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「生き物」である限り苦痛は続く、

八月十九日

午前十一時一〇分起床。紅茶、牛乳なしシリアル。さいきんものが口にあまり入らない。読んだり書いたり訳したりする体力さえ落ちなければそれでもいい。毎夜二時間以上のロングウォーキングをしているからか三キロほど瘠せた。私はおそらく太ってはいない。やはり太っているよりは痩せている方がいいと思わされている。この「飽食の時代」にあって太っているということは取りも直さず、「自己管理が出来ない人」「人生に投げやりの人」なのであり、だから笑われたり説教されたりしても当然であるという社会的黙契が確かに存在している。この「体重スティグマ」問題についての当事者語りとしては、ロクサーヌ・ゲイ『飢える私』(亜紀書房)がある。なんとも鮮烈で痛ましい「名著」。五か月前に読んだのにいまだに忘れられない。「四〇歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」という迷言があるけど、自分の体量への責任については年齢など関係がないらしい。
ベルガモット&ムスクの香りがアロマディフューザーによって部屋に満ち満ちている。さいきんはヤニ臭さもさして気にならない。したがってジジイへの殺意にはそう苦しめられてはいない。二か月前は念力でやつを殺すことばかり考えていたのに。「やると決めたこと」だけにひたすら取り組んでいるからかも。森田療法万歳。
きのうは個人投資家コハさんと恒例の図書館トーク。村上春樹の『騎士団長殺し』をいま読んでいる途中だがあまり面白くないとか。私はふつうそのへんの人間が「問題」にしないことを扱えない書き物には最初から興味が持てない。そもそも春樹は、「もうすでに存在していることの驚異と絶望」を知っているのか。先週も先々週もオイラはシオランしか読めない心境だったがこのごろはそこから脱しつつある。「バルカンのパスカル」の断章集に読み耽るのははまた数か月後になりそう。

岡田温司『イタリアン・セオリー』(中央公論新社)を読む。
「イタリア現代思想入門」として読んだ。著者の美術史方面の著作は何度か読んでいる。ジョルジョ・アガンベンとジャック・デリダのただならぬ緊張関係を論じた章がとくに気に入った。アガンベンは「ホモ・サケル(聖なる人)」という不穏な概念を普及させた人。「アウシュビッツ」や「グアンタナモ」や「入管施設」などにおける「例外者への暴力」は、つねにどこでも行われている。ゾーエー(動物的生)とビオス(人間的生)をめぐるアガンベンの議論を追うのはなかなか大変で、とても手に余るのだが、その「二分法」が、フーコーによって輪郭を与えられた「生政治」という概念と相性がいいことだけは確か。「剥き出しの生命」、あらゆる社会的地位を奪われた「ただの生きもの」、「植物人間」、福祉によって「生かされてる人々」、奴隷、産む機械、「反出生主義」、合計特殊出生率、出生前診断、「高齢者は集団自決」、「生産性のない人々」、「ナマポ」、延命治療、「人間のクズ」、安楽死、抗鬱剤、自殺。本書で紹介されているロベルト・エスポジトを読みたくなった。イタリア語が読めないので翻訳があると助かる。
隣のジジイが帰って来てとたんに気分が悪くなった。飯食って図書館行きます。

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