溶けた甘さに残る君《バレンタイン編》

 手のひらに、コロンとしたチョコレート一つ。キャンディーのような包み紙。
「ありがとう」
 クラスの女の子に貰ったチョコレート。もちろん、義理チョコ。律儀に全員に配っている。そもそもあの子は彼氏がいる。彼は嫉妬したりしないのだろうか。そんな心配をしてしまう。
 今日はバレンタインだ。何となく、教室がそわそわしていた気がする。友人は、今日は彼女とデートと言っていた。帰りのホームルームが終わると、駆け足でさっさと教室を出ていった。俺は「楽しんで」と言って軽く手を振ると、いつものように図書室へ向かった。別に誰かと待ち合わせをしているわけでも、ましてや女の子から呼び出されているわけでもない。それが当然といったようにすいすいと吸い込まれるように図書室へ向かう自分の足。
「自分の体じゃないみたいだ」
 なんて、小さく呟く。席を立ちカバンを肩に掛け右足から踏み出す。無意識の行動。そしてそれを意識したときの頭がこんがらがる変な感覚。
 図書室には一人先客がいた。本を返却しに来たらしい人。本を返却ボックスに置くと俺とすれ違うように図書室を出ていく。ここには俺一人になった。
 いつもと変わらない。俺が放課後、毎日行くその場所。縦に三つ、横に三つ並んだ長机。自分の定位置の、グラウンド側、入り口から一番右手の机の右端。そこに座る。鞄から文庫本を取りだし栞を挟んだページを開く。
 高校一年生の、引っ込み思案な女の子がヒロインの恋愛小説。彼女は美術部で、グラウンドを走るサッカー部の先輩に片思いしている。美術室から彼を見てはこっそりその姿を描いている彼女。実は彼も、グラウンドから見える美術室の彼女が気になっているという設定。いかにしてお付き合いすることになるのか、そういう話だと思っていた。けれど、半分まで読んだあたりでこれはもしかしたら両想いなのに失恋する話かもしれない、と感じている。それは切ないなあと思いながら読んでいた。
 友人に、女子が読む話だと茶化されたが俺は少女漫画も読むし、少年漫画も読む。自分が好きなものをただ読んでいるだけだ。
 けれど、少女漫画は二つ下の中学二年生の妹の影響だと思う。リビングで漫画を読んでいた妹に何となく借りて読んでみたら面白かったのだ。この小説も妹から借りている。思春期で、兄である俺のことをうざがったりするのではと思っているけれど、今のところ大丈夫だった。俺は妹のことを可愛く思っているから「うざい」なんて言われたらショックで二、三日学校を休むかもしれない。ある日の昼休み、それを友人に言ったら「お前はいい兄だよ」と呆れたように言われた。少しむっとしたから「可愛いんだ」と言ったら「じゃあ写真見せてよ」と言ってきたが「惚れられたら困る」と言って断った。お前は顔だけだと言われて、友人の弁当から梅干しを奪った。友人は俺の弁当から梅干しを奪った。その梅干しは美味しかったからどこの梅干しなのか聞いて後日スーパーに買いに行った。
 俺みたいなキャラクターが出てくる漫画がある。妹に教えてもらったのだが、そのキャラクターはシスコンと言われていた。けれど、
「お兄ちゃんはこのキャラクターに似てるよね。かっこいい」
 と言われたから嫌な気持ちなんてなくなった。
 ガタと、音がして我に返る。右横の机、二日に一度くらい図書室で見かける女の子。その彼女が椅子に座った音だった。いつの間にか図書室に来ていたらしい。上履きの色で一つ下の後輩だと把握する。鎖骨ぐらいまでの髪の長さ。少し茶色がかったその髪色を見て、俺の頭にはチョコレートが浮かんだ。彼女の髪はチョコレート色だ。俺は噛んでみたいと思った。なんだか甘そうに見えるのだ。もちろんそんなことはしないけれど思うだけ思った。
 俺は本に視線を戻す。そうだ、彼女はこの本のヒロインに雰囲気が似ているなあ。一度そう思うとどの場面も彼女で再生されてしまう。俺の頭の中は彼女でいっぱいになった。
 あ、ヒロインがチョコレートを渡そうとしている。けど他の女の子が先輩に告白している場面だった。タイミングが悪いなあ……。けど先輩が好きなのは君なんだから安心して渡してほしい。ああ、引き返してしまった。これじゃあ付き合えないぞ……。
 俺はカバンにしまっていた義理チョコレートを取り出して口に含んだ。口の中はこんなに甘いのにフィクションはこんなにも苦い。
「あの……」
「はい?」
 声を掛けられ顔を上げるとそこには小説のヒロイン、いや、彼女が立っていた。何だ? 俺は少し動揺する。
「先輩って、か、彼女さんとか、その……いるんですか」
