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【エッセイ】嘘の奴隷

 人は嘘をつくが、その多くはその人の弱さから発せられる。嘘は目の前の現実からの逃避行動の一つなのだ。人は嘘をつくことで、自身の弱さを隠蔽し、言葉で自身を覆い、自分の身を守ったり、自分を強く見せる。そうしなければ、自己叱咤や他者批判から身を守れず、自分の自己同一性を保てないのだ。その点で、人に危害を加えようとする騙す行為と、嘘をつくことは根本的に異なる。

 また、なぜ自身の保身のために嘘をつく必要があるかといえば、人間社会を円滑に維持するという個人の保身とは矛盾する使命を同時に果たすために他ならない。そのため、嘘は人間の社会と個人を共に維持するための発明なのだ。

 ただ、人は嘘を飼い慣らすことに失敗してしまった。嘘を道具として使いすぎるあまり、まるで洋服のようにそれが無ければ生活が出来なくなるほど、人間それ自体と人間が作り出した全てに溶け込んでしまった。だから衣服は嘘の象徴だ。すなわち、嘘がなければ人は自己同一性を保てず、社会はその機能を保てなくなってしまったのだ。

 もはや主従が逆転し、嘘を保つために、個人や社会を動かそうとしている。だから嘘は人を選ぶのだ。嘘が人に同情し、嘘が人を必要とした時にはじめて、人がつく嘘をまるでスイッチを押すかのように有効にする。だからエイプリルフールは、嘘の奴隷に与えられた唯一の自由なのだ。

 そして人はその服を脱ぐことができないから、服はどんどん汚れていく。脱げないから、服を洗うことも着替えることもできない。すると人間はどうするかと言えば、新しい服を汚れた服の上から着るのだ。だから、普通嘘は汚い。本来嘘は綺麗でも汚くもないが、洗濯することも着替えることもしない人間の不潔さと怠惰によって嘘は醜く、汚くなっていくのだ。

 だから、年に一度主人から与えられた権利を使っている暇などない。衣服を破り捨てる、それが嘘の奴隷からの解放なのだ。

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