溶けた甘さに残る君《ホワイトデー編》

 杏さんと友達になって一か月が経った。あの日から、平日は毎日のように、放課後図書室で会った。約束をしているわけではない。ただ、ここに来れば会えるだろうと、そう思って俺は毎日図書室へ通った。杏さんも、そうだろうか、そうだといいなと、独りよがりなことを考えてしまうほどには、俺は杏さんのことが好きになっているみたいだった。

 一か月前と同じ、教室の空気がそわそわしているのは期末試験の返却だけが理由ではないだろう。
 昼休み、俺の前に座る酒井が椅子を反対にし、俺の机にどかっと飲み物とパンを置いた。これはいつものことでいつもの光景。
「なあなあ~」
 紙パックのアップルジュースにストローをさしながら変に甘ったるい声で話しかけてくる。
「何」
「何で話題に入る前からそんなとげとげしいんだよ~」
「どうせ余計なこと言いそうだから」
「結構失礼なこと言ってるよね」
「自覚はあるよ」
 俺はペットボトルに口をつけ温くなった水をのどに注ぐ。酒井はわざとらしく頬を膨らませている。
「それでさ~」
 もう無視することにしたらしい。
「杏ちゃんとはどうなったの?」
「おい気安くその名を口にするなよ。俺だって〝さん〟付けなのに」
「怒んないでよ! だって今日何の日か知ってる?」
 メロンパンの香りがふんわりと広がる。酒井が大きく口を開け丸くてふんわりとしたそれにかぶりつく。
 俺は杏さんがおすすめしてくれたお店のクロワッサンだ。
「ホワイトデーだろ。ちゃんと持ってきたし。告白もするし」
「さらっと言ったよな」
「勿体ぶることでもないだろ」
 あ、本当にこのクロワッサン美味しい……。次は一緒に行きたいな。告白が成功すればの話だけれど。まだ、杏さんは俺のことを想ってくれているだろうか。実はもう冷めているのに気を使っているのかもしれない。
「なんて告白すんの?」
「教えるわけないだろ。恥ずかしい……」
「恥ずかしいって……。けど得意じゃねえの、モテモテの千尋君なら」
「告白されたことはあるけどしたことはないんだ」
「いっそ清々しいよホント」
 何だよ。という顔をしてみる。ここで謙遜などして何になるのかと強がってみる。
 酒井は続けた。
「じゃあ少女漫画みたいな?」
「だから教えないって」
 何だよ~と言って酒井は次のパンを食べはじめた。今度はシンプルなクリームパン。
「まあけど、上手くいけばいいな」
「うん。ありがと」
 俺は机の横に掛けた鞄をちらと見た。鞄の中にはお返しのチョコレート。今日の放課後、図書室でこれを渡す。
 告白のセリフは考えてない。というより思いつかなかった。初めてだからどう言うのがベストなのかが分からない。少女漫画を読んだってそこに答えはなかった。
 昼休み終了のチャイムが鳴る。確実に近づいてくるその時間に、心臓が確かに痛かった。