「え……彼女」
「ああのすみませんいきなり! あっ、私一年の安藤杏と言います!」
 杏……甘そうな名前。
「俺は加賀千尋と言います」
「千尋先輩! あ、加賀先輩」
「千尋でいいよ。俺も杏さんって呼ぶから」
 俺はこうして会話しながら、頭ではどうして話しかけてきたのか気になって仕方がなかった。俺は何かしてしまったのだろうか。もしかして俺が、彼女、杏さんで頭がいっぱいだったことがバレてしまったのだろうか……。
「あの、千尋先輩。彼女さんは、いらっしゃいますか?」
「いないよ」
「ほんとですか! あのじゃあこれ……」
 杏さんは後ろに回していた手を真っすぐに俺に向けた。
 俺は星形の箱をゲットした。
「俺に? ありがとう。これって義理チョコ? どうして俺に? あ、もしかして余りのやつとか?」
 多分彼女はクラスメイトにチョコレートを作ってきたんだ。けど欠席か何かで一つだけ余ってしまった。自分で食べてもいいがせっかくなら誰かに渡したい。そうだ、あそこに一人で座っている先輩。あの人に渡してしまおう。けど彼女がいたらきっと、義理チョコだろうが嫉妬され喧嘩になってしまうかもしれない。よし、先輩に彼女がいなかったから渡そう。といったところだろう。
 うん、とても自然だ。
「好きだからです。先輩のこと、好きだからです。本命チョコです」
「えっ、本当に!」
 俺は勢いよく立ち上がる。本命チョコだ。人生で七回目。ラッキーセブン
「本当です。私と、お付き合いしていただけませんか?」
「返事をする前に質問をいいかな?」
「何でしょう!」
「俺が杏さんの彼氏になったら、髪の毛噛んでみてもいいかな?」
「髪の毛、ですか?」
 あ、だめだ。また同じことを俺はしてしまった。きっとフラれる。前言撤回される。今までだってそうなんだ。俺がこういうことを言うから、今まで付き合ってきた女の子にも〝変な奴〟だと言われフラれてきたんだ。友人の言っていることは正しい。俺は顔だけだ。容姿に自信があるわけじゃないがフラれる理由を外見のせいにするのは気が進まない。俺はモテるために性格を変えるほどの根性はないが、外見は磨けるからだ。
「先輩……」
 ああ、ごめん。せっかく告白してくれたのに。俺は少女漫画みたいに君の期待には応えられないよ。
「先輩って、面白いんですね」
「そうだよ俺は〝変な奴〟なんだ」
「いえそうではなくて、見た目とのギャップが素敵だと思います」
 そんな事初めていわれた。
「前言撤回しなくていいの?」
「どうしてですか! 私は先輩の彼女になりたいです」
 フラれなかった。俺はこのチョコレートを食べていいらしい。
「あの、私フラれるんでしょうか。だったら最後に私の髪の毛噛んでください」
「杏さん君はもっと危機感を持ったほうがいい。彼氏でもない男に簡単に噛んでいいなんて言ってはいけない。俺も彼女でもない女の子の髪を噛んだりはしないよ」
 正直目の前にある茶色くて甘そうな髪の毛の味を知りたいのはやまやまだが、それはできない。
「せめてそのチョコレートは食べてください……お願いします」
「もちろんいただくよ。それに、俺まだ全然君のことを知らないから。よかったら友達になってくれませんか?」
「友達! いいんですか!」
 彼女は俯いていた顔を上げた。大きく見開かれた瞳に吸い込まれそうになる。
「俺でよければ」
「もちろんです! これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
 それから俺たちは駅までの帰り道を並んで歩いた。杏さんはずっと緊張しているようだった。俺も緊張したけれど、杏さんと話すのは楽しかった。

 俺は家に帰りつくと小説の続きを読んだ。
 引き返したはずのヒロインは、勇気をふりしぼり先輩に告白した。最後には二人、付き合うことになってこの物語は終わった。
「よかった」
 彼女も今日、このヒロインのように喜んでくれただろうか。そうだといいな。
 俺は本を閉じると、この先の物語を想像する。
 俺たちはどうなるだろうか。
「そうだチョコレート」
 杏さんと一緒に食べようと思ったのに、杏さんは恥ずかしいから家で食べてくださいと言ってそれを拒んだ。
 リボンをほどく。
 星の角のところに丸いチョコレート五つ。真ん中にはハートのチョコレート。
 俺は真ん中のチョコを口に入れるところころと転がした。
「甘い」
 きっと彼女の髪もこんな風に甘いんだろうな。
 そんな想像をしながら、俺はホワイトデーに思いを馳せた。