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そもそも人はシラフでは生きられない、拷問部屋のミッフィー、乱骨、認識と暗渠、白刃さなきだに、

三月四日

量の多すぎる酒、少なすぎる酒。人に酒を少しも飲まさずにおくとしよう。人は真理を見出すことができないであろう。多すぎるくらい飲ましてみよう。同じことだ。

パスカル『パンセ』(田辺保・訳 角川書店)

午前十二時二分。紅茶、亀田おかき。休館日。頭が重い。hangover。「当分のあいだ酒を飲まない」と決意したばかりなのに昨夜またトップバリュウイスキーを買って飲んでしまった。これが「スリップ」というやつか? 酒飲みの禁酒宣言と喫煙者の禁煙宣言くらい当てにならないものはない。「禁煙ほど簡単なものはない、もう何百となく成功している」というジョークはたしかマーク・トゥウェイン。私の場合、あきらかに何かから逃走するために飲んでいる。隣の爺さんが暗示している「暗黒の未来」。「老いることの醜悪さ」。「死に損なってはいけないという焦慮」。私はずいぶんまえから生きていることを恥じている。もうれつに恥じている。アメジストとかではなく生き物であることを恥じている。二足歩行の「裸のサル」であることを恥じている。恥ずかしいから酒を飲むのだ。そしてそんな理由で酒を飲んでいることも恥ずかしい。その恥ずかしさを忘れるためにも飲むのだ。って『星の王子様』の酔っ払いじゃん。この「引用癖」だけはどうにもならない。いずれにせよここは「地獄」である。どうせ人はシラフで生きることは出来ない。倦怠と不安の浸食を免れるために人はみずからグロテスクな生き物になる。俺はたまたま酒と相性がいい。もう断つなんて言わないよぜったい。世の中のひとびとを見てみなさい。「依存症患者」がいかに多いことか。ニコチン依存者とアルコール依存者は言うに及ばず、ギャンブル依存者、スマホ依存者、買い物依存者、強迫行為依存者、空間移動依存者、セックス依存者、オナニー依存者、対人関係依存者、子供依存者と、このリストはどこまでも続けることが出来る。この最後の依存者はいちばん厄介で傍迷惑な依存者かもしれない。私は自分の存在の空しさを別個体の生産によって埋めようなんていう残酷なエゴイズムを発動させることは出来ないが、世の中にはそうしたエゴイズムをわりと平気で発動させる人たちがいる。「人殺し」ならぬ「人生かし」。前者は刑務所に放り込まれるが、後者はむしろ褒められる。これは変ではないか、という疑問が十代後半のころからあったが(俺はなんて早熟なんだ!)、周囲のほとんどのボンクラどもはこの疑問を一笑に付した。そもそも周囲のボンクラどもは「存在者が存在している」ということに驚く感性さえ持っていなかった。つまりなにが言いたいかというと、私にとってほとんどの人間は「路傍の人」に過ぎないということであり、私が本と思索の世界に逃避したのはほとんど必然だったのである。
「まともなペシミスト」がもっと増えればこの地上も少しはマシになるかもしれない、と単純な私はときどき考える。むかし中華人民共和国ではみんな毛沢東語録というのを携帯していたようだけど、あんなものよりもシオラン語録を携帯していたほうがよかった。階級闘争よりも絶望の方が美しいし必要だ。歴史上、一つくらい自らの意志で消滅する国があってもいいじゃないか。日本はそんな国になればいい(日本は「ユニークであること」が大好きみたいだから)。「子作り」を憲法で禁じ、「非武装中立」という「ありえない理念」をかかげながら超急激な人口減で消滅することを選んだ日本であれば、俺は愛することが出来る。それこそ「美しい日本」ではないか。俺は「消えたもの」や「消えゆくもの」にしか愛情を抱くことが出来ない。生き続けようとしていることに後ろめたさを感じない者はすべて愚劣である。愚劣なものを愚劣と言える「良識」だけはどんなに落ちぶれても持っていたい。
私にはたぶん占いの才能がある、とさくや酒を買いに行った帰りに思いました。誰の顔をみても「この人は不幸な死に方をする」と直観できるから。冗談ではなくて本当に。俺には他人の「現在の呻き声」と「未来の呻き声」が聞こえるんだ。子供の泣き声を耳にすると居たたまれなくなって動悸が止まらなくなるのも、そのなかに「阿鼻叫喚」を確実に聞き取っているからである。どんな泣き声も「健全」なものではない。微笑みの対象にしてはいけない。

さてチャーハン食って、ニート論の原稿を書くか。今の俺は「使命感」に燃えている。グアテマラにナウマンゾウはたぶんいない。いないといったらいない。いないんだ。いないんだってば。信じてくれ。

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