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垂水島津家関係の史跡

鹿児島県垂水市はかつて垂水島津家が治めていた。
そのうちの一人、島津久信にまつわる史跡を紹介する。

島津 久信(しまづ ひさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。薩摩国島津氏の分家・垂水家2代当主(4代とも)。

文禄4年12月27日(1596年1月26日)、大隅国清水より転じて鹿屋・大姶良所々8千石余を賜う。慶長9年(1604年)2月、祖父・島津以久の上洛の際に、徳川家康より佐土原を与えられた。この時、以久は本領の大隅の地を久信に譲った。慶長9年12月15日(1605年2月2日)に垂水城に移る。

島津宗家16代当主・島津義久には跡継ぎとなる男子がなく、また義久の三女・亀寿と島津忠恒(家久)との間にも子はなかったため、義久は外孫である久信も後継者の一人と考えたが、家臣の反対に遭い頓挫した。

嫡子で島津豊久の甥でもある久敏の廃嫡を画策した挙句に、それを諫めた重臣を手討ちにしたことで元和2年(1616年)、隠居を命じられ、久敏に家督を譲る。

寛永14年5月11日(1637年7月3日)、鹿屋にて死去した。享年53。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/島津久信

島津久信は、鹿屋にて、おきんという美少女に惚れて家に毎日押しかけて口説いたという。

しかしおきんに拒否されると逆上し、大きな瓶に彼女を縛って入れて、更にムカデ、クモ、カエル、マムシ、毒ヘビなどを入れた。
そしてその瓶を沼の真ん中に置いて、おきんさんは七日七夜叫びながら死んでいったという。悲鳴はずっと響き渡っていたとも言われる。


鹿屋市新生町におきんさんの供養塔がある。この近くに沼があったらしいが、現在はもうない。

久信の墓は鹿屋市の安養寺にあった。


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