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件のnoteに共感した

ラニーノーズというお笑い芸人兼バンドのファンのnoteを見てファン側の意見にとても共感した。

自分自身、第三者から見れば「ヤバいヲタク」と呼ばれる様な行為を繰り返してるからかもしれないが、決してあのファンを笑う事は出来なかった。

何に対しても他責思考な事、今までの人生で所謂「推し」がなかった事、現実世界での居場所のない孤独感、手を伸ばせば届きそうな位置に居る事、どんな形であれ本人に認知された事、どの事象を取っても共感しか生まれなかった。

昨今の「ヤバいヲタク」側として発言する人の文章は、自身の感情が先立ち支離滅裂であったり他人からすると事実と妄想が入り混じり読みにくい文章が多いと思う。実際X(旧Twitter)で日々バズっている文章はお世辞にも読みやすいと言えるものでは無く、日本の義務教育の敗北すらをも感じさせる物が多い。
しかし件のヲタクは自分視点で起こった出来事を供述する能力が高く、また他責思考ながらも自身の行動を正義と考え、他者へ共感を強要し、共感を得られなかった物を悪と捉える。
このプロセスをここまで行動と思考を言語化出来ている文章は中々無いのではないだろうか。

今まで特段趣味もなく現実での居心地の悪さを感じる中で、若手芸人という手の届きやすい対象に目を奪われてしまうとどの様に距離を詰めて行けば良いのか分からず、苦言を呈してくれる信頼出来る関係性を築けない人物はただひたすらに金品で心に留めてもらうか、過激な言動で本人からどんな形であれ認知される事に喜びを覚え、より暴走してしまうのだと思う。

私はそうだった。

恐らく絵師も彼女も芸能人の様に高嶺の花で空の上の物であればここまで執着しなかったと思う。
ただ手を伸ばせば認知してもらえ、足を運べば会いに行ける、その絶妙に届きそうな場所にあるからこそ執着し、より過激な行動をして目に留まりたいと考えてしまうのだ。

今回の件で「ヤバいヲタク」である彼は本人達からも明確にNOを突き付けられ、世間からも心無い意見や誹謗中傷があるだろう。

それを客観視して自身にリミッターを掛けられるだろうか。
私は無理だろうと思う。

現に彼女にブロックされたり鍵をかけたりされればされる程、執着心が燃え上がりどうにもならないと分かっていても行動を止めることが出来ないからだ。

彼の書いた後日談のnoteは祈りの様に現状を変えてくれ、謝罪をしたから元の様に戻れると思い込んでいるかの様な文章が綴られている。

私達の様な世間のはみ出し物は自分の良い様に進むとしか考えられないのだ。

他責思考故に「これだけ書いたのだから許してもらえるはず、許さないのであれば本人が悪い」と考えるからだ。

この様な「ヤバいヲタク」が生まれるのは私達が悪いのでは無い。
孤独感を感じている者を徹底的に無き者とし、存在に気付いても見下してきた本人や社会が悪いのだ。

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