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【エッセイ】人工の島、人造の魂(7)

    ★

 二年生に上がって、新しい教室に変わりました。
 今までA棟の三階だったのが、今度からはB棟の二階です。
「まるで、お引越ししたみたいだね」
 クラスが同じだったお友達と、私はキャッキャ笑い合っていました。
 その最初の授業で、私たちはいきなりどぎもを抜かれました。
 新しい先生は、丸眼鏡をかけ、薄く髭を生やした背の高いおじさんでした。頭は、白髪交じりの短髪です。
 それはいいんですけれど、首からでっかいギターを提げていました。薄茶色の木でできた、フォークギターというやつです。
 先生はおどけた表情で目を見開き、舌を突き出しながら、背後の黒板にでっかく文字を書きました。

 山本五郎

「やまもと」
「やまもと先生」
 児童たちは口々にさんざめきました。
 だけどおじさんは、耳元に手を当てて聞き入る仕草をしてから、ゆっくりとかぶりを振ってみせました。
「違う違う。さンもと」
 え? という空気が、私たちの間にぼわんと充満しました。
 先生は、そんな子どもたちの反応に満足した様子で、何度もうなずいていました。
 それから両目を真ん中に寄せ、手足を引きしぼりながら、まるでカブキみたいなポーズを取ってみせるのでした。
「さンもと五郎、ただ今参上仕る」
 カカン、とどこかから拍子木の音が鳴りました。

 先生は毎月一曲、オリジナルソングを私たちに披露してくれました。
 最初の歌は、こんなのでした。

 赤いキリンが海を見てる
 キリンよ キリンよ 遊ぼうよ

 マイナーコードをジャカジャカ掻き鳴らしながら、悲哀たっぷりのメロディーで歌い上げていました。
 人工の島に住んでいる私たちには、それが何のことだかよくわかりました。
 港の岸壁で外側を向いている、たくさんのガントリークレーンです。
 四本の足ですっくと立ち、海のかなたを見つめている。まるで島を守ろうとする、鋼鉄でできたモアイみたいです。
 毎日そんな歌を朝の会で演奏するので、だんだんと覚えてしまい、ついにはみんなで声を揃えて歌っていました。

 あーかーいキーリンが うーみいを み・て・る
 キーリンよ キーリンよ あーそぼうおうようおうおうおう

 山ン本先生は、とっても面白い人でした。
 黒板に板書をしながら、チノパンのお尻を掻いてみせ、生徒たちが笑うと、こちらを振り向いておどけた表情を作ったりしました。
 毎月の新曲も、(マイナー調が多かったですが)すごく素敵で、私たちはいつかしら、新しい歌を歌うのを楽しみにさえしていました。
 例えば六月の歌は、こんなのでした。

 ダバダーダバ ダッダッダダーダ
 あじさいさんに 恋したカエル
 ダバダーダバ ダッダッダダーダ
 あんたの目と鼻 どこにある


 そんなこんなで、おおむね楽しく学校で過ごしていたのですけれど、一つだけすごく苦手なことがありました。
 それは、給食でした。
 私は、たくさん好き嫌いのある方ではなかったのですが、どうしてもこれだけは無理だというものがあって、それは例えば、中途半端に煮られてぬめぬめと柔らかくなった玉ねぎだったりしました。
 そもそもが、給食というものは、何だか汚らしいブリキのバケツに大量に入っていて、エサみたいだなという感じがします。どんなメニューにも、例えば炊き込みご飯にも、無理やり牛乳があてがわれていて、デリカシーないことこの上ない、という気がしていました。
 その日の献立も、私が苦手な「やきそば」でした。
 焼きそば自体は好きです。母親が作る、鉄板焼きの最後に出てくるそれは、いい感じに香ばしく焦げついて、好物と言ってもいいくらいでした。
 だけど給食で出される「やきそば」は、それとは似ても似つきません。香ばしさのかけらもなく、ヌチャッと湿っていて、しかも悪いことに、大量の玉ねぎが入っているのです。
 私はそれを、給食の時間が終わるまでに全部食べきることができませんでした。
 給食のあとは、お昼の掃除の時間です。机をぜんぶ教室の後ろへ下げてしまい、みんなでホウキやチリトリや雑巾を出して、教室中を掃き回ったり、拭いて回ったりします。
 そんな中で、私の机だけがぽつんと、部屋の真ん中に取り残されているのでした。
 生臭い「やきそば」の入ったプラスチック椀を目の前にしながら、私はもう一口も食べ進めることができませんでした。
 涙が滲んで、気持ち悪くなってきました。どうしてこんなにまずいものを、無理やり食べなくてはならないのでしょう。それもやっぱり、みんなと同じになるための「教育」というものなのでしょうか。
 ふと、自分の肩に大きな手のひらが載せられるのを感じました。
 振り向くと、山ン本先生のごま塩ひげの顔が、すぐ間近まで迫っていました。丸い両目が、眼鏡の向こうでぎらぎら光っていました。
「はるちゃん」
 先生の息は、少しタバコの臭いがしました。
「給食はやっぱり、残さず食べないといけないよね」
 私は、涙目でうなずくしかありませんでした。
「今のうちに、好き嫌いをなくしておかないといけないもんね。さもないと、ちゃんとした大人になれないもんね」
 私は、もう死んでしまいたいような気持ちになっていました。ちゃんとした大人になれないということも、ならないといけないということも、同じくらい絶望的だと思いました。
「もうすぐ五時間目が始まってしまう」
 山ン本先生は、壁の高いところに掛かった時計を見上げ、それから自分の手首に巻いた腕時計と見比べて、ようやく結論が出た、みたいなまじめ腐った表情で、こちらへうなずき下ろしてきました。
「はるちゃん。先生が出ていったらしばらくして、みんなにわからないように、そうっとお椀を持って教室の外に出なさい。そしてA棟の四階の一番端の部屋まで、それを持ってきなさい」
 私がぼうっとしていると、先生はちょっときつい目つきになりました。今までのおどけていた先生らしくない、大人の男の人の顔でした。
「いいね。お返事は?」
「ハイッ」
「よろしい。急ぐんだよ、なんせ君には、もうほとんど時間がなくなっているんだから」

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