93歳の想い
とある日の夜。
夕飯を食べ終えた頃、病棟がバタバタしだした。同室に入院してくる方がいるようだ。
相変わらず、カーテン越しの会話や出来事が、盗まなくても聴こえてしまう状況なので、病室内での一部始終が伝わってきてしまう。
病室にストレッチャーが入ってくる音がする。そこから「せーの。」の掛け声でベッドに移る音。
「痛い痛い。」というおばあさんの声が響く。
左足大腿骨を骨折しているようだ。足の牽引をしているらしい。体を動かすたびに痛みが強い様子で、唸り声が聞こえる。
「足の骨が折れているので、しばらくは痛みがあると思いますよ。」
看護師さんが声を掛けるも、耳が遠いようでよく聞こえていない様子。補聴器は持参しているが、充電が切れているらしい。
再度、看護師さんがゆっくりと大きめの声で、骨折しているから足が痛いことを説明する。
「えっ?骨折しているんですか?」
びっくりな返答だった。私だけではなく、看護師さんや同室の方たちも「おばあさん!知らなかったの?」と思ったであろう。
病室に来る前に、救急外来でレントゲンなど必要な検査をし、もちろんその検査結果は、医師から説明があったはずである。
そして、手術を行うことも。
しかし推測するに、おばあさんは、補聴器なしでは医師の声はよく聞こえておらず、把握できていなかったのかもしれない。
または、ご家族は来院していたらしいので、医師は家族に向けて説明したのかもしれない。
私の入院時を思い出すと、自身はストレッチャーに乗ってるので、医師は同席している夫に向けて説明をしていた。私には医師の声は聞こえていたが、顔は見えていなかった。
足を骨折して、入院することになった事は、やっとおばあさんに分かってもらえたようだった。
次に、名前や年齢の確認と既往歴などの確認をしていく。ゆっくりだが、しっかりとした口調で答えている。
おばあさんは現在93歳だった。
問題はそのあと、看護師さんが、手術前日からの流れの説明をし始めた時だ。
「手術ですか?・・・私は、手術はしません。」
という言葉が飛び出した。
その後に続けて、
「もうこんな歳ですので、もうすぐお迎えがきますから。手術はしたくないんです。」
驚きの展開に、看護師さんがどんな返事をするのかと固唾を呑んだ。
「そうですか、わかりました。」
看護師さんはやさしく言った。
一旦引いたのだ。
その場で無理に押し通さずに。
おばあさんの気持ちを尊重しての対応に、私は感心した。私なら正論で説得してしまいそうだ。
「絶対に迷惑をかけないように、いつもいつも気を付けていたのに。自宅のお勝手で転んでしまって、こんな事になってしまった。」
と話すおばあさんは、深い自責の念に駆られてるようだった。
おばあさんの気持ちを推し量るには、人生経験が足りない私だが、93歳で手術となれば、リスクもあるし、予後のことも考えたら、躊躇してしまうのもわかる。
お迎えが来てほしいという気持ちになるのも仕方がない。
しばらくすると、整形外科の医師が病室に入ってきた。おばあさんに、いま一度説明をするために来てくれたのだ。
・手術を躊躇する方は多いけれど、骨折の場合は、手術をしない方が痛みからなかなか解放されず、苦しむことになる。
・手術をしないとなれば、入院はできなくなるので、このまま自宅に帰らなければならなくなる。
・今、自宅に帰ることになれば、誰かが付きっきりで、あなたのお世話をする必要がでてくる。しかも予後が長くなる。
・総合的に考えると手術をして、リハビリをした方が早く動けるようになる。
医師は丁寧に、こんな内容の話をしたと思う。
しばらくの沈黙のあと、おばあさんは手術をすることを決めたようだった。
翌日、おばあさんは、ナースステーションに近い病室に移動になり、その後の様子はわからない。
手術が順調に終わって、今の痛みから少しでも解放されていることを願うばかりだ。
そして、もう少し生きていたい、と思えるくらい回復しますように。
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