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もう三十代だろ、世界征服は諦めろ、

人間の埒外にあるものはどれもみな、すぐさま私の内部に反響する。

シオラン『カイエ:1957-1972』(金井裕・訳 法政大学出版局)

十一時起床。紅茶、巧克力(三個)。寝付くのに一時間ていどを要した。漱石の天才性と神経症を示して余りある以下のくだりを思い出す。

夜、蒲団へ這入って、好い案排にうとうとし掛けると、ああ此所だ、こうして眠るんだなと思ってはっとする。すると、その瞬間に眼が冴えてしまう。しばらくして、又眠りかけると、又、そら此所だと思う。代助は殆んど毎晩の様にこの好奇心に苦しめられて、同じ事を二遍も三遍も繰り返した。

『それから』

「不眠の原則」として、眠ろうとすればするほど力んで眠れなくなるということがあるので、眠れぬときは「俺はもう眠っている」と素直に思い込むのが最良。眼を閉じ横になっているだけの時間も「眠っている時間」にカウントしていい。いま間違い電話あり。先方、また俺のことを椅子の張替屋だと思っていやがる。これで何度目だ。いい加減にしろボケジジイ。きのうは夜八時からこの蒸し暑い中ダイスさんと南砺市の温泉。客少ない。湯に浸かってる時間より石の上でアグラかいてる時間のほうが長かった。ほとんど岩盤浴。これもまた風流。肌がべたべたするのを極度に嫌う「いまどきの日本人」はエアコンを効かせた部屋からほとんど出られなくなっている。情けないね。今夏は電力の需給逼迫が生ずる恐れがあるらしく、とりわけ東京エリアの予備率(電力の余力)が危険水域とされる三パーセントを割りそうだとか(『選択』七月号)。どうなるかね。ともあれ首都圏に住んでなくてよかった。地方在住の人間はこういうときくらいしか大都市圏の人間に優越感を持てないのです。ところでいまエンターキーがグラグラで威勢よく押すと剥がれかねない感じになっている。カチャカチャカチャカチャ、ッターン!をやり過ぎたみたい。

グレアム・ハーマン『思弁的実在論入門』(上尾真道/森元斎・訳 人文書院)を読む。
二〇〇七年、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで開かれたワークショップが「思弁的実在論」の原点だそう。本書ではそこで登壇した四人、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、グレアム・ハーマン、カンタン・メイヤスーそれぞれの考え方が「概説」されている。オブジェクト指向存在論(Object-oriented ontology)なんていままで聞いたことがなかった。この四人のなかで知っているのはメイヤス―だけ。六月はずいぶん彼と付き合った。『有限性の後で』にはマジで興奮させられた。彼が挑戦的に提起した「相関主義(Corrélationisme)」という語も実にセクシーだと思う。「相関主義
」とはごく大掴みにいって、「思考」は「実在」(存在そのもの=物自体)には決して達しえない、とする哲学的立場のこと。メイヤス―は、カントやその後の哲学者が自覚的あるいは無自覚的に前提としている「相関主義」を批判的に乗り越えようとしている。メイヤス―は「相関主義」を二種類に大別する。ひとつは「弱い相関主義」で、ここでは「実在」についての思考は可能である(カントなど)。いっぽう「強い相関主義」は、その思考の可能性そのものさえ拒否する(ハイデガーやウィトゲンシュタイン)。
他人の哲学の解説などどっちみち的外れになってしまうからもういい。だいいち詰まらない。そもそも思考と実在をどのようにして分けるのか、という問題がある。さしあたり思考とは、「いま・ここの開け」のこととする。なぜだか知られないけれどすでにはじまっている「いま・ここ」の持続(「現存在的変遷(現遷)」)。実在とは、その持続のなか見出そうとせずにはいられない「変わらない何か」のこと。実在はつねに予感されているものではあっても、予示されているものではない。現遷の「奥」になにか実在が隠されていると考えるより、この「現遷そのもの」が剥き出しの実在なのだと考えるのはどうか。つねにすでになにかが感じられている、という点で「現遷」こそ「変わらない何か」ではないか。中島みゆきの「世情」が脳内再生中。

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