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わかってもらおうと思うは乞食の心

七月三一日

原始民族にとっては、闘いも宗教的な行動だった。ニューギニアのある部族は、男たちが闘いに出るとき女たちは銅鑼を打ち鳴らし、月が早く出るように祈りを込めて歌うという。もし女たちが歌わなければ、男たちには災難が降りかかり、病気になり死んでしまうかもしれない。女たちの歌は、生命のリズムを支配する力を呼び起こす呪文でもあるとともに、部族の命運をかけた重要な意味を持っていたのだ。

浦久俊彦『138億年の音楽史』(講談社)

十一時起床。紅茶、煎餅。読点がなかったら紅茶煎餅になってしまう。たまに読点(、)を全然打たないワイルドな人がいるね。句点(。)をあえて省く人も多い。そういう流儀ならそれでもいいのだけど、それが過ぎるといささか独善的に見えてしまう。私は、読点は文章への近づきやすさ(アクセシビリティ)を高めるためにこそあると思っているので、それがきょくたんに少ない文章を読むたび、「なんか特殊な文学的効果でも狙ってんの?」とか勘繰ってしまう。もっとも読点が多すぎても嫌なんだけど。そうです、けっきょくは文章美学の話です。誰にも好みの塩梅というのがある。自分のことは棚に上げて、いままで何度ぼやいて来たことだろう。「そこで点を打つかね、ボーっと書いてんじゃねーよ!」。まあ固いこと言わない言わない。文章なんかテキトーでいいんだ。テキトーで。なんでもありなんだ。気分次第で句点を三個くらい連ねてみるのもいいし、誰も試したことのない当て字を頭凸に使ってみるのもいい。。。夏目漱石の門下生の一人で、「漱石全集」の編集にも携わった森田草平は、漱石のフリーダム過ぎる当て字使いに甚だ困惑させられたと聞くけど、あのインテリ文豪でもそんなことやってんだから誰がやってもいいはずだ。

田中美津『いのちの女たちへ(とり乱しウーマン・リブ論)』(パンドラ)を読む。

今、ツマラナイ日常に対する人々の不満は、体制の日常、その「もしも幻想」の中では吸収できない程ふくれあがっている。王様は裸じゃない、という実感をより強く、より鮮烈に確かめてみたいという人々の欲求はまさに吹きこぼれんばかりだ。

子殺しについて、「子供の命は子供のもの、子供の生きる権利を親が勝手に奪ってしまうのは親権乱用です」と評論家は眉をひそめる。何言ってんだ! 女は子供を私有化したくてしているんじゃない。育児を唯一女の生きがいとさせられる構造の中で、女は子供と共に切り裂かれていくんじゃないか。
母性の神話、母の日のウソッパチを赤裸に知っているのは、実は、妻として母としてと強固に自らを秩序化しているその当人たちなのだ。

出る杭は打たれるというが、出なくても打たれる杭が女であって、なんで打たれたのか、鮮明なのは痛さばかりで、とにかくなにがなんだかわからない中で想うのは、「よせばよかった」の悔恨ばかり。

一九七〇年代のはじめ、ウーマン・リブ運動を牽引した一人である田中美津の代表作。「檄文集」と言えなくもない。本書、「フェミニズムの名著」などと紹介されることが多いが、そのとり乱しながらもゴマカシなく綴られる言葉は、フェミニズムとは関係なく、誰にも強く訴えかけるに違いない。どの頁にも喜怒こもごもの鮮血が迸っている。「おとなしくしているのはもうウンザリだ」という己の己れによる己れのための奴隷解放宣言。その峻烈な「闘志」に脳が熱くなりっぱなし。「服従は美徳」だと言わんばかりの現代の腑抜けどもに彼女の「不埒」な言葉はどう響くだろうか。女が男の奴隷なら男は社会の奴隷(奴隷頭)なんだ、といった彼女の言はやや矯激に聞こえるかもしれないが、これが書かれた約五十年前は、男尊女卑観がいまよりもずっと広く社会に共有されていた。夫から妻への家庭内暴力はほとんど「社会問題」化されていなかったし、「女は女らしく男は男らしく」の性役割規範もめっちゃ強かった(ハウス食品工業のテレビCM内の文句「私作る人、僕食べる人」が「炎上」したのは一九七五年)。
彼女は、「痛み」を「痛い」と感じない男たちの鈍感さをたびたび俎上に載せている。だいたい就職活動や賃金労働なんか頭も体も鈍感じゃないと出来ないだろう。過労死するまで働けるのも鈍感ゆえである。嫌なことを嫌だと思えない鈍感さは、嫌なことは嫌だと叫ぶことの出来る他人を許さない。だから鈍感な人間は押しなべて狭量になりやすい。たとえば「LGBTQ」などへの嫌悪を隠さない人々のなかに、私はそのような狭量さを感じる。最近ではそんな「悪い男らしさ」に染まっているマッチョ女も少なくない。
読んでいて、田中が頻繁に使う「とり乱し」は、内田樹の「ためらい」(『ためらいの倫理学』)にどこか似ているなと思った。いずれにおいても、「ホンネとタテマエに引き裂かれているのが人間なんだ、矛盾上等、それで何が悪い」といった快活な開き直りを含んでいる。田中にしてみれば、「嫌いな男にはお尻を触られたくない」という気持ちも切実だけど、「好きな男が触りたいと思うようなお尻が欲しい」という気持ちもまた同じくらいに切実だった。人は「大義」にだけ身を捧げられるような生き物ではない。どんな聖人君子にも生活がある。私欲がある。下半身がある。「イデオロギーの奴隷」とはこんな明白のことをあえて分かろうとしない人々のことだ。「イデオロギーの奴隷」であることで、人はものをほとんど考えないで済む。それは知的負荷を極限まで減らすことだ。すでにインストールされているドグマにしたがって世の正邪善悪を判断していけばいいのだから。そんな人たちの眼からみれば、「肉食を問題にしている人が牛丼を食べること」や「アナーキストが公立図書館を利用すること」や「GAFAを叩きながらユーチューブを見ていること」などは「許し難い矛盾」に映る。そういえば、「いつも電気を使ってるくせに脱原発なんてよくいうよ」なんて冷笑してみせる人がよくいるが(坂本龍一はそれでよく叩かれていた)、「いままさに電気に依存していること」と「今後のエネルギー供給をどうするか」という話はぜんぜん別のことである。頭の悪いフリをしながら詭弁を弄するのはやめてもらいたい。ともあれオイラは、「主義主張は生活においても一貫性があって然るべき」とあえて思い込みたがるような「イデオロギーの奴隷」とは、いかなる議論もしたくないナ。知性の活動を最大化させる条件はあらゆる「党派的前提」から極力自由であることだと、ここでも念押ししておく。

オレは今日このあと大嫌いなATMに行かなくちゃいけない。ガス代も支払わないと。ゲンキーで納豆と豆腐とモヤシも買おう。古書店には行けそうにないな。つまんねーーー!

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