中庭も地下の練習場にもいない。屋上に行こうとエレベーターのボタンを押したとき、手に振動が走る。
「イツキからか?」
 画面を見るとそこには、イツキの名前ではなく〝部長〟と表示されていた。出動命令だろうかと画面をスワイプし、エレベーターの表示を見つつ耳に当てる。
「もしもし? すみませんまだイツキ見つかってないんです。応援要請なら俺一人で……」
「今すぐホウジョウ先生のところへ行ってくれ。私もすぐに向かう」
 その瞬間、嫌な感じが体中を走って心臓の音が聞こえるくらい脈を打ちだす。焦りを抑えるように声を発する。
「あの、何があったんです?」
「カナタ君とハルト君が運ばれた。詳しいことは私もまだ分からないんだ。イツキ君には私からも連絡をとってみる。君は先に二人のところへ向かってくれ」
「分かりました」
 アサヒは通話をきると踵を返しホンジョウのいる医務室へ向かおうとした。けれどすぐにその足を止め、開いたエレベーターの中へ入る。
「イツキ、そこにいてくれよ」

 自分の目の前にいる人物が、本当にその人なのか疑いたくなるような、これは夢で、目が覚めたときに〝ああ、夢だよなあこんなことは〟そう思いたくなるような、そんなことを考えずにいられない。
「ツバキさん」 
「久しぶりだね。イツキ、元気にしてた?」
 黒い髪が風に揺れて、目が見え隠れする。その、人を見透かすような目を、イツキは嫌という程知っていた。
「どうして……」
 一歩、ツバキがこちらへ近付く。イツキは反射的に自分の体を引いたが、すぐに背に柵の冷たさを感じる。
「久しぶりに会いたくなって。この前巡回部に行ったのに、イツキいなかったから」
「巡回部に、来てたんですか」
「あれ? サカイ部長かアサヒさんに聞いてない? 結構大事な話をしたんだけど」 
ツバキが巡回部に来た。それだけのことが、イツキを動揺させるのには十分すぎることだった。どうしてツバキが自分を探しに来たのか。どうしてそのことを部長やアサヒから聞かされていないのか。
「まあいいや。俺も直接言いたかったし。ねえイツキ、また俺と……」
 その言葉の先を予想しないようにすることがどれだけ難しいだろう。少しでも思考してしまえば、その答えはいとも簡単に出てしまう。
「イツキ!」
 屋上の扉、そこにはアサヒが立っていた。アサヒはツバキを見て驚いた表情をしたのも一瞬で、こちらへ来るとイツキの腕を掴んだ。
 腕を少しも動かせないほど、アサヒのその手には力が入っていて、そして震えている。
「アサヒさん?」
「移動しながら話す。とにかく来い」
 引っ張られる体は脚がもつれバランスを崩しそうになる。
 それでも意識はツバキに向いていて、体に力を込めその場に留まろうとする。
「ちょっと待ってください。何なんですか」
「いいから! カナタが運ばれた!」
 たった一人のその名前で、イツキが動くことをアサヒは分かっている。案の定イツキの体からは先ほどの力は抜け、体はこちらを向く。
「また守れなかったんだ?」
 そのツバキの声に振り返ろうとするイツキの腕を、アサヒは一層力を込めて握り駆け出した。
 アサヒ自身、カナタとハルトの状態が分からない今少しの時間も無駄にしてはいけないと焦りばかりが先行する。
 ただ無事であってくれと、それだけを思ってアサヒは走った。

 何があったのか。カナタがどうしたのか。ハルトは一緒なのか。アサヒに聞きたいことはいくらでも出てくるのに、声を出すのが怖かった。早く自分の目でカナタを見なければいけない。任務から帰ってきたカナタに〝お疲れ様〟と言って、いつもの毎日が何も変わらないことを確信したい。
〝あのときの赤〟が脳内にへばりつく。その赤がカナタに重なって吐き気がしてくる。
アサヒの手はずっとイツキを握ったままで、その手のひらからアサヒの焦りも伝わってくるようだった。

