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「優しさ」は世界を救わない、そうだろ? キングボンビー、十二月の天空翔ける母音、牛の涎、門松は冥途の旅の一里塚、お前が噛んだ小指が痛い、

九月二九日

十二時起床。森永ムーンライト二枚、グリーンティー。佐藤輝明のヒッティングマーチがイヤーワームになっている。天気いいね。こんな天気のいい日は硬めの便所スリッパで誰かのコメカミ叩きてえわ。換気扇つけるとややタバコ臭がするかな。爺さんとはいちおう「和解」したから以前ほどは気にならんけど。

ジュリアン・バーンズ『フローベールの鸚鵡』(斉藤昌三・訳 白水社)を読む。
伝記と評論と小説が混在したような「前衛小説」。のわりに人を食ったようなところはなく、読み物としてじゅうぶん面白い。知的な英国的アイロニーを堪能できる。丸谷才一が本書を褒めていた理由がわかった(『快楽としての読書(海外篇)』)。それにしてもこの小説の語り手、どんだけフローベールオタクなんだよ。「聖地巡礼」みたいなこともしてるし。作品のみならず手紙や私生活までこうつぶさに調べられるなんて大作家は大変だ、と月並みな感想を持つ。俺は『ボヴァリー夫人』といくつかの短編しか読んでない。岩波文庫の『感情教育』と『ブヴァールとぺキュシェ』は手許にあるがなかなか読めない。どうやらギュスターヴ・フローベールの作品よりも「ギュスターヴ・フローベールその人」のほうが面白そうである。サルトルがあんなに浩瀚なフローベール評伝を書いたのもきっとそのためじゃないのか。付箋のある頁の文章をいくつか引くわ。

彼に言わせると、幸せというやつには三つの前提条件――愚かで、利己的で、健康であること――が要るけれど、自分が確かに備えているのは、三つのうちの二つめの条件だけだと言うんです。私は必死になって説き聞かせ、闘いましたが、彼は頑として幸せなんてありえないことだと思いこもうとするんです。その思いこみが奇妙な慰めになっているような様子だった。

ただ、この点、人生はいくらか読書と似ているのではあるまいか。先の章で言ったように、一冊の本に対して自分の抱く感想意見などがすべて、専門家によってすでに書かれ、さらに詳しく述べられていることの単なる繰りかえしにすぎないとしたら、読書に何の意味があるのだろう?

僕らはどうして人や物の悪い面を知りたがるのだろう? 良い面を知りたいと思うことに飽き飽きしてしまっているからなのか? それとも、いつだって好奇心は利害を超えてしまうということなのか? あるいは、もっと単純な話で、悪い面を知りたいという欲求は、愛情がとかく陥りやすい倒錯だということなのだろうか?

そういえばギュスターヴという巨大ナイルワニがいたけどまだ生きてんのかな。ワニに食われたい願望強めのオイラとしては奴の写真見るだけで興奮してちびりそうになるんだけど。100日後に死ぬワイ。いま「三つ違いのワニさん」の小話を思い出した。今夜は古今亭志ん生だな。

別役実『ことばの創りかた(現代演劇ひろい文)』(創論者)を読む。
演劇人ではないのでドラマツルギーをめぐる理論的・具体的な話はどうでもよかった。ただ俺は彼のナンセンスエッセイ(「づくし」シリーズ)や童話が好きなので、彼の書いたものならとりあえず何でも読むつもりでいる。サミュエル・ベケットについての愛憎相半ばする感情を吐露した文章は味があっていい。むかし入れ揚げていたジャニーズアイドルのことを思い出しては赤面する中年女みたいで。『ゴドーを待ちながら』(一九五三年初演)はもはや古典化してしまっていてパロディの元ネタでしかない(ラーメンズ「後藤を待ちながら」)。フェルナンド・アラバール『戦場のピクニック』のことがたびたび出てくる。この戯曲を読んだことはないが、召集され戦場にいる息子のところに両親がとつぜんピクニック姿で訪ねてくるという「絵」は嫌いじゃないと思った。「端的に滑稽」でいい。不条理云々非現実性云々なんてのは「知的」な連中が後からやればいいこと。安倍公房『友達』を論じた章で、「警察に電話をかける」ということを「日常的な秩序恢復を期すための、条件反射的な行為」と洞察しているくだりには感動。隣の学生の「騒音」に苦しめられていた頃、よく俺は、「静かにしないと通報しますよ」と声を荒らげたもんだ。警察嫌い(公権力嫌い)であるはずの俺が「警察の威光」を都合よく利用していたとは。恥ずかしい。

そうそろそろ飯食うわ。佐藤輝明のヒッティングマーチまだ続いてんだけど。いやテルのせいじゃないよ。悪いのは新井だ。

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