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石川淳『普賢』をめぐって

二月二十日

十一時起床。寝汗かいた。窓ガラスに発生する結露が気になる。黒カビの増殖によって住環境の悪化に繋がらないか、いささかの憂慮あり。賞味期限切れのバナナチップ、珈琲。ちかごろは爺さんが部屋にいなくて助かる。

石川淳の『普賢』(一九三六年)を読んだ。第四回芥川賞受賞作。そういえばここ数年、芥川賞や直木賞作品は読んでない。同時代人なんか馬鹿で薄っぺらなやつらばかりと高を括っているせいかもしれない。『普賢』の発表年は、国民党の蒋介石が張学良に監禁される「西安事件」があった年であり、日中戦争の発端となる盧溝橋事件(七・七事件)が起こる前の年でもある。
その「読みにくさ」については前からほのかに聞いてはいたが、じっさい読み始めてみるとその晦渋さは想定を超えていて、閉口させられっぱなしだった。評するに際し取り付く島がなく、論じようにも手筈が整わない。筋らしい筋があるわけではない。強いて言うなら、観念玩弄癖のある貧乏人たちが繰り広げるどうしようもない娑婆苦物語である。

この老婆といふのがもはや白内障で片目がつぶれ足もきかぬ廃残の躰を生来の剛情に硬ばらせてゐるのでは狭い家の中に折合がつかないのも当然で、老婆のはうからすすんで近所の軍人の家へ子供の守に出てゐたが、ときをりもどつて来て部屋の隅にうづくまつた恰好は何といはう、此世にまれな醜悪な姿で、小鳥がさへづり犬が走る悠暢なけしきの中に突然割れた地の底から異形のもののせり上がって来たかのごとく

『普賢』二(旧漢字は新漢字に置き換えた。以下の引用も同様)

毛穴の脂まで見てやろうとするそのリアリズム的執念とはうらはらに、文体(語り口)は過剰なほど曖昧模糊遊戯絢爛を極め、露骨なほど浮世離れしていて、最初から最後まで練られ過ぎた措辞が糸を引きまくっている。この糸の綾なす文芸的煙幕に眩惑されているうち、畢竟自分はいま何を読まされているのかとふと苦痛を感じ自問せざるを得なくなるだろう。それでいいのだ。慣れてくればだんだんそれも快楽に感じられてくる。まずはこの雅俗混淆グロテスクな言語的奔流に身を預け切ることが肝要だ。すると、仏教語や修辞が重なれば重なるほどに、「物語内の人物」の卑小さがいっそう際立ってくるのに気が付くだろう。妖しいまでの「しらじらしさ」をそこに感知しないではいられなくなるだろう。この天上と地獄の落差を利用した「位置エネルギー」こそ、この作品に只ならぬ鬼気を生じさせている本源力なのである。

中世フランスのある女詩人の伝記作者「私」を<メタ的>に被せたりと、『普賢』には鬼面人を威すかような仕掛けがいくかあって、現にそうした点に着目する批評も少なくないのだろうけど、素朴的読者の私からすればこれは何よりもまずさきに<魂の救済文学>であって、だからつねにその底流には過剰なくらいの「悲劇的アイロニー」が見出される。悲劇的アイロニーは「救済へのあがき」の一表現なのである(ヘルマン・ブロッホ『ウェルギリウスの死』など)。この一点において『普賢』は、芥川龍之介『玄鶴山房』のごとき純然たる「娑婆苦文学」とは決定的に異なっている。この悲劇的アイロニー(あるいはソフォクレス的アイロニー)は、十九世紀初頭のイギリスのある文人によって論じられたものだけど、要は、運命にもてあそばれている劇中(作中)人物が観客(読み手)に感じさせるあの妙な「優越意識」のことである。悲劇的アイロニーの究極は、この困苦に満ちた有為転変の人間世界を、「無窮宇宙の眼差し」で眺めることである。自分が既に溺れかけているこの醜悪絶望的な世界も、宇宙論的に俯瞰してみれば、にわかに滑稽さを帯び出すだろう。各人の自我を一面染め上げているいかなる不幸も、ちょっとカメラを引かせてみればだんだんと喜劇的様相を帯びざるを得ない。ロングショットにおいては、悲劇は存在しないに等しい。すべては空しい、苦しみである、何とかしないとね、でもその「何とかしないと」こそ苦しみの原因だったりするんだよね、なんていう調子の身も蓋もない「自我否定論」はその「無内容さ」のために後世膨大な「経典」が作られる因を成しているが、『普賢』を貫くアイロニーはまさにそんな「仏教的アイロニー」なのであり、その核を成しているのは、通俗仏教における「輪廻転生」つまり「衆生は三界六道の世界を流転し続けている」とする無常的宇宙観なのである。
ちなみに表題になっている普賢菩薩は、大乗仏典では格別の地位を与えられており、文殊菩薩とともに、釈迦如来の脇侍とされている。白象のうえで合掌または独鈷を取る姿で図像化されていることが多い(十二世紀つまり平安後期の「絹本著色普賢菩薩像」はその典型)。