 D管理棟医務室。ホンジョウ室につくと、その人物はすぐに見つかった。病室から出てきたホンジョウは、アサヒとイツキを見るとその場に相応しくないような柔らかな笑みを浮かべた。
「おお、来たな。サカイ部長も後少しで来るみたいだよ……」
「あのっ」
「カナタは!」
 アサヒの声を遮るように、イツキはホンジョウの前に立った。
「カナタは今どこですか!」
 アサヒはそのイツキの勢いに自分の言葉を飲み込んだ。
「これは、ゆっくり説明できる状況じゃないね。今僕が出てきた部屋、カナタくんいるから。まだ寝てるから起こさないように」
 イツキはそれを聞くと走ってカナタの元へ向かった。
「あの、ホンジョウ先生、ハルトは・・・・・・」
「ハルトくんはそっち。まあ簡単に言っておくと、カナタくんもハルトくんも、休めばちゃんと復帰できるよ。カナタくんはなかなかヒヤヒヤさせてもらったけどね」
「ありがとうございます……本当に」
「いいえ。それが俺の仕事だから。早く行ってあげて」
 アサヒは深くお辞儀をすると、カナタの隣になるハルトの病室の扉を開いた。
 ハルトは点滴に繋がれ横になっている。呼吸も落ち着いているようで、静かに眠っていた。
 実際に顔を見てアサヒはゆっくりと息を吐いた。心臓の脈が収まっていくのが分かる。ひどい怪我もないようで、顔に少し切り傷があるのが見えただけだった。
「カナタが守ってくれたんだな」
 アサヒは椅子をベッドの横に持ってくると、その呼吸の音に安心した。
 額にかかった髪を指で掬うと、ハルトは小さく息を漏らした。
「ハルト?」
 アサヒは腰を浮かせハルトの顔を除き見るような体制になる。
 ハルトはゆっくりと瞬きを何度か繰り返し、瞳を漂わた。
「アサヒ、さん?」
「ああ、俺だ。分かるか?」
 起き上がろうとするハルトを支えベッドの背を持ち上げる。その衰弱した様子にアサヒは締め付けられるようだった。
「俺、ちゃんと戻ってこれたんですか?」
「ああ、戻ってこれたよ。ホンジョウ先生が治療してくれた。しっかり休めば大丈夫だって。カナタも隣の病室で寝てるみたいだ」
「カナタさん……。あの、カナタさんは?」
 身を乗りだしたハルトはすぐに体の痛みを感じたのか、小さく呻いて体を縮こませた。
「無理するな、まだ動ける状態じゃないだろう。カナタは無事だから、だから安静にしてろ。今はイツキが側にいてくれてる」
「イツキさん、来てるんですか? あの、イツキさんに会わせてください!」
 ハルトは点滴スタンドを掴むと、体を引きずるようにしてベッドから降りようとする。
「ハルト! おい、ちょっと待て! イツキに会いたいなら俺が呼んで来るから。少し落ち着け!」
 どうしてカナタがここまで取り乱すのか。イツキに何があるのか分からず、とにかく今はハルトを止めなければと押さえる。
「アサヒさん?」
 扉が開いてそこにいたのはイツキだった。騒いでいたのが聞こえたのだろうか。こちらの様子に驚いている。
「ハルト君……」
「イツキ。ハルトが話したいみたいなんだ」
 イツキはハルトに近づく。
「イツキさん」
 イツキの腕がハルトへ伸びて、その腕は背中に回る。イツキの体が震えているのが分かる。
「ありがとう……。カナタを、守ってくれてありがとう」
「なんで、俺は全然守れてなんかないです。俺のせいで、カナタさんはあんな……」
 ハルトのその言葉を聞いて、イツキはいっそう強く腕に力を込めた。
「ありがとう。ハルト……」
 ハルトは堪えるように唇をかみ体を奮わせた。
 アサヒはその様子を見て、そっと部屋を出た。
「アサヒ君!」
 声の方をみると、ちょうどサカイがホンジョウとの話しを終えたところだった。
 サカイはカナタとハルトの様子を一目見ると、上への報告をしなければならないからと病室を後にした。
 イツキは、今日はカナタの側にいたいからと病室に残った。
「それじゃあハルト。俺も戻るよ。明日にはカナタも目を覚ますんじゃないかってホンジョウ先生も行ってたから。また来る」
「あの、アサヒさん」
「どうした?」
「ありがとうございました」
 しっかりと目を見て発されたその言葉を取りこぼさないよう、アサヒもハルトを見返す。
「どういたしまして」
 部屋を出るとアサヒは電話を掛けた。
「アサヒです。お久しぶりです。今からお伺いしてもよろしいですか? はい、少し、ツバキと話しをさせてください」

 目を開けると、ぼんやりと天井の白が見える。視線の端に映る窓の外は暗い。
(病室?) 
だんだんと意識がはっきりして来ると、右手に何かが触れる感覚を見つける。
 体を横にしようとしたが思うように動かない。視線だけをそちらにやると、俯せになった人物が見える。その手は自分の手を握っている。
「イツキ……?」 
 カナタはその手を握り返す。
 ずっと側に居てくれたのだろうか。服はスーツのままでその背には何も掛かっていない。
 カナタは体を奮わせる。
「何か、イツキに掛けるもの」
 視線を動かすと、イツキの座っているのとは反対側の椅子の上にブランケットが見えた。手を伸ばせば届きそうで、カナタは少し体をずらす。
「……ん」
 小さく声が聞こえる。起こしてしまっただろうかとそちらを見ると、イツキはゆっくりと体を起こした。
「すまない。起こしたか?」
「カナタ?」
「まだあまり状況が分かってないんだが。ここはホウジョウ先生のところか? って、おい」
 イツキはカナタの腕を掴んで胸に顔を埋める。
「あまり強く握るな。まだ痛いんだ」
「おかえり……」
 カナタはイツキの頭に手をやろうとしたが腕は重くて上がらない。
 顔を下げてイツキの髪に唇を当てる。
「ただいま」