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デジタルネイティブ世代へのまなざし|お話会

少し前になりますが、3月8日に「デジタルネイティブ世代へのまなざし」と題したお話会をしました。現代の子育てはとても大変だと思います。なぜなら、自分達とは全く次元の異なる人間を育てなくてはいけないのですから。

ここでいう「デジタルネイティブ世代」とは、インターネットであらゆるものがつながり合い、テクノロジーによってあらゆることが効率化された社会の中に生まれてきた子どもたちのことを指します。

一方で、今子育て真っ只中にあるわたしたち親世代は、その前の時代を知っている人がほとんどだ。子どもの頃に接した情報媒体といえばテレビで、今みたいに感想がリアルタイムに共有できる世界なんて想像しなかったことでしょう。学校へ行って「昨日の〇〇見た?」「見た見た!」というやり取りが普通にあった。お友達とは文通でやり取りをしていたり、親の目をぬすんで家電で長電話をしていたところにポケベルや携帯電話が現れた時はびっくりしただろう。ガッガッガッガッとちょっとずつネットの検索画面が立ち現れてくるという今思えばなんとも歯がゆい瞬間を知っている人もたくさんいるでしょう。

しかし、今やスマートフォンといういわば小さなパソコンを一人一台持ち歩く時代。思ったこと、感じたことを投稿したらば一気に拡散をし、行きたい場所を入力すれば最適ルートが提案され、丁寧にお天気や近隣のレストランなどの付属情報までお知らせしてくれるという至れる尽くせりっぷりだ。前時代を知るわたし達親世代はついつい「いやぁ、ほんと便利な世の中になったよね」という口癖が出てしまうことがあるのですが、デジタルネイティブ世代はそんな環境をデフォルトとして育っていく、未知の存在のように思えることがある。そんなわけで、現代の子育てってものすごく大変です。

子どもにいつからゲームに触らせても良いのか?
子どもがネットを使うことが不安。
デジタル教育はどうなっていくのか?

などなど、デジタルネイティブ世代の子どもを育てる親たちの悩みは尽きませんね。前置きが長くなりましたが、今回はじゃあどうするのか、といういわゆる対処法ではなくまず「その背景にどんな力が働いていると考えられるのか?」という話題提供から始めてみました。その後、そこから持ち帰ったものを元に今自分が疑問や問題を抱いている部分と重ね合わせて考えてみます。

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そもそも、「つながるとはどういうことなのか?」ということについてもユング心理学の考え方をベースに考えてみました。外の世界でどんなに共通点を見つようとしても分断を生むだけ。個々が内側に降り立って、その先につながり合う世界を見つけるというのが本当の意味でつながり合うということだし、多様性や個性というものはこの領域で語られることだと思います。そして、そういう意識で人類がテクノロジーを使いならば、平和的で豊かに発展していく未来が作られていくのだとわたしは強く信じています。

そこで、わたしが最後に提案したのが「偏愛を大切にする」ということ。
それも、できれば合理的でない自分にしかわからないようなものがいい。

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このとき思い出すのが、精神科医の名越康文先生のこちらの記事。

人は一人一人自分の内側に誰からも理解されない「圧倒的変態性」を抱えて生きている。そして常識というのはこの「圧倒的変態性」を覆い隠すためのベールであり、他者とともに生きていくために人類文明が進化の過程で生み出した、ひとつの発明なのだといいます。

人間というのは、一人ひとり異なる個性を持って生まれてくる。こう言うと「そんなの知っているよ」という人も少なくないでしょう。でも、「一人ひとりが異なる個性を持っている」という事実は、とんでもなく恐ろしいことなんです。そのことに気づいている人は、とても少ない。
(中略)
「ああ、あなたと私は違うね」という程度では済まない、途方もないギャップが他者と自分との間には存在している。それは、互いが互いの本当の姿を知ったら、驚きのあまり失神してしまうぐらいの「違い」なのです。

では、それほどに異なる他人同士が、曲がりなりにもコミュニケーションを取ることができているのはなぜなのか? 実はそれこそが「常識」の機能であり、力なのです。一人ひとりが「常識」という名の着ぐるみを着ているからこそ、互いに大きく異なる人間が、手をつなぐことができる。
簡単に言葉で表現できたり、ましてや他者から理解されたりするようなものは個性なんかではありません。それは往々にして、どこかで小耳にはさんだ他人の考えであり、他人の感情に過ぎないのです。

個性とは「私はこう感じている」という、孤独だけれど、しかし強固で揺るぎない感覚のことです。世界中で自分以外の誰もが「違う」と感じていても、一辺の疑いもなく「こうだ」と確信できること。自分の中にある圧倒的な確信こそが、本当の意味での個性といえるものなのです。

常識というベールがあるからこそ生きていける。そしてその壁を隔てた向こう側には圧倒的変態性とも言える「個性」が存在している。わたしはその個性を掴む足がかりになるのが「偏愛」だと思うのだ。わたしにしかわからない。人から取ってはどうしてこんなものに興味があるの?どうしてこんなものが好きなの?と不思議に思われるようなものだ。

さらにこうも思う。AIやテクノロジーというのは今まで人間同士が常識によって固めてきた地盤を合理的に引き受ける存在ではないだろうか、そして、人間は今まで常識というベールに包まれてきた個性というものを探求できるようになるのでは、と。こういう話をすると、管理社会になる、人間として豊かさを取り上げられる、などテクノロジーに侵されるというニュアンスを強調されることがある。もちろんそういう側面もあるし、危惧していかなくてはならないとは思うのだけれど、それだけではない側面もあるのではということを共有できたらいいなと思った次第です。

なぜそんなことが好きなのかよくわからないけれど、でもあなたのことが大切だ。

そういう感覚を持って、わたしたち親世代が自らの偏愛という個性からの呼びかけを尊重しあえる場があったら、それは今を生きるデジタルネイティブ世代への優しいまなざしとなり成長をサポートする力となると信じています。


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