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(連載小説:第8話)小さな世界の片隅で。

前回巻末:歩がデイサービスセンターに着いた場面から

(連載小説:第7話)小さな世界の片隅で。

自動扉が開き、歩が入ってきた事が分かると、
杉山さんはゆっくり顔を上げた。

歩と目があった。

歩の背筋がヒヤッとした。
頸~肩の筋肉に、少しだけキュッと力が入った様な気がし、
その力は、抜くことが出来なかった。

”お、おはようございます…。杉山さん…。”
歩は、”何か”に身を任せていた。

”おはよう…”
杉山さんは、静かに答えた。

道中、寄り添った、情けない歩の長い影は、デイサービスセンターに入った頃には、いつの間にか姿を消していた。

第8話

(X‐7日)
歩は、そのまま、杉山さんに軽く会釈し、デイサービス内の朝の支度をしている介護スタッフ達の中に混じった。プラ手をはめ、ルビスタ(消毒薬)でテーブルや椅子を拭き、利用者さん同士のテーブル、洗面台に、透明なアクリル板を設置していく。

”おはよう。歩君。”

介護スタッフの海野さんが歩に声をかけた。
海野さんは、60代の女性だ。デイサービスの介護スタッフは、海野さんの他に20~30代の女性のスタッフが4名、男性スタッフが1名いる。

”海野さん、おはようございます…。”
歩は、表情を少し崩しながら、返答した。

”今日は、人数多いみたいだね。”

”そうみたいですね…。出ている椅子の数も多いみたいですし…。”

”忙しくなりそうだね。入浴も多いってよ。でも、コロナが流行ってる、こんな時期に忙しいってのもねぇ…。”

”ご家族さんも、忙しいのは、分かるけど、何とかならんもんかねぇ…。”

海野さんが呟いた。
海野さんは、日中は、このデイサービスで働きつつ、終業後は、認知症になってしまった、母親の介護もされているそう。お母さんの介護は、場合によって、サービスを利用する事もあるが、基本的には、ご家族が交代でみられていると、海野さん本人から以前聞いていた。

海野さんの呟きは、そこにいる歩を通り越して、来所前のデイサービスのフロアに、ずらっと並べられた空席の椅子、全部に向けられているようであった。

”そうですね…。でも、僕らじゃ、どうにもできないんですよね…。”

”この前の土曜日も、これ台風じゃないかって位、雨風が凄くて、送迎の家からの送り出しの時なんか、かなり危ない状態だったんですけど、その日も、ここは、普段通りの満員御礼って感じで…。”

”ここで働いていて、言うのもなんですけど…、本当は、こういう所が無くても、大丈夫っていうのが、理想なんじゃないかって、最近、思ったりもするんですよね‥。”

歩は、空席の椅子へ軽く目を向け、言葉を返した。

”そうだよねぇ。どうしようもないんだけどねぇ…。”

”あたしも、母さんの事があるから、分かるんだけどねぇ。こういう所があって助かるのは。”

”でもねぇ…、家族なんだからさぁ。いつからこうなったかねぇ…。”

”まぁ、来たら、来たで、みんな、(家族には言えない)家族の話をしてたり、身体の話とか、今後の話、バカな話なんかをしてたりしてさ、楽しそうにしてるし、悪い事ばっかりじゃないんだけどね。こういう場ってほかに無いからね‥。”

