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渡る世間はクズばかり、みんな違ってみんなカス、三十歳死亡法案、可決、キンタマーニ、

五月四日

君が代への理解が深まるにつれて、新しい問題が起きる。君が代は何回歌えばよいのか。政府は一回と決めた。しかし異論が相次ぐ。君が代の起源を求めてさかのぼれば、一回だけでなく、二回あるいは三回斉唱すべきだと諸説が乱れる状況になった。皇紀二六〇〇年の十一月三日(明治節)までに統一しなければならなかった。

井上寿一『理想だらけの戦時下日本』(筑摩書房)

午前八時十三分。濃緑茶、素焼き扁桃九個。内村航平が脇毛を剃っている夢を見る。正味一時間くらいしか寝られんかった。昼夜逆転したわけでもないのにこんなに早く離床したのは久しぶりでいまとても新鮮な心持でいる。午前三時には部屋を暗くして横になって眼を閉じたのだけどなぜかドキドキして寝付けなかった。貸した金が返ってくるかどうかを心配していたのかもしれない。俺は小さい人間だ。たかが金じゃないか。たかが二一〇〇〇円じゃないか。かりに返ってこなかったとしても喜捨だと思えばいい。地獄行きが決まることに比べれば取るに足らないことだ。きょうはちゃんと眠れたらいいけど。ねんじゅう不眠症に苦しむ人もいるのだからこれくらいのことで不満を漏らすべきではない。昨日からものを噛むたび左の奥歯が痛むんだ。奥歯が痛んでいるのか歯茎が痛んでいるのか。俺には何かと歯を強く食いしばる癖がある。それが原因かもしれない。親不知すなわち第三大臼歯が絡んでいる可能性もある。ただただ虫歯でないことを祈るばかり。金のない底辺老人の惨めさを日々間近に見せつけられている俺は以前にも増してペシミスティックになっている。ほとんどの人間にとって長生きは罰ゲームでしかないだろう。「平穏な老後」などもはやお伽噺でしかない。まして俺のようにほとんど貯蓄らしい貯蓄も無い人間にとっては。いま老人で生き恥をさらしまくっている連中はやがて死に逃げ出来るからいい。いまの二十代三十代のやつらは自殺でもしない限りこんご三十年も四十年もこんな空気の薄い閉塞日本を生きなければならないのだ。気が狂いそうだ。そういえば六年ほど前に『七十歳死亡法案、可決』という小説を読んだ。中身は生温くて少しも面白いとは思わなかったが、このタイトルはなかなか気に入っている。作者の意図に反してこんな愛にあふれた法案はないと思った。ただ七十まではさすがに長すぎる。七十なんてほとんど死に損ないのバケモノだ。三十でいいんだよ。もしその年にもなって「生の空しさ」を実感できない人間がいたとしたらそれこそ人間のクズ。当時の俺は「安楽死」の対象をもっと拡大してほしいと頻りに考えていた。「不治の病」などでなくても生きていること自体に著しい苦痛を感じている人が世の中には一定数いる。すくなくとも生きるのにかなりのていど飽き飽きしている。空しさに苛まれている。いま一定数と言ったけどほとんどの人間と言ってもいいかもしれない。生きるのが楽しいという人間はある種の知的障害者だと今の俺は確信しているが、そういう人間は全体のごく一部であって、生きるのが苦痛でしかない「まともな感性」を持った大多数の人々は、こんな残酷で不自由極まる世界を無邪気に楽しめるはずがないのだ。俺はこの悩める「サイレント・マジョリティ」の代弁者でありたい。ずいぶん影響力が小さい代弁者だけど。このあとすこし仮眠取って、持ち本読んで、水菜とニラのニンニク炒めと御飯を食って、バロー高尾店(聖地)近くのセカンドストリートに行くつもり。気が滅入ったら古着か古本を物色しに行く俺。ただ「本当の目的」は長時間歩くことなのだ。メメントハヤシライス。Oh!yeah! ルンバでサンバ。ボス如月。地獄の黙示録。アル中二病。

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