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学会遠征編ショート版 第32話

高級ホテル

 預けていた荷物を回収し、ホテルのキーももらった。僕の部屋は12階だ。エレベーターまではホテルの人が案内してくれた。なんというおもてなしの精神だろうか。こうして自分の部屋までたどり着いた。カギの開け方はわかる。カード挿入口にシュッと一瞬入れればいいのだ。CRAZYのホテルで学んだことである。そして部屋に入って一つ目の感想。高級すぎないかと思わんばかりに興奮した。初めての海外旅行でホテルの衛生面には覚悟を決めていたところだったが、一瞬でその心配は吹き飛んだ。先ほどのチャオプラヤ川を忘れるくらいに清い空間だ。もうエアコンがついていたので涼しくなっている。キングサイズのベッドに、街を一望できる大きな窓。シャワールームはガラス張りでユニットバスになっていたが、ちゃんとしたシャンプーやボディソープも完備されていた。その上、瓶詰の飲料水が4本も用意されていた。これなら安心して寝られそうだ。このホテルを早めに予約しておいて本当に良かったと思う。出発の直前に予約していてはこんないいところには泊まれなかったことだろう。研究費以内で行けてなおかつ会場に近いという条件下では最高と言って差し支えないだろう。とりあえずスマホとモバイルバッテリーを充電して、僕はホテルのキーとアイコンサイアムで買った短パンだけ持ってこの建物を詮索してみることにした。
 エレベーターでエントランスの2Fまで降りる。そのエレベーター内には各界の施設案内が書かれていたが、どれだけじっくり見てもPOOLの文字列を発見できなかった。いったいどこにあるのだろうか。そう思っていたら2Fに着いたのでエレベーターを降りた。この階にもいろいろ面白い施設があるので練り歩いてみることにした。端っこの人気のないところは、空いているドアをよく見ると謎のパーティを催そうとしているところだった。なるほど、ここは団体客の貸し切りなのか。引き返して広いエントランスへ。何やらお土産店のようなところがあったので入ってみた。部屋は電気がついていて明るく穏やかな空間だったが、誰もいなかった。かわいらしいお人形やカーペットが並んでいるのをじっくり見ていると、奥からヨーロッパ系の男性がやって来た。見てるだけとは言ったが、そんなに見たいならとカーペットを広げて色々見せてくれた。何百もの絵柄と需要に合わせた複数の大きさ、さらには切り売りも可能といろいろ見せながら教えてくれた。彼女のアパートにはカーペットが無かったことを伝えたら、オススメのものも教えてくれた。しかし、金額は決して優しいものではない。その上、今の手持ちはホテルのカードキー1枚と短パンのみだ。金目のものは1つもない。スマホすら部屋の中だ。購入できそうもないのでズボンと短パンのポケットも全部見せて今は買えないと悔しそうに断ることにした。そうしたら、クレカ払いも可能で、店自体は18時まで営業していると宣伝してくれた。さらに、日本人でこれだけ英語で会話してくれる人はなかなかいないと興奮までしてくれたのだ。僕自身まだまだ英語は練習中だと答えたが、ここでこれだけ会話できたのはいい経験になっただろう。買い物ではなく英会話の場として思い出になった。
 部屋に戻って夕飯の場所でも考えようとエレベーターに乗ったら、少しばかり違和感を覚えてしまった。このエレベーターは2Fの次が6F以上しか無いのである。奇妙だなと思いながら12Fで降りたが、いくら探しても僕の部屋番号は見つからなかった。ほんの一瞬の間に異空間ヘワープしてしまったのだろうか。スマホが無いので調べることもできない。仕方がないので2Fからやり直そうともう一度エレベーターに乗ったところで気づく。6Fにプールがある!!この勢いで直接6Fに来てしまった。おそらく、2Fだけ繋がっている、別々の建物ということなのだろう。納得したので安心してプールに入れる。僕としては乗るエレベーターを間違えたら寧ろ捜し求めていたプールを発見してしまったのでむしろプラスである。着替える場所は無かったが、スタッフの人に着替えてから来いと言われたのでトイレの個室を借りた。
