明け方

 私はまだこんなに貴方のことが好きなのに、なんて、ただ駄々をこねたところで、彼を引き止められる理由にはならなかった。
 一人になった部屋は、あまりにも広すぎた。机の上に丁寧に置かれた鍵が、鬱陶しく感じる。帰ってこいよ、と思う。カーテンの隙間から橙色に照らされた建物が見えた。一日の終わりへと向かう光は、彼が帰ってくる合図だったのに、扉が開く音がしない。時計の音が部屋に響いてうるさかった。その音を消すようにスマートフォンから音楽を流すと、彼が好きなバンドの曲が流れてきた。フラれた女の強がりが聴こえてきて、私は耳を塞いだ。
 もう二度と彼に触れてもらえないことが信じられなかった。手を握る暖かさも、頭を撫でてくれたあの手の平の感触も、忘れることはできないのに、体温だけを私に残して彼は出て行った。
 うめられない思い出が、記憶の一部を覆っている。そのことが辛くて泣きながら彼の名前を呼んでも、抱きしめてキスをしてくれることはもうない。
 どうして大丈夫だと思うのだろう。彼は、私にはもう自分は必要ないとでも思ったのだろうか。私は貴方の温もりがないと息もできないのに、どうしてそれが分からないのだろうか。
 私が傷つかないように、私を振った彼を、やはり優しいと思った。彼は私のことを嫌わなかった。私は、彼を好きなまま、他の誰かに恋ができるのだろうか。彼は、私のことが好きなまま、他の女の子の名前を呼ぶのだろうか。
 想像したら何だか可笑しくて、笑ってしまった。
 彼のその他人を呼ぶ声が、優しくて苦しかった。
 私は音楽をとめた。足を踏ん張って立ち上がり、私は窓を開けベランダへ出た。
 遠くに見える空の端の橙色が、もうすぐ夜に飲まれそうになっていた。
 私は部屋に戻って、着ていたスウェットのまま、彼にプレゼントされた靴をはいて玄関を出た。風が、癖で広がった髪と、頬に張り付いたままの涙の跡を撫でていく。
 街の明かりが濃くなっていくのが分かる。一日がまた、終わりに近付いている。
 私と彼が別れても、何も変わらなかったように今日が過ぎていった。多分、明日も変わらない。世界に何の影響も与えず、ただ、私と彼が出会う前に戻っただけだった。
 そうか、何も変わらないのかと、少し安心した自分に気付いた。いつの間にか、見ている景色が穏やかになっていた。
 立ち止まって深呼吸をしてみる。気休めでも、何だかリセットされたように思えた。
 こうやって、彼への気持ちを誤魔化していこう。今はそれでいい。
 私は明かりの灯る街へ、また歩みを進めていった。