「父殺し」は出来ても「母殺し」は出来ないマザコン糞男子、精度高めの愚痴をこぼす乙女、折れかけた肋骨、
四月十七日
午前十時四二分。緑茶、アーモンド、賞味期限切れのキシリトールチョコ。ドバイでミャクミャクくんに強姦されそうになる夢を見る。今日は非常に早起き。しかもわりと頭はすっきりしている。起きぬけに「生きた心地」がしていることなど稀にしかないのに。昨深夜じゃっかん悪酔いの気味があったので意外や意外。いつもこういう感じだと大助かりなのだけど。ここ数年はきょくりょく上機嫌でいるように意識している。いい年して人前で不機嫌アピールするのは小児的であり野暮である。俺はいちおう紳士だから。羽目を外すのもこういう文章中だけであって普段はごく「大人しい」。俺はそんな「常識人」としての自分が好きだ。周りを見渡してみても「常識人」なんてほとんど見当たらないからね。立ち話をするのも避けたいやつばかり。ともあれ「精神の安定は生活の安定から」である。読み過ぎても飲み過ぎないようにはしよう。「中庸は徳の至れるものなり」。きょうは空から液体が落ちてこないらしい。これ書いてパスタ食って一時間ほどプルースト読んでから文圃閣へ行こう。座っている時間が長いものだからとにかく歩きたくて歩きたくて。もう花粉地獄はほぼ終わったと判断していいだろう。日常において俺が真に愛しているのは本なのか酒なのか散歩なのか。以前は「本は恋人、酒は友」と言っていた。今は「本は恋人、酒は悪友」の方がしっくりきます。モーニングおっさんパラダイスカフェ。
川名紀美『女も戦争を担った~昭和の証言~』(河出書房新社)を読む。
さいきん復刊されたもの。初版は一九八二年。徴兵から逃れようとしていた三國連太郎(本名・佐藤政雄、映画「釣りバカ」のスーさん、佐藤浩市の父親)が母親の「密告」によって憲兵に(穏便に)連れ戻された話はよく知られている(あだとなったのは実家に出した手紙だった)。この話が「多くの人(特に男性)」にショックを与えうるのは、「多くの人(特に男性)」が大なり小なり知らず知らずのうちに共有している「献身的母親像」のせいだろう。母親たるもの何があって子供の身を案じなければならない、というナイーブな思い込み。どんな母親のもとで育った人もある種の「理想化された母親幻想(聖母幻想)」からは自由ではない。この幻想はおそらく歴史的・共同体的に形成されうるものだからである。中年もしくは高齢の男性が母親のことを「おふくろ」と呼んでは感傷に耽る醜悪な光景は日常においても各種娯楽作品においてもお馴染みだ(いまだに!)。三國の母親はきっと一家が村八分になることを単純に恐れたのだろう。著者が三國に取材したころにはその母親は亡くなっていた。だから彼女の「真意」は分からない。「徴兵逃れなんかどうせ成功しない、失敗したら息子が非国民扱いされるとおふくろは判断したのかも」とでも思わなければ、三國は正気を保つことが出来なかったのだろう。ここにおいては「戦争の悲劇」なんていう情緒語は不要である。私はむしろこうした話にショックを受けてしまう男性たちの「内なる男の子」をこそ問題にしたい。つまり彼らは母親を「人間扱い」していないのである(母親もまた子供を「人間扱い」していないのだけど)。「お母さんはいつも僕ちゃんの味方になってくれる」と信じている点で、彼らは母親の「独立した人格」を無視している。世の男性はどうしてこう「母殺し」が出来ないのだろう。だからバカなんだよ。バカというのは親孝行とかキモい言葉を平気で使う。「母の日」に何かプレゼントしたりもする。「すべての親はクソ親である」なんて言いたがる人でさえこっそりと自分の母親だけはそこから除外している。世のマザコン糞男子は概して父親の悪口は言えても母親の悪口は言えない。「内なる男の子」は母親とほとんど一体化しているのだ。だから母殺しはそのまま自分殺しもなってしまう。「おいガキども、まずは他人を他人として認識しろ」と俺は言いたい。話はそれからだ。さあ飯だ。それから文圃閣だ。N・ネフスキー『月と不死』でもないかな。かかろっと成分配合。まくなぎ協奏曲。転売不可。天地無用。
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