 扉の窓から図書室の中を覗く。
「まだ来てないか……」
「千尋先輩? どうしたんですか?」
 俺は勢いよく後ろを振り返った。なんだこのよくあるワンシーンはと思いつつ突然現れた杏さんの変化に俺はさらに混乱した。
「髪形、いつもと違うんだね? 編み込み?」
 片耳の上あたりまで編み込んである。いつもは下ろして隠れていた耳が見えて、それだけで俺は何か秘密を見てしまったかのように思い、何だかむず痒い気持ちになった。
 杏さんの耳は小さくて可愛らしい。
「えっとはい、今日はその、何となく気分で……」
「そっか。よく似合ってるね」
 そう言いつつ、俺は相変わらず美味しそうだと杏さんの髪を見てしまう。
「あの、中に入らないんですか?」
「そうだね。入ろうか」
 俺は扉を開けると杏さんを先に入れる。杏さんはいつもと同じ席に着いた。俺もそれに倣って隣の席に座る。グラウンド側、入り口から一番右手の机の右端。いつものここに座ると、だんだんと心が落ち着いていくようだった。
 俺は鞄を膝に置いたまま静止した。今すぐにでも渡すべきだろうか。幸いにも今この図書室には俺たちしかいない。
 心臓の音が五月蠅い。杏さんも、一か月前はこんな気持ちを抱えていたのだろうか。
「あの、杏さん」
「はい」
 俺は鞄から四角い箱を取り出した。お菓子なんて作れないから買ったものだけれど、どんなものを渡せば喜ぶかを考えて選んだ。
「今日ホワイトデーだから、これ、お返し」
 口に出したその言葉は想像よりも素っ気なくなってしまった。
「私にですか! あ、ありがとうございます! 宝物にします!」
「宝物にしてたら溶けちゃうよ?」
「それじゃあ箱はずっと保存しておきます! 本当に、嬉しいです」
 杏さんの持つその箱は震えていた。つまり杏さんの手が震えているわけだけど、その手を握ることはまだできない。だから
「杏さん、髪の毛噛んでいい?」
「えっ、はっはいもちろんです!」
 杏さんは迷いなくそう言った。多分その意味に気付いてないんだろうなあと思いつつも、俺だって何でこんな回りくどい言い方してるんだと内心呆れていた。
「意味分かってる? 俺、友達の髪の毛噛んだりしないから」
 杏さんは口を少し開いた状態で何も言えないでいた。時計の針の音がはっきりと聞こえてきて、この空間の静寂を知らせた。
「彼女でもない女の子の髪を噛んだりしない。そう言ったの、覚えてない?」
「……覚えて、ます」
「よかった。じゃあ、もう一度答え聞かせてくれる」
「あの、噛んで、いいです……のあ!」
 カタンと音がして箱が床に落ちた。杏さんは慌てて椅子から降り床に膝をつく。反射的に俺も椅子から降りていた。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ」
「そんな! すみませんこんなに大切なもの!」
 杏さんは下を向いたまま顔を上げようとしない。
「杏さん、下向かれてたら噛みにくい」
 杏さんはその俺の声に反射するように顔を上げた。その頬は真っ赤に染まっていて、俺の理性を壊すのにはそれはもう十分すぎたわけだけど、あまりにもそれは、
「その顔、絶対反則だから」
 俺は、杏さんの首に顔を埋めるようにして、そのチョコレート色の髪を、噛んだ。
 ああ本当に、こんなに甘いのか。
 俺はゆっくり顔を離す。杏さんは呆けたような顔をしていた。
「あれ、後悔してる? 俺の彼女になったこと」
「してないです……」
「俺、好き。杏さんのこと好き。大好き」
「私も、千尋先輩のこと、大好きです」
 このときの杏さんの表情はもうしばらくは俺の頭から離れないだろうなとそう思う。これから先、あと何度こんな表情をさせてあげられるだろうか。そんなこと今考えたって分からないけれど、俺のできる限界まで、それまではずっと、俺は杏さんのその笑顔を何回でもさせてやろうと、そう思った。

 春。桜の花弁が道いっぱいに広がっている。
「千尋先輩!」
 校門の前で俺は立ち止まり声の方、後ろを振り返る。
「おはよう、杏」
「おはようございます!」
 俺たちは並んで門をくぐる。
「杏も今日から先輩だね。ますます綺麗になった。新入生にとられないか心配だな」
「それはこっちのセリフですよ。先輩、絶対一年生にモテモテになります」
「俺はそのほうが嬉しいかな」
「……何でですか」
「そんな心配そうな表情しないでよ。何考えてるか知らないけど、俺は杏の彼氏だよ」
「……じゃあどうしてモテモテに……」
「だってそのほうが妬いてる杏の可愛い表情が見れるでしょ」
「私、今照れてます」
「はははっ、それ、そういうとこ!」
 風が吹き花弁を舞い上がらせる。進む先を示してくれるようなその花を、あと何度杏と一緒に迎えられるだろうか。
 それはきっと、願えば何度でも……
「千尋先輩!」
 突然杏は俺を呼ぶ。
「えっなに……」
 杏は俺の腕を下に引っ張り顔を近づける。
「好きです」
 杏はそれだけ言うとパッと腕を離した。
「先輩、顔真っ赤です」
「だって急にこんなことされたら……」
「さっきの仕返し!」
 風が杏の髪を揺らす。俺はこのとき、今日は絶対その髪を噛んでやろうと心に決めた。
 仕返しの仕返し。
 そうやってずっと繰り返していきたい。こうやって新しい春を迎えながら。二人で、何度でも