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夢 4 夢を書く人 (幻想文学・連作短編)

  ある女が見ている夢の話。

 冷えた空気に包まれた作業部屋。天井はやけに高く、手を滑らせて本を落としでもすれば、大袈裟な乾いた音になってこだまする。

 壁は厚く、窓を開け放さなければ、外界の音など一切聞こえることはなかった。一面に張り巡らされた書架も防音に一役買っていて、それには様々な本が所狭しと並んでいる。

 女は眠れなかった。一度も眠ったことがなかった。部屋の中央にある木製の机に向かって、ただひたすらに夢を書くことが仕事だった。この世界に存在するあらゆる夢を見る生き物たちのために、様々な種類の物語を用意しなければならなかった。

 女は自分の仕事にやりがいを持っていて、向いているとも思っていたが、夢を見るというのが一体どのような体験で、それをした生き物はどう感じるのか、見当もつかなかった。

 赤ん坊の頃は眠っていただろうか。夢を見たことがあるだろうか。そう考えてみても、女は自分の幼少期の記憶がすっかり欠けてしまっていた。誰に言われてこの仕事を始めたのかも、覚えてはいなかった。

 母親の腹から生まれたのかどうかもわからなかった。女には家族も友人もいなかった。いなくなったのではなく、初めからいないのだった。いたとしても、もう覚えてはいないし、誰もここへはやってこないのだから、いないのと同じことだった。

 寂しく感じることはなかった。随分と前からここに住んでいるはずなのに、どうしても、月日が経つ、という感覚がわからなかったのだ。

 女は自分の書いた夢を見ている人間と出会ったこともなかった。女にあるのは、自意識と、この作業部屋と、時々やってくる猫に乗った少年だけだった。

 女は、この猫に乗った少年から着想を得た人物を夢に登場させ、夢の管理を任せているのだった。猫に乗った少年という設定のみを固定し、それ以外の、つまりは少年の髪型や背丈や声質や、そういったことは気まぐれに変更するので、少年は各夢ごとに、ほんの少し違っていた。この日もまた、新しい夢を書き始めた。題名を、天体遊戯、とした。

『巨大な猫に乗った少年は今日もゆく。根無草のように。黒いロングコートを羽織った背の高い、灰色の髪のなびく少年の姿をしている。しかし彼は、自分を人間とは認めない。あるいは、本当に人間ではないのかもしれない。兎に角、彼の素性を知る者はない。

 少年はとある小さな街に着いた。翡翠を薄めたような色の風が吹いているのが特徴的な、静かな街だ。街の中心にある湖の上を、少年を乗せた猫はゆったりと浮いて進む。

 青い湖底に、古い民家や木々、それから鉄塔の残骸などが時を止め、沈んでいる。所々に、淡い虹がかかっている。その奥には、かつて信仰を集めた大樹の根だけが残されているのも見てとれた。

 空はほとんど純白で、夜になると黒く染まっていくが、のっぺりとした絵の具を塗りたくったような質感で、そこに特別な光は存在しない。

 太陽はとうの昔に消滅してしまった。月は
といえば、真っ二つに割れて、双子のいたずらっ子になった。夜な夜な世界のどこかに現れては、人間を揶揄っているらしい。それは子供たちの間でだけ広まった噂のようなものだ。と、この町の人たちは言……』

 いつも通り、少年がやってきた気配を感じた女はペンを置いて顔を上げる。ほとんど同時にいくつもの鈴が重なって鳴るのが聞こえる。女はゆっくりと椅子から立ち上がり、重い扉の内鍵を外して力を込めて引く。

 少しだけ開いた隙間から、いらっしゃい、そう小さな声で言って、気だるそうに少年を出迎えた。少年は、とても歓迎されているとは言えないにもかかわらず、女の様子を気に留めることなく猫に指先で合図を出して自分の背後に座らせてから、微笑んで口を開いた。

 ご機嫌いかがですか

 何も変わりないわ……。何も……

 そうですか。それはよかった……のかな。

 さあ、どうかしらね

 どっちでもいいのなら、よかった、と言うことにしておきましょう

 ねえ

 はい?

 機械人形は夢を見るかしら

 あなたが、夢を見る機械人形の物語を書けば、夢の中で夢を見ることは、あるんじゃないですかね。

 そう……。そうね。気が向いたら書いてみるわ。

 珍しいですね。あなたから僕に話をするなんて。いつもは僕が話したことに返すだけでしたよね

 そういえばそうね。せっかくだからついでにもう少し質問していいかしら

 嫌だと言ったら?

 あなたは嫌だなんて言わないわ

 どうしてそう思うんです?

 断らなくたって、いくらでもはぐらかせるでしょう?

 お褒めの言葉として受け取っておきます。それで、何が聞きたいんです?

 あなたは、夢を見たことがある?

 いいえ。どちらかといえば、夢を見せる側の者ですから。

 そうね。あなたはいつも、私が書いた夢の原稿を回収して、夢の棚へ持っていってくれるものね。

 ええ。夢の棚の整理も僕の仕事ですから。

 私は……。私は、いつか夢を見ることができるかしら

 扉の隙間から大きな猫の艶のある目がこちらをまっすぐに見つめている。少年は荷物の入った袋や箱を扉の前に並べながら言う。

 あなたはもう既に夢の住人ではありませんか。

 どういうことかしら

 そのままの意味ですよ。それでは、失礼します

 少年は小さく会釈をして猫に跨り、静かに去っていった。女は静かに扉を閉め、机に向かい直した。少年が去り際に、猫の上から女を見下ろして言った一言を、思い返す。


 あなたは眠れないのではありません。もうすでに眠っていて、長い長い夢を見ているのです……。


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