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ナツメヤシ、聖樹、毛沢東、下放、文化大革命、紅衛兵、ビートルズ

二月十四日

おはよう。本日は、というか本日も正午起床。おたふくソースの原料でもあるデーツ(ナツメヤシの実)をつまみながら本稿に着手しております。
優良な辞書サイト「コトバンク」で読める平凡社『世界大百科事典』(第二版)によると(ウィキペディアは記述が不正確になりがちの上にしばしば「寄付のお願い」が脅迫めいているので、全盛期のバリー・ボンズに対するが如く極力敬遠することにしている)、ナツメヤシとは乾燥熱帯域で栽培されるヤシ科高木で、根を深く張り乾燥や暑熱や砂塵に強く、だからこの種による林帯造成は砂塵を防ぐ上でなかなか有効らしい。日本みたいなやたら湿潤な島国では砂塵の規模などたかが知れているが、スタインベックが『怒りの葡萄』(一九三九年)で悲劇的に描写しているとおり、これを経験した人にとってその恐怖と被害は尋常なものではないのだろう(一九三〇年代のアメリカ中西部の大平原で多く発生した〈Dust Bowl〉については土壌環境を度外視した未熟な農法にもその主因があるのだけど)。
ところで樹木というものは押し並べて人間より大きく長生きでしかも実を結ぶものが多いためか、古代から人々の崇拝対象になりやすかった(宗教学では「世界樹」と呼ばれる)。なかでもナツメヤシは乾燥地帯にあっても枯れることがなく、それゆえ「生命の象徴」としてメソポタミアやエジプトを中心に崇められることが多かった。古代オリエントでは一本のナツメヤシとその両側にレイヨウなどの動物が描かれている図像が多くみられる(前田龍彦「ナツメヤシの図像と意味」『金沢大学考古学紀要』)。カル・ツクルティ・二ヌルタの壁画(前一三世紀)にそうしたものがあるみたいで、画像検索などしてみたのだけど、専門文献に直接当たらないと見られないようだ。残念。
唐亜明『ビートルズを知らなかった紅衛兵(中国革命のなかの一家の記録)』(岩波書店)を読む。著者は中華人民共和国の建国から四年目の一九五三生まれで、中国音楽家協会に勤務し日本の歌の訳詞に従事したり、来日して早稲田大学を卒業したりしている。調べてみると七〇歳の現在も元気にしているようだ。これは翻訳でない。著者にとっては外国語である日本語でほぼ自力で書かれたものらしい。彼は若いころ、下放地である中ソ国境地帯でべらぼうな重労働を経験した。以下の記述からもいかに寒いところだったかが分かる。

その頃、私は毎晩歩哨に立った。冬は風が骨にしみるほど寒く、氷と雪の世界の中で、冷たい歩兵銃をかかえて、大砲の回りに立ったまま動くこともできない。干したとうもろこしの皮を何枚も足の下に敷くが、寒さがひどい時は何の役にも立たない。足と地面との温度差が大きすぎて、靴はすぐべちゃべちゃにしみてくる。そのうちに、氷の塊になってしまう。

