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図書館に行かない日は罪悪感を覚える、「どこにでもいる普通の人はどこにいるのか問題」のミルフィーユ的構造、革命的オナニスト宣言、すべての暴力装置を抱きしめながら、

八月三一日

女がひとりで小料理屋に入り、カウンターに坐ってお銚子を頼むのは、ひとりで外国旅行に出掛けるぐらいの度胸がいる。
そう言ったら、男がひとりでお汁粉屋に入り、満員の女客の中の黒一点としてあんみつを注文する時の度胸と同じだよと反論されてしまった。

向田邦子『無名仮名人名簿』孔雀(文藝春秋)[原文傍点→太字]

午後十二時三五分。うずら、紅茶。午前九時半ごろに眼が覚めたのだけど、「まだ早すぎる、いま起きても一日は長すぎる」と寝たふりをしたり、六代目三遊亭圓生「三井の大黒」を聴いたりしているうちに眠たくなって、けっきょく離床するのが正午過ぎになった。昨夜も酒を飲んだ。缶ビール二本と下町のナポレオン。「酒は休館日の前日だけルール」の実施は九月からね。だから今日も飲んでいい。明日も飲んでもいい。俺はちゃんとやっている。紳士としてもキチンとしている。放送のおかげで図書館へのやや高めの心理的ハードルが出来てしまった。「いつもいるあの無職っぽい人」として図書館関係者などに再認識されてしまっただろう。とうぶんは読む場所を変えた方が良さそうだ。きょうは散髪して安ワインを買って、できれば石引温泉の微温湯に三時間ほど浸かりたいのだけど、天気がそうさせてくれるか。台風接近とか騒いでたけどいまはどうなってんだ。能登は地震だけでもう瀕死寸前なんだから空気読んで北陸は回避しろよなクソ台風。ユーチューブで新しいチャンネルを開設したくなってきたんだ。いぜん炒め物系のショート動画をよく投稿したりして「承認欲求」を満たしてきたけど、こんどは本についてあれこれ語るだけの動画を投稿したい。パッとしなさ過ぎる三六歳男の陰湿なだらだらトークなんかどこに需要があるんだよ。この日記のユーチューブ版を作ったって詮無いだけ。誰をも幸福にしない。そもそも俺の辞書には幸福なんて言葉はない。俺はすべての人間に「正しい」自殺願望を芽生えさせたいんだ。そのためだけに生きているといっても過言ではない。生きるのが楽しそうな連中が俺は大嫌いだ。そういうやつは概して何も考えないから。気が付けば発生しているこの「意識」の不条理性と悲劇性についての省察があまりにも欠けているから。いつだって幸福は鈍感族の占有物だ。俺はいずれ思想界の魔王になってこの世界の鈍感族すべてに悲鳴を上げさせたいのだ。一人残らず「反出生主義者」にしてやる。安閑としていられるのも今のうちだぞ貴様ら。

デヴィッド・グレーバー『デモクラシー・プロジェクト』(木下ちがや・他訳 航思社)を読む。
学生のころから革命を起こすことばかり考えていた。革命を起こす気のないやつはみんな家畜だとよく罵っていた。でも俺はビラを撒いたりデモに参加したことさえない。そういう古典的行動を俺は極めてシニカルに捉えていたと思う。しょせん俺は机上の人間だった。これこそ現代の熱くもなく冷たくもない畜群に通有の性癖といえる。凡人はいつも「何かをしない理由」を見出すことにだけは長けているのだ。大部分の人間が賃金労働だけで疲労して死ぬことだけを楽しみに生きている「この現実」を俺はどうしても肯定できない。「この現実」を肯定できるのは債務奴隷であることに快楽を感じられるような痴呆的マゾ人間だけだ。「非合法的活動」や「暴力」なしに革命を起こせないか、と不精で群れるのが嫌いな俺はこのごろ頻りに考えている。たとえば「何かをしないこと」で世界の様相を一変させることは出来ないか。革命とは何よりもまず「人間の思考様式」をかき乱し変質させることなのだ。「学生が就職活動するのは当たり前だ」とか「借金は絶対に返さなければならない」とか「人間は労働するのが当たり前だ」とか「政府は治安維持のためにも必要不可欠だ」とかいうふうな残酷な思い込みをまずは相対化させなければならない。

債務の倫理性、労働の倫理性は、現代システムを管理している者たちが手にしている最も強力なイデオロギー的武器である。だからこそかれらは、あらゆるものを破壊しているにもかかわらず、この倫理性にしがみつくのだ。そしてそれは完全な革命的な要求をつくりあげもするのである。

第Ⅴ章 呪文を解く

すなわち、政府というものは真に民主主義的な組織ではないし、そうはなりえないということである。政府には独自のトップダウン型の論理があり、それらは国際資本の要求や業界団体の圧力、あるいは警察権力に支えられた官僚たちの本性をも含みこむものなのだ。それゆえ選挙で選ばれた公職にある者は、少なくとも一定の条件が揃えばほとんど不可避的に、巨大な圧力の下で有権者の望みとは正反対のことをするようになってしまう。

第Ⅳ章 変革の方法

民主主義は古代ギリシアで発明されたわけではない。「民主主義」という言葉が古代ギリシアで発明されたことを認めるにしても――民主主義に大して愛着を抱かなかった人々によってだが――民主主義そのものは決して「発明」されたものではなかった。またそれは、いかなる特定の知的伝統から生じたものでもなければ、特定の統治様式ですらない。本質的に民主主義とは、人間は根本的に平等であり、集団的な問題は、最も効果的と思われる手段を状況に応じて使い分けつつ平等なやり方で対処すべきだという信念にほかならない。

第Ⅲ章  民主主義の知られざる歴史

「いまやるべきこと」は自分の周囲を攪乱することだ。革命意志を持った個々人が半径五メートル以内の世界を攪乱するなら、それはそのまま世界の攪乱となる。「どこにでもいる普通の人」になって保身をはかろうとするな。そんな空しいモデルは今すぐかなぐり捨てろ。これはぜんぶ自分に言ってんだ。他のボンクラどもに言ってるんじゃない。もう飯にするよ。あいかわらず雲地が硬い。オリゴ糖入りの青汁を飲まないと。ピンク・フロイドが聞きたい。新しい朝が来た希望の朝だ。ラジオ体操第二は俺のBGM。セナ様のストーンフェイスは永久に不滅であります。男どもよ、絶望で染め上げた長髪を北風になびかせろ。南無三。スピノザ主義的アイノウタ。

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