隣の爺さんが金を返しに来ない、俺はたぶん「性格」がよくない、
十一月四日
午後十二時五分起床。ミックスナッツ、紅茶。金正恩氏とスマブラしてる夢を見る。このごろ深夜はユーチューブにアップされているSPレコード音源を聞きながら「つまみ読み」ばかりしている。スクラッチノイズがかえって良い。やはりお気に入りはメンゲルベルクのチャイコフスキー六番(チャイ六)。三楽章から四楽章への躁鬱的な急落感が堪らない。
五四〇円(タバコ代)を二回借りに来た隣の爺さん、一〇八〇円返しに来ないんだけど。「次の祭日には必ず」とか言ってたのに。これ書いてるあいだに来るかしら。ああ近頃の老人は。俺は「嫌煙派」なのでタバコ代は譲るつもりはない。生きるための食費とかなら別だけど。じっさい金を貸すことで俺は爺さんのアディクションに加担してるんだよな。じっさいこんな頭の悪い年寄り、どうなってもいいと思ってる。もし相手が「大事な友人」ならウザがられることを承知で禁煙治療をすすめると思うけど。さいきんの禁煙治療はなかなか進んでいる。ニコチン離脱症状をやわらげるニコチンパッチや、「タバコの味がまずくなる」バレニクリンといった禁煙補助薬は、保険適用されている。一般に禁煙すなわち修羅場といったイメージがあるが、それは誤解の産物。タバコ産業の思う壺だ。理に適った方法を取れば誰でもわりとすんなり止められるはずだ。禁煙で浮いた金を「もっとまともなこと」に使えばいい。「愚行権を認めろ」と言い募る向きもあるだろうね。基本的に人が何をしようと俺は構わない。カバと格闘して食われようがブランデーをバイアグラと一緒に一気飲みして死にかけようがどうでもいい。ただそれが容認できるのは(もう言い古され過ぎているので繰り返すのが恥ずかしいが)「他者に著しい直接的危害を加えない限りにおいて」である。たいていの喫煙行為はもうすでに他者を苦しめまくっている。「昔はそうではなかった」かもしれないが、いまは違う。「受動喫煙による健康被害」の科学的根拠もそうとうに揃っている。さいきんでは「三次喫煙」という言葉さえある。なにも俺は「健康が一番」なんて野暮なことを言いたいわけじゃない。むしろ俺はそうした価値観の支配には否定的なほうだ。だけど俺は人間による直接的・間接的暴力にはどこまも敏感でありたいのだ(「出産行為」を他者への暴力として認識しているのもそのため)。日常をもがきながら生きている「われわれ」はともすれば「他者の痛み」を過少評価しがちである。「歴史」や「本能」や「使命」といったものでおのれの暴力を正当化(justification)してはならない。鈍感さはそれ自体が「非倫理的(unethical)」なのだよ。
図書館ではきのうひさしぶりにシモーヌ・ヴェーユ『重力と恩寵』(渡辺義愛・訳 春秋社)を読んだ。彼女の文章はいつも抜身の刀。へたに近づくと袈裟斬りにされそう。以下はノートへの書き抜き。
もう飯食うか。そのまえに爺さんの部屋いくわ。もう待つの嫌だから。まじ原辰徳やわ。こんやの日シリどうなるだろうね。酎ハイ用意しておいたほうがいいかしら。
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