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「聖母のように」 (短編小説)


 カフカの「変身」の主人公であるグレゴール・ザムザは、目覚めると毒虫になっている最悪な朝だったが、私の目覚めの方がもっと悪かった。 
 なぜなら、目覚めると昨日と変わらぬ「私」だったのだから……。

 42年間、私は私で在りつづけたが何も秀でる物が無かった。

 中学時代のあだ名が「シースルー」。

 「海を突き抜ける」カッコ良さに内心喜んでいたが、母親の何気ない会話に真意を見つけた時には、自分自身のバカさ加減に枕に顔を押し付けて泣いた。

 私の見た目同様に平凡な5流大学になんとか引っ掛かり、平凡に卒業を迎えた。

 聞いたことのない、ある商社に何とか転がり込み日々をこなしていると、やがて係長の役職を拝命した。

 あからさまな年功序列人事だったのだか、役職が付いたことで、どうやら少しは透明度は落ちたようだ。

 生涯、女性とは縁がないと諦めていたが、幸い脳天気が取り柄の妻と知り合い、子供には恵まれなかったが何とか生きてる、至極平凡だが……。

 妻はそんな私に興味がないのだろう、毎日のように早朝から出かける準備をし、いくつもの習い事をしているようだ。

 まるで、くだらないわたしのような男に捕まった事に対する当て付けのように。

 妻も習い事の講師と何をしているかわかったもんじゃない。

私はただ、食物を分解し、大気から酸素を取り込み、二酸化炭素を吐き出している有機体。

 目標なんかない。

 私は給料運搬人としての責務をただ果たしているだけの日常が、永遠のモノクロ映画のように続くばかりである。




 通勤のため早朝のホームに立っていると、不意に「このまま列車に吸い込まれたら……」と考えてしまうようになっていた。

 「何してんですか!」

 その声に我に返るとホームの端で落ちそうになる私の腕をつかむ、細い手があった。

 柳眉の下で大きな眼がこちらを見ていた。

 白磁器の様とまではいかないが、白く品の良さそうな顔が肩まで掛かる髪を揺らしながら、私を点字ブロックの内側まで引っ張り入れた。

 「危なかったんですよ……、咄嗟だったんでごめんなさい」
 涙ぐむその娘をぼんやり見ながら、何故泣いているのか解らなかった。




 それから毎日、駅で彼女を見かけるようになった。

 大きな仕事カバンの取っ手を肩に掛け、華奢なスーツ姿の彼女は人波に流されないように懸命に進んでいた。

 ふとこちらに気付くと、破顔一笑し真っ直ぐ向かって来た。
 「おはようございますっ」
 ハキハキとした声に自分自身のもやが消えて行くようだ。
 聞けば彼女はとある会社で助手をしているという。
 実は今も仕事中なのだと言うが「それは言えません」守秘義務だと笑う。

 人混みに消えていく彼女の背中を見送ると、私は意を決したように会社に向かった。

 「あら、あなた。 何か良いことがあったの?」
 帰宅すると、妻が鍋を温め直しながら聞いてきた。
 いつもは冷たく感じる妻の口元のホクロが、最近は色っぽく思える。

 あの朝から毎日彼女と駅で顔を合わせ、会釈したり、二言三言交わすようになった。
 やがて休日に待ち合わせて、おすすめの店にランチをと連れ立って行くまでに関係が進んだ。
 私のような朴念仁は世の流行りなど無縁で、彼女から得る体験は刺激的でもあり「彼女の内面を識る」ことのよろこびが乾いた大地に雨水が染み込んでいくような心地さえ感じた。

 その頃から、世界には色というものがあるのだと気付いた。
 鮮やかに彩られ、毎日の陽の出と共に生まれ直す万物に、初めて感謝したいと思うようになり自身驚きを隠せない。

 朝、仕事に向かえば彼女に逢える、不思議と仕事も楽しく思えて、積極的な業務に上司の覚えもいい。

 いまの私は、朝のひととき彼女の聖母のような柔和な微笑みが無くてはならない大切なものになっている。

 妻との間に、会話が生まれた。 少しの後ろめたさもあり、連れ立って外食するようになっていた。

 

最近になって「生きる」ということは、あまり深く悩まなくても自らが好きだと思うものに対する感情に支えられ続けて行くのではと思う。

 妻の習い事も、駅で会う彼女の仕事に対する真摯さも、私が彼女に抱く小さな感情も。

 確固たる自信が充たされている身体が、もう透けて見えることはないだろう。








 「はい、お疲れさま。 これ、いつものね」

 駅前の喫茶店で、スーツ姿の若い女性と、やや年上の女性がテーブルについていた。

 ふたりの間には、ふたつのコーヒーカップと白い厚みのある封筒。

 「あ、ありがとうございます。 でも、あたしでよろしいんですか、奥様」

 若い女性はその柳眉の下の大きな眼に心配そうな光を宿していた。

 「あなたは適役だわ。 あのひとにはまだ頑張って貰わないと。 私が支えてあげないとダメなのよ」

ホクロのそばの紅い唇が、喫茶店の窓からの朝の光を受け優しく微笑んだ。

さながら、聖母ように。




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