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日本語の一人称代名詞にはどこか幼稚さが付きまとう、

二月十八日

やっぱり覗きの欲望の核にあるものは性ではない、とこの時強く確信した。エッチなものは方法に過ぎない。一番やりたいことは、嫉妬や悪意、あるいはそれらと背中合わせの自虐や自嘲、自分のことはうまく分析できないけれど、とにかく何かそういうメンタルなものなのだ。さらにこんなことまで言うと人から決定的に軽蔑されそうだけれど、トイレ覗きはとても文化的だと思う。覗きをやったあとの独特の充実感を人に説明するなら、それはオナニー(やたぶんセックス)をやったあとのものとはぜんぜん違う、とまず言うだろう。肉体的な充実感はまったくないのだ。それはむしろ、すばらしい本を一冊読み終えた時の、脳味噌から流れ出る痺れるような快感に近い。

会田誠『青春と変態』(筑摩書房)

午前十一時二〇分。コーヒー、ご飯、賞味期限切れの納豆。たまに過去の「日記」を読み返してみると、「俺」や「私」の多さに辟易する。アイドルでもないお前が何を食ったとかどこでどんな本を買ったとかなんてどうでもいいんだよ、頼まれてもないのに自分語りばかりしやがって、とまじで思う。自分でもそう思うんだからたまたま読んだ他人なら余計にそう思うに違いねえ。もう言い古されたことだろうけど、ウェブログの類ははじめから「うぬぼれ増幅装置」でしかなく、ネットで私生活をさらしたり自論を展開したがる連中なんてのは大なり小なり承認に飢えた一種の露出症者なのである。『ウェブはバカと暇人のもの』という本が十五年くらい前に売れたが、当時、タイトルを見ただけで、「ああ、ぜんぶ俺のことだ」と赤面したのを覚えている。だからといって「生き方」を変えようなんて微塵も思わなかったけど。むしろ、世の中にこれほど膨大な数のバカがいるのであれば自分程度のバカはほとんど問題にならない、大バカとして目立つようになるには並大抵の努力では足りないだろう、と思った。開き直りはバカの特権。世の中には一定数どうしようもない無能力者が必要なんだよ。ゆるせ。

アラスデア・マッキンタイア『美徳なき時代』(篠崎榮・訳 みすず書房)を読む。
とちゅう昼夜逆転したり、他のものも読んだりしながらだったから、けっきょく通読に三か月くらいかかった。正確を期した為か、訳文はやや生硬で、けっして読みやすいものではなかった。なのに知的興奮はハンパなかった。みすず書房から出ている翻訳書の質の高さについてはいまさら多言を要しないだろう。
マッキンタイアといえば、コミュニタリアニズム(共同体主義?)の代表的論者として、マイケル・サンデルやチャールズ・テーラーなんかと一緒に紹介されることが多い。コミュニタリアニズムは、一九八〇年以降のアメリカにおいて、リベラリズムとともに、ひとつの大きな思想潮流を成した。それらの考えに共通するのは、「なんだかんだいって共同体なくして主体ってありえないよね」という認識。どこでも普遍的に通用する「正義」などは存在しないんだよ、「善悪」などの尺度も自分が生まれ育ったかいま属している共同体のなかでこそ身に付けうるものなんだ、だからそうした共同体の役割をもっと重視していこうぜ、とだいたいこんなことを主張している。
情緒主義や啓蒙思想など、近現代に影響力を持った思想を斬っていくマッキンタイアの手並みは鮮やか。ただどうもしっくりこない部分もある。大著だけにどの部分がしっくりこないかを述べようとするのにもかなりの困難を感じる。いまさらながら不勉強が身に染みる。とりあえず、アリストテレス『二コマコス倫理学』、ニーチェ『善悪の彼岸』、ロールズ『正義論』、ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』くらいは精読しておかないと話にならないなとは思った。こんな便所紙にもならない日記を書いてる暇があればもっと本を読めよ。いやほんと。

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