海野さんの利用者さんの事を思う何気ない言葉が、歩の心にじんわりと染みた。

この、日常の作業をする中で、さっきまでの頸~肩の緊張は、徐々にほぐれていく様な感じがした。

その時、フロアの向こうから、上司の杉山さんの声がした。

”歩君、ちょっといい?”
いつもの冷たい声だった。

”はい、杉山さん、何かありますか…?”
歩は杉山さんの所に軽く駆け寄りながら返事をする。背筋のほぐれかけた緊張が、ピリッと戻ったのが分かった。

歩は、この杉山さんとここ4年位の付き合いだが、馬が合わない。
というか、率直に嫌われているといっていい。
歩の何が嫌われているのか、それは分からない。

難しい所が、この杉山さんは、歩にとって、全面的に悪い人では無い所だ。
業務をサポートしてくれたりする事もあり、声をかけてくれる事もあるが、

自分の機嫌が悪い時、周りから、杉山さんに批判の目が行くような時、自分の立場が危うくなる時等に、

杉山さんに向かうストレスをそのまま歩に、投げているのか、そうする事で、自分の身や、立場を守ろろうとするのか、その矛先が、いつも弱い立場である歩に向かうのである。

杉山さんはどう思っているのか分からないが、歩は、勝手にこう思っているのである。

歩が抱いている、“全面的に悪い人ではない”という感覚も、歩からの印象で、杉山さん自身がどう思っているのかは分からない。

杉山さん自身は、歩の事を心底嫌いで、本心からとことん歩を追い詰めたいが、他の職員に対する体裁を保つために、時折協力している姿勢を示しているだけかもしれないし、

先のように、ストレスの吐口にされているだけなのかもしれない。

まぁ、どうでもいい事だ。自分ではどうにも出来ないし、考えてもしょうがない。

こうして、俯瞰してみると、自分が何だかDV夫に寄り添う伴侶の様な気がしてきたのである。

そして、それは、一方向ではなく、こちらも、杉山さんが扱いやすい状態の“歩”を、自ら少なからず演じ、双方向で状況を作り上げているようにも、思えた。

冷たい口調で、杉山さんが続ける。

”歩君…、今何時か分かってる?”

”はい…。9時です。”
作業を続けている、歩が遠くから答える。

デイサービスへの出社時刻は、9時30分だ。同時刻に送迎の車が出る為、準備の時間を込みで、9時15分には、デイサービスへ到着していなければならない。

今は、9時。時間には、間に合っている。

”9時なのは、分かってるよ。”

”今から何をやるか分かってる?”

”はい…。9時30分~送迎なので、迎えに行く車の確認と、車に乗る利用者さんの名前と住所をチェックして、9時30分に出れるように支度しておきます。”

”そう。ちなみに、その利用者さん達と車、今朝また変わったから、また確認しておいて。”

”なんか、悠長に現場の支度手伝ってたけど、そんな余裕ないよ。”

”ごめんね、海野さん。歩君、なんか余計な事してるみたいでさ。”

杉山さんは、遠くから、海野さんを通して、周りのスタッフにも聞こえるよう、やや声を大きめにして言った。

海野さんは、言葉を返さず、仕事を続けていた。

”…。”

歩は、聞き流しながら、送迎表をチェックしに向かった。

事務所の前の机の上に置いてある、今日の送迎表を確認する。
本日の送迎人数は、4名。
しかし、そこには、いつもは組まれていない、時間に厳しい利用者さん2名と、時間にルーズな利用者さん1名が追加されていた。

“何だよ‥これ‥。”

歩の、午前中のデイサービスでのリハビリ実施人数は、6名。
1人に費やせる時間は、15分~20分程度である。
午前中のリハビリの時間は、概ね12時まで。
6名実施するには、少なくとも、10時までに送迎を終えて帰ってこなければ間に合わない。

”30分で帰ってこれるか…。”

歩は、念のため、他の運転スタッフに協力を仰げるか聞いてみたが、どのスタッフも時間一杯で組んでおり、また、向かう方向も違う為、無理は言えなかった。

”しょうがない、自分で回そう…。”

歩は、考えた。

時間にルーズなあの利用者さんを先に回って…、用意できていない様なら、すぐ、時間厳守の2人のお宅へ向かい、後1名乗せた後で、ルーズな利用者さんのお宅へ再訪する。これで行くか。

歩は、送迎表と、携帯電話、送迎車のキーを持って、玄関前の車へ向かう。
車にエンジンをかけた所で、9時半になった。
利用者さん宅へ、挨拶と、到着予定時間の連絡を入れる。

”おはようございます。デイサービスセンターの歩です。本日のお迎えは、〇時〇分頃お伺いしますので、よろしくお願いします…。失礼します…。”

4件全部に連絡後、車を走らせた。
歩は、車内のカーステレオのボリュームを上げる。いつものローカルFMの、BGMと、メインDJの元気な声が立ち上がってきた。その元気な声で、今日の天気や、渋滞情報を伝えていた。

その声で、歩の表情はやわらぎ、少し、落ち着きを取り戻すのであった。

朝の陽ざしが眩しかった。この少し嫌な気持ちと、どうしようもなさ、そこに歩がはまり込む感覚を追体験した。

嫌な感覚を再び味わうと同時に、ほんの数日前の事であるのに、それは、なぜか少し懐かしいような気もした。

見過ごされているものにも少し、気づいた気もする。

複雑な気持ちで、あまり、気持ちの良いものではなかったが、
歩の中で、今後起こりうるであろう事すべてを受け止める覚悟ができていた。

歩の運転する、白いハイエースは、通勤の自動車、同業の送迎車、社用車、一般の自動車を含んだ、いつもの地方の幹線道路を、決められた秩序に従った、あの川の様に、流れていくのであった。

(次号へ続く)

※本日もお疲れ様でした。
社会の片隅から、徒歩より。

第7話。

第1話はこちらから。


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