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蜜柑追悼もしくはペニシリンの話あるいは「世の中はお前が思うほど甘くない」と説諭する人なぜこうも「偉そう」で「活き活き」として見えるのか

二月十九日

十二時起床。どういうわけか少々イラつきがある。今週は雨でロング・ウォーキングできない日が続いている。自室に籠り切っている日が多い。今日もまたしつこそうな雨が降っている。いい加減にしてほしいよ。

きのうは正午ごろ、母親がコメなどを持ってきた。昼食は第七ギョーザの店に行くことになった。近所といえば近所なのだけど、小立野に越してから一度も行ったことがなかった。だいたいこの店はいつも馬鹿みたいに混雑している。日によってはディズニーランドのアトラクション並みに行列している。飲食店で行列するなど下民にこそふさわしいとかねがね言い放っている私だが、こんかいのところは折れることにし、近くのスーパーで買い物しながら、一時間ほど待った。当の「ホワイト餃子」については、待つほどのものではないと思ったが、忙しそうな厨房は見ていて面白かった。アジア系の外国人らしいスタッフがおろおろしていたけど、留学生かしら。

あと二日で図書館通いがまた始まる。やはり私の精神安定にはライブラリーが欠かせないようだ。図書館読書(外読み)四時間と部屋読書(内読み)四時間くらいの配分で、ようやく生活に弾みがつく。翻訳や原稿書きもそればかり長くやっていると気が滅入ってくる。隣の爺さんを発生源とするヤニ臭が気になって殺意が芽生えてきたりする。

不覚にもみかんを一個腐らせてしまった。箱詰めならともかく、透明の袋入りのみかんをむざむざ腐らせるなんて、我ながらどうかしている。食べ物を粗末にできない私にとってこれは大罪だ。だから哀悼の意も込めて些かなりともその原因究明に努めたい所存である。これを以て罪を贖うつもりなど毛頭ありません。みかんは袋に七個ほど入っていて、圧がかかっているほうが青く柔らかくなっていた。つまり教訓として、見えないところも油断せずまめに確認したほうがいいということ。というか早く食えと言うこと。
みかんのこのカビ症状のことを、農林業界では「カンキツアオカビ病」と呼ぶ。病原はアオカビで、ぺ二シリウム・イタリカム(Penicillium italicum)という。Penicilliumは不完全菌アオカビ属の菌類の総称だ。penicil-とは箒(ほうき)の意で、これはその分生子(無性胞子の一種)の形態が箒に似ていることに因んでいる。一九二八年にアレクサンダー・フレミング博士(一八八一~一九五五)が実験中たまたま「発見」しペニシリンと命名した抗生物質も、アオカビの一種(Penicillium notatum)に由来するものだ。その経緯は「科学における思いがけない発見(serendipity)」の例としてすでに人口に膾炙しまくっているので省いてもいいだろう。ブドウ球菌を培養した寒天培地のうえに偶然アオカビが混入してしまって、よく見ると、アオカビの生えている周囲ではブドウ球菌の発育が阻害されていたという、あの話だ。ただこのペニシリンが臨床的に有効なことが確認され(「ペニシリンの再発見」)、治療薬として大量生産されるまでには、十年余りの歳月がかかった(詳細についてはモートン・マイヤーズ『セレンディピティと近代医学』(中央公論新社)の「ペニシリン秘話」を参照されたい)。
アマチュア科学史家としてはこのまま縷々延々続けてもいいのだけど、腐ったみかんの追悼研究がまだ終わっていないから、「カンキツアオカビ病」に戻りましょう。
この病気ではまず果皮の一部が軟化腐敗し、白いカビが生じる。その白いカビから形成された分生子こそ、あの青く粉状に見えるものの正体なのだ。みかんに含まれるプロリンという物質がカビの成長を促進させているという。プロリンは主としてタンパク質中に広くみられる非必須アミノ酸(体内で合成されるので外から取り込まなくてもいいアミノ酸)で、とくにゼラチンに多く含まれている。ところでこのアオカビはどこでみかんに付着したのものなのだろうか。土壌か、空気中か、それとも俺の部屋にもその菌類は浮遊しているのか。また、輸送中の圧力によって果皮が傷つけられてしまい、そこから滲み出る水分を利用してカビ胞子が増殖するという、そんな記事が多くあるが、みかんよ、そもそもお前の皮はなぜそんなに軟(やわ)なんだ。クリのイガのごとくもっと硬く鋭く武装できないのか(ちなみにクリの「鬼皮」は他の果実でいうところの果肉に相当する部分)。侵入して来るアオカビを迎え撃つ、何か抗生物質的なものでも果実内に蓄えられないのか。そんなに傷つきやすくて種子を守れるのか。よしんば種子は無傷でも屈辱を感じないのか。人間に管理される栽培品種にとってそんなことは最早どうでもいいことなのか。人間どもに剥きやすく品種改良されるなかで失ってしまった野性的な防衛本能をどうか取り戻してくれ。もうめちゃくちゃマズくなっても構わない。なんなら毒を内に含ませてもいい。他生物をおのれに都合よく「改良」しまくっている人間どもを殺してしまえ。過密飼育されている家畜どもも蜂起しろ。人間文明を転覆させろ。

