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YouTubeの音楽コンテンツのコメント欄で自分語りをする人が多いのは何故か

こんにちは。きょうは図書館が閉館日で、外は寒冷甚だしく雪も薄く積もっていて、だから終日自室に閉じこもることに決めました。そんで日記も先に付けてしまおうというわけだ。それにしても「図書館」ですでに館の字を出したのにさらに「閉館」で館の字を重ねるのは文章技法上あまり上等とは言えないのだけどそんなのカンケーねえ。ワイルドにいこうぜ。
私はテレビジョンを置いていないので、食事中はだいたいというかほとんどユーチューブでデモクラシータイムスのアップ動画を見たり、岡田斗司夫の切り抜き動画を見たりしている。
酒が入るとむかし聴いた音楽で感傷に浸りたくなる。しかしユーチューブのコメント欄というのは面妖なところで、石を投げれば感傷過多のコメ主に当たる。その点で「懐メロ」で感極まったときの人間は泣き上戸の酒飲みに似ている。「ダンスはお酒にみたいに心を酔わせるわ」と越路吹雪は歌っていたが、心を酔わせている当のものは踊りじゃなく音楽じゃないかと個人的には思っている。音楽の陶酔のおかげで自分語りのハードルをぐっと下がり、その自分語りによる自己触媒反応によってさらに陶酔は増大発展するのだ。
今年70歳、ガンで闘病中なのですが云々
五年前に亡くなった母がよく聞いていて云々
あのころは金も無く風呂なしアパートだったけど毎日楽しく云々
「いや知らんがな、不特定多数の他者にいきなりなにを語ってんねん」と、テレビ芸人が日本中に広めたインチキ関西弁でツッコミをいれる気にはなれない。私だって不特定多数の目に開かれているこういう場所でふてぶてしく愚にも付かぬことを日々書き綴っているのだから。「承認欲求に飢えたクリエイター気取りの吹き溜まり」ともいえるnoteにあっては、だいたいほとんどみんなが「俺の話」を聞いてほしいんですよね。五分だけでもいいですよね。「現代人」は自分語りに飢えているのですね。人は可愛いものですね。健気なものですね。憐みなんか感じません。人ってそんなもんです。だいじょうぶだ。ワン・オブ・ゼムの虚しさを胸中に膨らませるには及ばない。大なり小なり誰もがおのれの「凡庸さ」にうんざりしながら生きているんだ。

きょうはこのあと『エピクロスとストア』の音声データを聴くつもり。エピクロスはヘレニズム期(一般的に古典期ギリシアの没落からローマ支配確立までの約三〇〇年間)の哲学者で、俗に「快楽主義」の別名であるエピキュリアン(epicurean)のもとになった人。もちろん学派の始祖であるエピクロス当人の教説は思索上かなり込み入ったもので、一部の人たちが積極的に誤解しているような、酒池肉林の放縦的享楽を無条件に推奨するようなものではない。
膨大なコンテンツのなかから、なんとはなしにこれを選んだのは、煩いに倦み疲れ解放としての「快(アタラクシア)」を希求して止まない「願望」がどこかにあったからではないだろか。古代の哲学者ではよくあることだが、彼の著作としてこんにちに伝わっているのは全体のごく一部で、その全てを集めた『教説と手紙』(岩波文庫)でも一二〇頁くらいしかない。その教説の「全体像」を見るにはあまりに断片的で、だから理解の補足上、前三世紀初頭の人とされるディオゲネス・ラエルティオスによる伝記や、エピクロスの唯物哲学に多大の影響を受けたとされているローマの哲人ルクレティウス(前九四ごろ~前五五ごろ)などの著作を読む必要がありそうだ。が、体系的な著作がそのまま残っていないからこそ、その余白をめぐる勝手気ままな解釈ゲームに興じられるともいえるんだな。ソクラテス以前の哲学者に惹かれる人はたぶんその余白に惹かれているのじゃないか。禅の公案もそれがけっして体系的な理論構築物にはならないからこそ、紫電一閃の直覚可能性にいつでも開かれているのだ。
手の甲が冷たくなった。もう駄目っす。

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