下放とは教育の名をかりた「左遷的強制移住労働」のことで、おおむね党内の権力闘争の所産と考えてもいい。一九五七年からの整風運動(主に反右派闘争)から本格的に始められ、文化大革命期(一九六六~一九七六)にはやたらと実行された。基本的には党や政府機関の上級幹部などが対象で、遠い農村に赴かされ過酷な農業労働に従事させられた。その妻子もとうぜん巻き込まれる。ちなみにこのごろ自己神格化に余念のない習近平もかつて、父が批判されたことが原因で〈反動学生〉として下放され、一九六九年からの七年間陝西(せんせい)省の寒村で辛酸を嘗め尽くした。
例に漏れず、中国の近現代史上にも不思議な社会現象(スズメ打倒運動など)が数多く見られるが、そのなかでも文化大革命はその規模や不条理さにおいて際立っている。はたしてこれを毛沢東個人の思惑によって引きおこされた大衆動員型権力闘争と「総括」していいのだろうか(たとえば中島嶺雄は文化大革命を「毛沢東政治の極限形態として党内闘争の大衆運動化」として捉え、そこに政治的・イデオロギー的・社会的側面があるとしながら論を展開する)。この「革命運動」を推進役となった青少年集団「紅衛兵」は、「何によって」駆動されていたのか。赤い教典『毛沢東語録』を片手に「造反有理、破旧立新」を声高に叫んでいた彼彼女らは、「何を」志していたのか。「反革命分子」として彼彼女らに恐るべき暴力と辱めを受けた人々は、いま何を思っているのだろう。問いが矢継ぎ早に出て来る。歴史的も政治的にも群集心理学的にも討究に値することだろう。
忘れてはならぬのは、これとほぼ同時代、アメリカではベトナム反戦運動や公民権運動などの反体制運動あるいはそこから派生したヒッピー・ムーヴメントがすこぶる盛んで、フランスではパリの学生反乱に端を発した全国的大衆運動(五月革命)が高らかに燃えていて、それより規模が小さいとはいえ日本でも東大日大を中心に学生闘争がやかましかったことだ。つまり中国の若者だけでなく、世界中の若者が暴れ回っていたのだ。そのころの熱気に満ちた空気を懐かしがる「全共闘世代」の老人たちが下の世代にむかって「なぜ政府に怒らないのか」と説教したがるのも、無理はないと言える。
あと、この本の出版年が一九九〇年であることは念頭に置いて然るべきだろう。そのほうが興味深く読める。ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が「崩壊」する一年前だからだ。本の最後のほうで、一九八五年十二月二七日から一九八六年一月七日にかけてソ連を旅行した思い出が綴られているが、その筆致からは、「ソ連そろそろやばいよ」という予感を微塵も感じ取ることが出来ない。「歴史」とは概してそんなものである。事が大きく変転したうえで、ようやく遡及的に「そういえばあのころ」とその「原因」を析出できるようになる。ペレストロイカはまだ始まっていなかった、という記述があるけど、これは歴史学的には「精確」なのだろうか。細かいことが気になる私はどうしてもこんなところでいちいち躓いてしまう。ゴルバチョフが書記長に就任したのが一九八五年三月だから、まだ本格的な「建て直し」政策には取り組んでいなかったということか。いずれにせよソ連史における八十年代を詳しく研究しないといけない。
それにしても素朴に思う。大躍進政策といい文化大革命といい、彼こそが中国を大混乱に陥れた張本人であるにもかかわらず、だいたいいつも毛沢東だけは「直接的な批判」を免れている。この「神格化」は何なのだろう。権威主義的パーソナリティによる〈心理的一体化〉と見るのが妥当なのだろうか。『ビートルズを知らなかった紅衛兵』の著者もこの本のなかでは「毛主席」を斬っていない。「失策」をあげつらうことを控えている。せいぜい不満をこぼすだけだ。そこに「言論の不自由」があることは私も承知しているが、それでも毛沢東の「偶像性」は特別に強すぎる気がする。これはちょうど、日本人の幾割かの人々が「天皇の戦争責任」を認めたがらないのと同じ心理に根差しているのだろうか。
とうぜんながら、本にはビートルズの話などほとんど出て来ない。最後に申し訳程度の言及があるだけだ。それもそはずで、そもそも「知らなかった」のだから。この表題はとかく〈インパクト〉を求めたがる編集者のアイディアと思われる。「天安門事件の闘志」だった著者による『カネとスパイとジャッキー・チェン』という本を去年読んだが、ここでもジャッキー・チェンの話はちょこっと僅かに触れられているだけだった。だからアマゾンのカスタマーレビューでは「タイトルにジャッキー・チェンを使うな」とやたらお冠になっている人がいる。素直と言うか無垢と言うか、私にもそんな時代があったととりあえず〈マウンティング〉しておきます。題名にくらい「売らんかな根性」が反映されていてもいいじゃないか。
最後に、これまで読んだ中国関連の本のなかで私がひじょうな面白さを感じたものを二冊挙げておこう。李志綏『毛沢東の私生活』(新庄哲夫・訳 文藝春秋)、ピーター・ヘスラー『疾走中国(変わりゆく都市と農村)』(栗原泉・訳 白水社)。

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