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一か月に一度は裸足で歩きたくなる、酒は体にいいが生きるのは体に悪い、

七月六日

アリストテレスの友情概念は、名誉と情愛を重んじるコードと文化に基礎づけられたものである。古代の奴隷制と家父長制にもとづく道徳コードの内で生まれたその概念が現在に受け継がれているのは驚くべきことだろう。しかしながら、一九世紀から二〇世紀の思想のなかで、社会的・個人的な関係性の変化が論じられる際には、もっぱら自己、家族、共同体に焦点があてられ、友情は無視されてきた。そのために、名誉や騎士道精神と結びついたギリシャの古典的な友情概念が温存され、現在における友情のとらえ方にまでその痕跡をとどめることになったのである。

デボラ・チェンバース『友情化する社会――断片化のなかの新たな<つながり>』(辻大介・他訳 岩波書店)

午前十一時五二分。紅茶、ダブルメロン。「熱帯夜」で寝苦しいことこの上なかったので不本意ながらも午前四時半ごろから四時間程度エアコンを付けた。ちなみに「熱帯夜」とは最低気温が二五度以上の夜のことをいうらしい。気温が高かったのは事実だけど寝苦しさの原因は他にもありそう。爺さんが償いとして持ってきた500mlの缶ビールのせいか。あれ糖質多いから。あるいは鶏の胸肉炒めを食いすぎたからか。食うものが多いと体が発熱しやすくなるんじゃないか。ひさしぶりに敢行したミッドナイト裸足ウォーキングの興奮が冷めていなかったせいかもしれない。外を裸足で歩いたことのないやつを俺は信用しない。ガラスの破片があったりして危険だって? <生>とはほんらい危険なものなのだ。それにガラスごときで血を流すな。踏んで最も強い快感を得られるのは駐車場なんかの砂利、つぎに雨水の残ったマンホール、芝生、点字ブロック(警告ブロック)、そして普通のアスファルト舗装の道路。

砂利、
濡れたマンホール、
図書館の芝生、
点字ブロック、
道路、

今回は歩くだけではなくて走ってみた。いつか金沢駅まで走ってみるつもり。二三日これをやるだけで足裏はかなり頑丈になると思う。敢えて陳腐なことを言うなら、裸足で外を歩くだけで「野生の勘」を取り戻したような気になる。とちゅうフルチン&四足歩行になりそうだった。『人間をお休みしてヤギになってみた結果』という本のことをいま思い出した。「歩道」を歩いていると代行運転の車が急に止まってバックしてきたので路地に逃走。たぶん俺が裸足であることを変に思ったからだろう。こういうことはけっこうある。とくにタクシードライバーなんかは歩行者をよく見る癖があるので厄介な存在。しかしなんという時代なんだ。そんな機械で空間移動しているお前らのほうがよほど変だということが分からないのか。この糞暑いのに服なんか着やがって。ミッドナイト裸足ウォーキングのあと、シャワーを浴びながら、こう確信した。「酒を飲まなくても生きられる人間はたぶん<頭が悪い>か鈍感なだけなんだ」。酒をぜんぜん飲まない人の中にも「頭がいい」のは多少いるのだろうけど、俺が見る限り、全体的に、「実存的倦怠」とは無縁な顔をしている。その先天的な「頭の悪さ(哲学的鈍感性)」に守られている。そうでないと二十四時間もシラフでは生きられないだろう。これについてはまたいずれじっくり考えてみたい。外はいまドシャ降り。図書館に行くか。きのうは金借り爺さんへの苛立ちのせいもあって、「文字だけの本」はほとんど読めなかった。だからとちゅうから佐々木正己の『蜂からみた花の世界』(海游舎)をずっと眺めていた。「活字スランプ」に陥ったときは図鑑系の本に限る。ハマナスの実が食えることをはじめて知った。あのミニトマトみたいなやつ。俺の生まれ育ったところにある公園にいっぱいあったんだけどね。金のない俺は「食べられる実」や「食べられる野草」についてもっと詳しくなるといいかも知れない。なんとなくいま板目と柾目の違いについて知りたくなった。愛してるよ海岸のチャコ物語。

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