 プールサイドに足を踏み入れるのは何年ぶりだろうか。思い返せば高校1年の体育の授業で入った以来かもしれない。泳ぐのは好きだが、プールは久しぶりだということだ。そこはCRAZYのホテルにもあったような、まるで南国リゾートの楽園に来たような場所だ。靴箱はあったが服を置いておくロッカーは無かった。最初から裸で来いということだったのだろうか。それなら更衣室が無いのも理解できる。入口で入場者のサインをするとバスタオルを1枚もらえた。寝転がれるベンチがいくつか空いていたので、そこに脱いだ服とタオルを置いておいた。人は何人もいたが、意外にも泳いでいたのは小さな子どもの3人くらいだった。それでもいい。水に入らないとこの先一生後悔してしまう。少し体をほぐして入水してみたら、思っていたより浅かった。浅いところは深さが0.8mほどで、深いところは2.0mになっていた。気持ちがいいので、少し泳いでみた。ゴーグルがないので顔を外に出して泳ぎたいということで、顔出し茶番平泳ぎを敢行した。タイムもフォームも気にせず、ただ楽しむための遊泳だ。久しぶりに泳いだが、溺れることなく端から端まで泳げたので安心した。途中で足でも釣ったりしたら悲しくなるところだった。2m側は足がつかないのでもう一度浅瀬まで泳いだ。なんて気持ちの良い時間なのだろうか。本当は僕も泳ぐのは好きだったのかもしれない。体育の授業は水着の持ち帰りが大変だったり、着替えやぼさぼさになる髪の毛が煩わしかったり、その後の授業が眠くなるのがあまり好きではなかったが、それらを気にしなければこんなに楽しいことはない。気持ちが上がったところでベンチで休むことにした。ここでごろっと寝転がってうっとりするのもまた至福である。学会に行くまでどれだけ論文の執筆や前準備に忙しくしていたことか、出発してからアウェーでどれだけ未知のイベントに立ち向かってきたか、3か月ぐらい前からずっと過密なスケジュールだったため、「何もしない」という時間がいかに幸福か、いかに重要であるかを思い知ることとなった。清清しいほどに青くきれいな空を見ながら、体に付着する水が暑さを和らげながら、のんびりと過ごした。10分くらい寝たかもしれない。プールサイドの奥にはバーもあった。お酒やトロピカルジュースでも飲みながらうっとりしろということだろうか。あいにくこちらに金目のものはないので何も飲むことはできなかった。17時になりそうな頃、プールではおじさんが2人泳いでいた。負けじと僕ももう一往復だけ泳いでおいた。バスタオルで体を拭いてここを退出した。
 この別棟6Fにはプールの他にも様々なアミューズメントパークがある。ジムだ。毎週3回筋トレしている自分にとってはありがたいことこの上ないサービスである。この徳島・バンコク遠征では(和歌山で1か所通り過ぎたが)行きつけのジムが無くて行けなかったので、そろそろ筋トレをしたいという禁断症状が出るころである。その代わりたくさん歩いたじゃないかというのは確かにそうだが、あれはあくまでも有酸素運動である。スクワットがしたい。ベンチプレスがしたい。デッドリフトがしたいのだ。そう思ってジムへと続く道を歩んだ。横にテニスコートもあったが、ラケットがないのでスルーした。この階の奥にジムジムランドは存在していた。旅行までしてこんな辺境の事務に足を運ぶものなど、当然ながら筋トレに脳を侵食された生粋のマッチョだけである。自分もベンチプレスの1パーツにされるのではないかと思いながらも、まずは手堅くダンベル運動からやってみた。25kgのダンベルを両手に1つずつ持ち、デッドリフトっぽいことをする。いつもは60kgでやっているので軽く感じたが、ここまでの疲労を加味すれば十分すぎる負荷である。下半身はプールでぬれた短パンなので、多少乾いているとはいえ何かに座るタイプの運動はさすがに自重した。そのためあまりたくさんのことはできずにここを去ることにしたのである。とはいえジムに行けたというだけで満足なのだ。ジムもプールもなかったらこのホテルの満足度はもう少し低かったことだろう。

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