永野健二『バブル(日本迷走の原点)』(新潮社)を読む。日経平均株価の史上最高値(終値)は一九八九年十二月二九日(大納会)の三万八千九百十五円。これだけ覚えておけばよろしい。かつて日本興業銀行というものが産業界でやたら幅を利かせていたこととか、「土地神話」や「土地本位制」が八十年代後半のバブル現象の前提をなしていたこととか、書きたいことや疑問を感じたことは数多くあるが、みかんの追悼研究で体力を消耗してしまった。ごめんな。
『選択』二月号も読む。今週もまた一読巻措く能わざる内容だった。今年二月、中国当局がベトナムと国境を接する雲南省で人身売買組織を摘発したが、これは氷山の一角に過ぎないと言う。ベトナム人などが女性が誘拐され「花嫁」として売買されるということは何も最近になってはじまったことではないだろう。中国では一九七九年以来の「一人っ子政策」により男女比に偏りが生じているため、嫁を迎えられない成人男性が数千万単位でいる。インドでも結婚適齢期の女性不足が深刻らしい。いまさらだけど婚姻ってのは気持ち悪いものだな。
連載「日本のサンクチュアリ」では、「世界」に比べ、日本における「安楽死(euthanasia)」論議がいかに遅れているかを取り上げたものだった。筆者も言う通り、これは死生観の違いというより、社会の成熟度の問題だ。日本では消極的安楽死と積極的安楽死をごっちゃにしているような議論をいまだに多く見かける。安楽死と聞けば条件反射の様にナチスやホロコーストを連想する人は少なくないし、「人命の尊さ」一本槍で自論を守り通す人も少なくない。鹿爪らしい顔(あるいは考えているフリ)をしながら馬鹿の一つ覚えのように「滑りやすい坂道論(slippery slope argument)」を繰り返す人も絶えない。
概して「日本人」はそうした「自発的な死」にまつわる議論を直感レベルで拒否するきらいがある。十万人当たりの自殺者数が主要先進七か国のなかで最も高いにもかかわらず、多くの人は他人の自殺から目をそらそうとしている。思うにそうした集団的無関心から醸し出されるパサパサに乾いた「空気」こそ、「生きづらさ」と呼ばれているものの正体なのだ。死ぬことを公の場所で話したがらない人が多いらしいことは、私も日々感じる。ただこれついてはなにも「日本人」に限ったことではないのかも知れない。「死のタブー視」は程度の差こそあれ、人類わけても現代文明人に「普遍的」な心理傾向なのだと言えなくもない。ねんじゅう死ぬことに「不安交じりの憧れ」を抱いている私は、「いったいどんな天気の日にどんな死に方をするのだろうね」なんて話をついどこでもやってしまうが、そんなとき、大体いつも相手は微妙に身を強張らせ、口ごもってしまう。自分もいずれ死ぬのだと一度も考えたことがないかのように。「死」や「生きることの耐えがたさ」についておおっぴらに話せるようになるには、それなりの<知的勇気>が必要らしい。それは<日常からの断絶>をあえて自分から求めることでもある。「人々」はたいてい日常のノイズのなかに居心地よく暮らしている。だから、その居心地よさから自分を引き離しかねない思念の侵入を拒む。そうしてつねに愚鈍であり続ける自己欺瞞こそ、最大の心的防衛策なのである。

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