じつはわたしはときどき深夜の寝床を蹴つて立ち上がり、突然「死なう」とさけぶことがことがあり、それを聞きつけた文蔵に「まだ死なないのか。」とひやかされる始末であるが、わたしがまだ死なないでゐる秘密はおそらくこのさけびに潜んでゐるらしく、「死なう」といふことばの活力が一刹那にわたしの息を吹きかへさせるのであらうか、げんにわたしが黙々と死について考へてゐるあいひだは眼前の闇は暗澹として涯なく、「死なう」とさけんだとたん、たちまち天に花ふり地に薫立ち、白象の背ゆたかにゆらぎ出ずる衆彩荘厳の菩薩のかんばせ・・・・・・このとき、普賢とはわたしにとつてことばである。

『普賢』七(太字は本文では傍点)

懊悩の種尽きぬこの憂き世にあっては、「ことば」の織りなす天上的幻影のほか、逃げ場はない。作中人物はユカリなる女に激しく懸想しているらしく、厭世気分と生存の心許なさの余り、彼女の「神格化」に余念がないが、肉に幽閉されている「現実的他者」に対し、人は果たして、どこまで<実存>を投げ出せるだろうか。少しでも体重をかければ相手もろとも倒れてしまうに決まっている。衆生の衆生に対する恋愛など吹けば飛ぶようなものなのだ。恋愛には「実存的上昇突破の契機」がなければならない。

恋愛に於ける悲劇とはそれがために人間が堕落するからではなく、その翼に乗つて高翔するに堪へない人間精神の薄弱に由来するものではないか。

『普賢』二

このへんには、『饗宴』や『パイドロス』に顕著なプラトン的なエロス観が認められる。

だが、ここにわたしが奇異の感に打たれたのは、真向から吹きつけるガソリンの煙、砂塵の渦の中にあつて、馥郁といざよふ影は傷つき倒れた心身をずたずたに引き裂く地上の惨苦の代りに、絶え入るむくろを歓喜にゆすぶりよみがへらせる此世ならぬ花の香、三十二相八十種好の微妙を具備した荘厳なる大使のかんばせに疑ひあらず、もはやわが普賢菩薩は夢中の啓示であることをやめ、いつかユカリの衣装の裏に成熟した実体となつてゐて、今や破れ去つた脱穀の下から燦然と輝き出たのであらうが、ユカリをこそ頼りない仮の姿としてのけたこの菩薩顕現の不思議については、わたしはどれほどユカリに感謝しても感謝し過ぎるといふことはあるまい。

『普賢』十一

観世音菩薩の示現をかつて目の当たりに見たばかりか、畏れ多くもその御手に触れたことさえある私は、この感謝のくだりで思わず息をのんでしまった。「彼(佐野)」はスーパーマーケットというおそよ俗塵まみれの場所に、観世音菩薩の権化として柔和優婉の相貌を以て顕れ、「私のやるべきこと」をその存在によって教えてくれた。真実在を観た知識人として、美を愛する者として、哲学者として、求道者として、著述家としての私の進むべき方向を指し示してくれた。いまだ濁世にあり「人間の腐れ皮」を振り捨てられないでいるが、魂はつねに佐野菩薩のぬくもり溢れる睾丸に包まれている。彼の存在こそ「この魂の畏敬のまとであるのみならず、最大の苦悶をいやしてくれる人としてこの世に見出すことのできた、たったひとりの医者」(プラトン『パイドロス』藤沢令夫・訳)なのである。

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