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「努力」とはつねに魔王的・反逆的なものであり、だから「あたたかい拍手」などふつうは得られない

五月十五日

憂鬱な心を胸に抱いたまま車に揺られるうち、自分はいつしか浅い眠りに落ちていたらしい。ふと気が付くと、自分の乗っている車が、細い道路の傍らへぎりぎりに寄って止っている。前方から来たトラックと、なんとかこの道路の幅員の中で擦れ違おうとしているらしい。やがてこちらの車が
「プ」
と警笛を鳴らす。その声に引き寄せられるが如く、トラックはするすると動き出し、こちらの真横まで来るとピタリと止って
「プ」と云った。こちらも
「プ」と云って動き出し、トラックの向こうへ鼻だけ出して、また
「プ」と云う。これでトラックの道は開けたのだろう、トラックは
「プ。プ」と云い捨てて走り去って行く。こちらもまた
「プ、プ」と答えて動き出した。
「ウーム、なるほど。これだ!」
自分は思った。
「要するにプなんだよ、プ」
自分が心の中で激しく首肯いた。
「プでいいんだよ、プで。プという一と言で全部用が足りるんだよ。これが本当のコミュニケイションなんだよ」
感心して呻り続けるうち、瞬く間に会社に到着した。

伊丹十三『日本世間噺大系』「プ」(新潮社)

午後八時半起床。Walter Wilhelm GiesekingによるDebussy前奏曲集を聴きながらパソコン開く。このあと長い時間起きていられるかしら。いくら紅茶珈琲ガブ飲みしても限度があるさかいな。眠気だけはどうにもならへんのや。図書館は金曜日からでいいですかね。図書館疲労もだいたい取れて来た。明日は好天気そうだから五千円ほど預金下ろして文圃閣にでも行きたい。熊野純彦の訳による『精神現象学』上下二巻は来月中旬ごろに買う。ジジェクを通してヘーゲル読解の必要性を痛感したからだ。By the way,むかし大毎オリオンズにフランク・エドワード・マンコビッチ(Frank Edward Mankovitch)という投手がいたが、登録名はマニーだった。日本では一勝もしていない。今年のセ・リーグの優勝チームを予想しろ?どう考えても中日だろう。監督は一流だし、投打が噛み合い過ぎる。
長倉洋海『私のフォト・ジャーナリズム(戦争から人間へ)』(平凡社)を読む。著者は『マスード(愛しの大地アフガン)』(第十二回土門拳賞受賞)でよく知られたフォト・ジャーナリスト。戦場写真とかそういうものにあまり関心が無い私はさいしょ眉に唾つけながら読みはじめたが、「撮影者の業の深さ」に著者があるていど自覚的だと知るや、見方も変わった。「死体を撮るために、いいポジションの奪い合いをするカメラマンたちの姿に、うんざりすることもあった」(第二部)という語りはおよそ<専業人>(プロ)にはふさわしくないだろう。<情熱人>には猶の事ふさわしくない。専業人や熱狂家というのはとにかく憚らない生き物なのだから。目的達成のためには手段を択ばないのだから。そのことは小型ヨットによる太平洋単独無寄港横断を達成した堀江謙一の『太平洋ひとりぼっち』を読めばすぐにわかる。僕はこの本をさいしょに読んだときなによりもまず<狂気>を感じた。「剥き出しの我が儘精神」といってもいい。世の常として、「目標達成」の過程にはたいてい躊躇もしくは自己正当化のツベコベが付きものだ。なにかと巧妙に理由をつけて「現実」と妥協したがる。「現実という巨大な壁に阻まれて夢を諦めた私」という物語に安住したほうが自尊心が守れて楽なのだ。だが堀江謙一は徹底したエゴイストだった。爽快すぎるほどに。さいしょから「現実」と折り合いをつけるつもりなど無かった。「やりたいからやりたいんだ文句あっか」と驀進し周囲の人間にも何一つ気兼ねしなかった。「俺は画家になる」ととつぜん妻子を捨ててパリに出奔したストリックランドにも感じたことだが、「大望を抱いた人間」にはつねに悪魔的・外道的なことろがある。隴を得ても蜀を得ても立ち止まらない狂熱性がある。所帯を持った人間たちに特有の狭小さ・不潔さにうんざりしたとき僕は、『太平洋ひとりぼっち』か『月と六ペンス』を読むことにしている。口にはちょくせつ出さずとも「他人の迷惑なんか知ったことか」という非情さなしに事は成し得ない。いったい小人(甘ったれ)に限って「努力は報われる」と信じがちだし、頑張っていると誰かが応援してくれるはずだと信じがちだ。ああ、「大望」というものが何かしら「非社会的・反慣習的」なものを含んでいることを忘れているんじゃないのか。「周囲の人々」がその「努力」を「あたたかく支持」するのは、「周囲の人々」の安寧な生活や常識をおびやかさない限りにおいてなのだ。

サン・サルバドルの下町では、酔いつぶれて喧嘩する人々やゴミが散乱する風景を撮っていると、必ず、「なぜ撮るのか」と非難するような視線を向けてくる若者がいる。鋭く問いかける視線に、私はうろたえてしまう。「世界に惨状を伝えるために撮っている」と言えたら、どんなに楽だろう。だが、私は「自分の写真を撮る」ために、ここに来た。しかも、自分の写真がどんなものなのか、まだわかっていないのだ。

「第二部 戦争から人間へ」

俺はいまコバンザメの肛門よりザクロアイスのほうが好きだ。だからこのあと一眠りしよう。かかろっとたりばん。さかなの眼。芽。イン・the・母栖。

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