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【小説】僕の炎

 月が最も天高く上がる時間には、外には誰もいない。街では信号機の点滅の他に動くものはないし、僕が多少叫んだって、走ったって、街の静寂は変わらない。この静寂はある種の安心だ。僕は毎日、この静寂に向かってランニングをする。深夜1時半になるとランニングウェアに着替え、部屋で柔軟体操を始める。
 外へ出るのは寒いから少し躊躇ってしまう。だが、ドアを開けて冷たい風に当たると、鼻がツーンとして、涙が出ると、「ああ、僕の季節がやってきた」と思うのだ。少しばかりしみじみした後にアパート脇の小道を抜けて道路に出ると、僕は道のど真ん中で本格的なストレッチを始める。これは深夜のランニングの特権かもしれない。
 初めは身体を慣らすために上に飛ぶようなイメージで走り出す。たまに膝を胸に当てるほどジャンプしたり、スキップしたりする。だから息は全く上がらないし、テンションも上がらない。
 イヤホンなんてしなくても静かではあるが、僕はいつもシャッフルで音楽を聴く。いつも思うが、人の歩幅を決めるのは音楽だ。バロック音楽を聞けば歩幅は優雅に大きくなるし、ジャズを聞けば不規則に小さくなるし、EDMを聞けば速く高くなる。音楽を本当に聴いているのは、実は耳ではなく、足なのかもしれない。

 ある程度スピードに乗り始めると、足のトルクを上げ、やがて速度の最高点を迎える。当然、僕の肺はヤニに侵されているので、悲鳴のようにヒーヒーと鳴いているが、僕の怒りは治らない。どうしてこんなにも怒っているのかと言えば、この途方もない静寂に対して嫉妬と無力を感じていたからだ。
 家からある程度離れると、人気のない住宅街へ来て、僕はバックから油の染み込んだ新聞紙を取り出し、街路脇のゴミ山に火を放った。この寒い夜空に温かな炎の光が浮かんでいく。人は火を見ると落ち着くのは本当だ。僕は近くの立体駐車場の上まで登り、炎の行方を追う。すると次第に黒煙が立ち上り、世界が広がっていく様を見るんだ。一定時間が経過すると、静寂は喧騒となり、街の明かりがつき始め大きなサイレンが心地いい。やがて、音も光も、影も世界もドップラー効果によるウネリで満たされる。
 街が朝を迎えるころ、ようやく街は落ち着きを取り戻し、僕は直ぐに帰路に着き、僕の趣味は終わりを告げられる。僕がこのような趣味に興じる理由は、あまりない。特に優越感も満足感も感じているわけでもなければ、ストレスを発散できるわけでもない。当然、犯罪という認識はあるし、好奇心やスリルから行っているわけでもなく、ましてや他の人格によって引き起こされているわけではないのだ。ワイドショーでは、よく犯罪心理を分かったように語られているが、おそらくもっとシンプルだと思う。花に水をやること、掃除をすること、読書すること、それらと特に変わらない。当然、罪で罰せられる点で異なるが、だとしてもその罰がデメリットだと感じると言う前提がなければ、その違いは有効ではないのだ。確かにこの考えは一般的には異常であるだろうが、この「異常さ」とは「病的」という意味ではなく、単に「特殊」という意味に過ぎないのだ。

 僕はいつも綺麗な朝日を見ることができる。この時期の朝は、妙に美しい。光が冷却された空気に散々し、毎日虹を見ることができる。僕はこの世の残酷な美しさを見ることができた気がする。はい、そうです。連続放火犯は僕です。

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