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自己犠牲は善ではない

一つ前の記事に、「どうぞ」と「仲良く」は呪いの言葉?と書いた。

自我が育まれる前の子どもに、これらを多用し無理強いをすることの問題点について触れているが、言葉そのものには善悪は無い。
ただ、その言葉を繰り出す前提として、自己犠牲が伴うか否か?が問題だと思う。

自分が心から気持ちよく「どうぞ」って差し出せることなら何ら問題ない。
自ら仲良くしたい人となら、気持ち良く「仲良く」できるし、すれば良い。

そうではなくて、本当は嫌で納得いかないのに、周囲の同調圧力から「どうぞ」と譲ることを求められたり、「仲良く」せざるを得ない状況や、本当は悲しかったり、怒りたいのに、気持ちを押し殺し、自己犠牲の精神で「どうぞ」や「仲良く」する、ということが大問題なのだ。

自分の心が正解!と言っている時に、周囲が不正解だと言ってきたら、それを幾度も繰り返されたら、自分の判断に自信が持てなくなる。
そんな本心と一致しない振る舞いを幼い子どもに要求し、捻れた感情を持つことを善とすることは、自分を否定することとイコールだ。確実に自己肯定感を削っていく。

相手に「どうぞ」をしたり、「仲良く」する前に、まずは自我を健全に育てて、自分を認め、大切にできるようになることが、子どもにとっての最優先だと思う。
その上で自分と他者の違いを理解し、自分の意思に基づく判断と選択ができるようになること。
それらができるようになってはじめて、本当の意味の「どうぞ」と「仲良く」ができるのだと思う。

これは私の個人見解だけれども、これまでの日本のスタンダードな子育ては、親に対し妙に自己犠牲を強いる場面が多い。
私にも根強い自己犠牲の精神があり、それが善だと思い込んでいた。
そういうビリーフを持つ親は、子どもを親の自己犠牲の範疇に勝手に巻き込み、子どもにもに同じ自己犠牲を強要し、次の世代に連綿と受け継がれてしまう。
私の親や祖父母は幸い善人の部類だったけれども、私の自己犠牲のビリーフは、彼らから受け継がれたものだ。確実に。

この不健全さに、私は娘の不登校を通じて気づくことができた。
自己犠牲は善では無いし、美しいものではないと思う。
もうこんなビリーフのリレーは私と娘の代で絶対終わらせたい。
私は娘に伝えてしまっていたけど、それは間違いだったよ、と訂正している途上だし、私自身のビリーフを鋭意書き換え中だ。

気づきを与えてくれた娘に感謝したい。




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