見出し画像

「幸福な孤独」を鼓吹したがる「勝ち組女」たち

七月三十日

人間を堕落させるものは、権力の行使または服従ではない。それを起こすものは、不正と考えられる権力の行使と奪取されたもの、圧政的なものとしてみなされる権力への服従とである。

A・トクヴィル『アメリカの民主政治(上)』(井伊玄太郎・訳 講談社)

十一時起床。緑茶、煎餅。このごろパソコン作業過多で目が疲労気味。三時間のロングウォーキングは続けている。ただとちゅう水分補給の休憩はいれる。ストイックなのかダラシナイのかどっちなんだ。たぶんそのどちらにも徹しきれないのが私の「凡庸さ」なのだ。
きのうはジモティを通して連絡くれたリョウさんと小一時間程度愉快に談じ合う。図書館みたいな人の集まる公共空間は会う約束もしやすい。書いたり読んだりの続く日々にあってこうした時間は貴重。私の知らない世界の話も聞ける。閑談も一種の取材なのだ。ちかく「オイラの知らない世界」とか細々と連載しようか。

松原惇子『母の老い方観察記録』(海竜社)を読む。
著者は一九四七年生まれ。元祖「自立した女性」。『女が家を買う時』で物書きデビューし、『クロワッサン症候群』が売れて一躍有名になった。本書はわけあって九十代の母親と同居することになった著者の「老人による老人観察記」。彼女は自分の母親を「妖怪」に喩えるが、すべての老人は僕の眼には妖怪だ。老人ホームなんか水木しげるワールドそのもの。老人にあうたび俺のなかの毒蝮三太夫が「いつまで生きてんだババア」「死ぬの忘れてんじゃねえかジジイ」なんて言いかける。
老母の「生活音」の凄まじさについての苦言も記されていたが、これこそまさにいまの私の苦しみの種であって、隣の年金爺さんの戸の開け閉めの音にしばしば猛烈な殺意を抱かされている。どんなに狭くとも一戸建て暮らしなら俺ももっと「人間愛」に生きられる気がする。親しくもない他人の生活音なんかこれ以上耳にいれたくない。「意識ある者として存在している」という事実だけでも不快で堪らないのに。「人類という抽象的他者を愛するのは簡単だが、隣にいる生身の人間を愛するのはとても難しい」という誰もがおそらく経験上知っているだろうこのことを、僕は「ゾシマ問題」と呼んでいる(『カラマーゾフの兄弟』)。これについてはいずれみっちり詳しくやろう。
本書、母親に三十万円のカーペットを買ってやっただのパリのオペラ座に友達と行っただのといちいち「庶民」との階層差を見せつけるその書きぶりはむしろ爽快でさえあった。貧乏で野垂れ死にもアリなんじゃない?みたいなことを無邪気に言える神経には怒る気さえ起こらない。「おひとりさまの教祖」としばしば揶揄される上野千鶴子は「弱者が弱者のままでも生きられる社会」をつねに考えていたが、この著者にはそうした発想はあまりない。「孤独を愛する」なんて自慢気に語られる時の「孤独」は、きわめて恵まれた立場の人間にしか許されていない「孤独」なのだということを、たぶん彼女は知らない。「おひとりさま」でもそれなりに楽しく生きられるのは経済的にも心理的にも強い人間だけだ。「おひとりさま」といってもピンキリだから一概には言えないが、きっと、ほとんどの「おひとりさま」は気が付いたらそうなっていたのであって、なにか確固たる思想や意志にもとづいてそうなったのではない。
ところで、「おひとりさま」であることにどこか疚しさを感じさせる「空気」がこの社会にはあるようだ。そのへんのことについての当事者語りは酒井順子のエッセイに詳しい。
現今の日本においては、女の人よりも男の人の方が「結婚願望」が強い。それはきっと、男性の方がより「一人前になれ」圧力に多くさらされているからだ。「いつまでも独身でいる人々」にスティグマを負わせようとする一群がいまだに存在している。戦後の民法改正で「家制度」がなくなったにもかかわらず、「家」の意識はいまだに残存している。「家を継ぐ」という言い方もふつうに耳にする。「社会的再生産」や「共同体の存続」につねに「後ろ向き」の私はそうした「慣習」のすべてにノンを突きつけたい。何度でも繰り返すが、「体制」とは既に存在しているすべての事物である。「革命的想像力」とは、そうした「体制」以外のなにかの出現について、不可能を承知で想像し続ける能力のこと。「ここではないどこか」にしか故郷は存在しない。まえに読んだスラヴォイ・ジジェクの本の副題に「不可能なことを求めよ」というのがあったが、その「真意」はともかく、ただ口にしただけでなんとなく気が昂ってくる良い言葉だ。
そろそろウドン食って、ライブラリー行きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?